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2009年11月14日

「新世界」6

 結局、あの日カネロニを二回もおかわりした薔薇は、それからしばしば巨蟹宮を訪れ、おれに手ずから淹れた茶をふるまったり、頼んでも居ない裏庭の掃除をしたりするようになった。世話していたはずの薔薇に、自分が世話を焼かれるというありさまだ。意味がわからない。
 おれのシルクのシャツを勝手にかつ豪快に洗濯してよれよれにするまでは渋面で許してやったが、おれが死ぬ前から欲しかったジャガールクルトの腕時計を贈ってくるに及んで、おれの我慢も限界に達した。
「おまえはこないだっからなんなんだよ一体、おれに嫌がらせでもしているつもりなのか」
「嫌がらせ? なぜ」
 おれのソファに姿勢良く腰掛けた薔薇は、わからない、というように首を傾げ、さらりと黄金色の髪が鳴った。ただそれだけで、あたかも薔薇が芳香を放つようだ。クソ。
 ローテーブルの上に置きっぱなしの時計とかぐわしい紅茶を一瞥して、おれはまた薔薇をにらんだ。たちっぱなしで煙草をふかしつづけ、煙に顔をしかめる薔薇にわざと吹き付けてやりさえしたのだが、それでも薔薇は黙って座っている。
「嫌がらせじゃなけりゃあなんだ、生き返った時に頭のどっかの回路がイカれでもしたか」
「…君は、私がおかしいと言いたいのか」
「ああそうだ、おかしいね。お前はおかしい」
 薔薇はじっと考え込むと、深刻そうな表情でぽつりと言った。
「私はおかしいとは思っていない。だが、君がそう言うのならそうなのかもしれない」
 流石に気の毒になって、フォローの言葉を考えてみたが、何も思いつかない。
 馬鹿みたいに黙り込んだおれを見上げ、やがて薔薇は真面目な顔で口をひらいた。
「デス」
「何だよ」
「そんなおかしい私では、やっぱり君の恋人にはしてもらえないのだろうか」
 おれはまた言葉につまった。おかしい恋人…というのは曖昧すぎて、考えてみてもよくわからない。そもそも、何か話が変な方向に行っている気がする。だがとりあえず、薔薇は薔薇で、恋愛対象として考えたことなんてなかったし、答えも思いつかない。わからないから黙ったままで居ると、薔薇は少し俯いてまたちいさな声を出した。
「私は君の恋人になりたかった。でも、君が嫌だというなら…諦めるしかないのだろうな。頭ではそう、わかっているのだが…」
 薔薇らしくもなく語尾を濁していよいよ俯いてしまう。そのつむじに大きく息をつくと、薔薇はおれの溜め息にちいさく肩をふるわせた。
「おまえ、どうしたいんだよ」
 薔薇は俯いたまま、君の恋人になりたいのだ、と繰り返す。
「意味わかんねえんだよ。それって、具体的に何がしたいんだ」
 薔薇はしばらく黙り込み、やがて顔をそっとあげるとためらいがちに口をひらいた。
「…キスがほしい」


(つづく)



2009年11月05日

「新世界」5

 蟹座は古代中国の二十八宿では鬼宿と言われ、積尸気をつかさどるとされている。その縁あってか、蟹座の聖闘士は代々積尸気への通路を開くという必殺技を受け継ぎ、またそれに付随する異能もよく発揮する、らしい。
 おれに黄金聖闘士としての修業をつけてくれた師匠は、そんなことを説明しながら、だから蟹座は孤独をむねとすべし、なんて言ったものだ。おれは最初から仲間となれ合う気なんかなかったから、そんな忠告は聞き流していた。だがやがて黄金聖闘士としてサンクチュアリに生活するようになると、その言葉の意味をまざまざと思い知るようになった。
 聖闘士であれば、任務を遂行するうちにどこかで必ず殺戮、凶行を手段として必要とする時がある。そんな聖闘士たちのなかにあってさえ、蟹座の、というかおれの能力は異端だった。
 積尸気冥界波――人間の魂を直接積尸気に飛ばし、死に至らしめる。身体ではなく魂が殺されるという異常な死をしいられるためか、死んだ者の怨念は巨蟹宮に強く残り、デスマスクとなって現れる。
 我ながら異常な能力で、異常なありようだと思う。そしてそれは余人には理解の及ばない力であり、世界であるらしかった。誰も積尸気を見たことはなく、要するにおれの世界には、対戦相手をのぞけば永久におれ一人しか居ないようなものだった。おれの世界に入り込み対峙した敵はすぐに死に至り、残るのは累々とつらなる死の徴のみ、デスマスクが居並ぶ宮に、ただ一人で生きる――
 おれは流石にしんどくなった。おれが蟹座であり続けるためには、何らかの理由が――生きるためではない、アテナのためではない、何かもっとくだらない、切実でない理由が必要だった。
 そんなおれの前に、薔薇の若木が登場したのだ。おれはその美しさに素直に感心し、この薔薇を育ててやろうと考えた。それからおれは薔薇の任務をこっそり肩代わりしたり、長期の任務のあとには薔薇の好きそうな土産を持ち帰ったり――とにかく相当手をかけた。ただし、あいつに絶対ばれないようにして。薔薇は薔薇で、人間とは永久に没交渉の生き物だ。
 おれにとって、あれは大事な大事な薔薇――という「設定」なんであり、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。


(つづく)



2009年10月31日

「新世界」4

 花は咲かせて愛でるものであって、手折るものじゃあない。
 水をやって毛虫をとって、陽をあてたり肥料をやったりしていても、そんなのは人間が勝手にやっていることで、花は感謝などする義務はない。おれがキツい任務をこっそり肩代わりしてやったり、不埒な雑兵を追い払ってやったりしていたからって、そんなのあいつは知る必要すらないことだ。
 薔薇なんだから、ただきれいに咲いていればそれでいい。薔薇なんだから、そもそも意思の疎通が出来るような相手じゃあない。
 おれはずっとそう思っていたし、今でもそう思ってる。
 だから薔薇が突然人間の言葉をしゃべり出したときは、おれはあまりのことに暫く呆然としてしまった。あんまり驚いたものだから、うまく返事も出来やしなかったくらいだ。
「君が好きだ。最初の死より前から、ずっと」
「はあ? 何言ってんだ、おまえ」
 最悪だった。告白をふるにしても受けとるにしても最低最悪な返事だと、我ながら流石に思う。
 薔薇も随分青ざめた顔をして、黙り込んでいた。おれは自分の失言に動揺して、何のフォローもせずにその場を立ち去ってしまい、あとで巨蟹宮の自室のベッドの上でのたうちまわって後悔した。おれの心ない言葉に薔薇は傷ついただろうと悔やみ、せっかく丹精して育てた薔薇に自分で疵をつけてしまったことに随分がっかりした。
 だが、薔薇は流石にそれほど弱い生き物ではなかったらしい。まあ、何しろあれでも黄金聖闘士だ。翌日には何事もなかったような顔で双魚宮の薔薇園で水まきをして、教皇の間へ向かうおれを見つけるとにっこり微笑んで言ったものだ。
「おはよう、デス。今日もいい天気だ」
 おれはまたしても情報処理が追いつかなかった。
 前日の薔薇の言葉の真意はおいとくにしても、あんな扱いをされていくらなんでもおれに愛想をつかしたことだろうと思っていたのに、まったく平気な顔で―― 少なくとも表面的にはおれの暴言を気にしてなんかいないように、きれいに微笑んでいるのだ。おれは気まずくまた少々恐ろしくなり、おうとかああとか適当な返事をして、そそくさと薔薇の前から逃げ出したのだった。


(つづく)



2009年10月26日

「新世界」3

「どう思うよ」
「どうって、何がだ」
「アレだよ」
「アレ?」
 シュラは眉根を寄せて首をかしげ、首をかしげるのも当たり前だと思うのだが、おれはだだっ子みたいに口をとがらせた。
「ほら、アレだよ、わかんだろ」
「アレか」
 シュラは深々と頷いた…ほんとにわかってんのかこいつ。
「そう、アレ。何なんだよ、あいつ。生き返って、どうかしちまったんじゃねえのか」
 ああ、と頷き直した…やっぱりわかってなかったんじゃねえか。
「まあ、おかしいのは確かだな…前から変わったところのあるやつだったが」
「そりゃわかってるけどよ、生き返ってからはちょっと常軌を逸脱してるだろ」
「お前、そこまで言うか」
 シュラは三本目のワインを最後の一滴まで自分のグラスに注いでしまうと、おれに振り返った。
「おい、もうないぞ」
「おれはお前の嫁か…もうここいらでよしとけよ。夕方からまたミーティングだろ」
「何だデスマスク、お前らしくもない…あ」
「あっ」
 獅子宮からの階段を降りてきた妙にきらきらした人影は、テラスで飲んだくれているおれたち…いや、おれを見つけると、いや自意識過剰ではなくてまさにおれだけに、にっこり微笑んだ。
「デス」
 本当、薔薇が咲きほころぶみたいに笑いやがる。クソったれ。
「アフロディーテ、昼飯は食べたのか、まだなら一緒にどうだ。デスマスクのつくったイタリア料理のナントカという焼き物があるぞ」
「本当か、私がいただいてもいいのだろうか」
 おれの口の端がひくりと痙攣した。シュラのやつ、一体何を言い出す気だ。こいつがおかしいって同意していたクセに…思えば、シュラは昔からこいつに甘い気がするぞ。
 このおかしな、おかしくなってしまった魚座とわざわざ同席しようだなんて冗談じゃあない。そんな内心のおれの苛立ちは届かなかったらしく、シュラはのんきな顔でおれに問うた。
「構わんだろう、なあデスマスク」
「…別に、好きにしろよ」
「そうか、ではありがたくいただくことにする」
 …畜生、魚座はまた花のように美しく微笑んだ。


(つづく)



2009年10月21日

「新世界」2

「オリーブ、パルミジャーノに、キャンティクラシコね、まー悪くないね、悪くないよ」
「ああ、こんなもんだろう。碌でもないイタリアワインしかないのはしゃくだが、今日は我慢しといてやる」
「ま、シチリアワインには劣るけどよ、悪くないぜ。殊にここの農園のは悪くない」
 くるくるとソムリエナイフをまわすおれに、シュラはきれいに磨き上げたグラスをテーブルの上にふたつならべながら苦笑している。
「随分ご機嫌だな」
「そりゃな、久々だからな。ほら、とれよ」
 赤い液体を勢いよくそそぎ、シュラが手にしたグラスに、自分のグラスをぶつけて行儀のわるい音をたててやった。
「サルーテ!」
「サルー!」
 二カ国語で唱和して、一気にあおる。
「悪かないだろ?」
「…悪くないな」
 久々だからな、とおれの言葉を繰り返して、シュラはめずらしく歯を見せて笑った。
 何しろ生き返ってから一杯目のワインだ、うまくない訳がないのだ。
 同い年ということもあって、山羊座のシュラとは死ぬ前からそこそこ親しい付き合いがあった。同い年で黄金聖闘士、それになによりスペイン出身のやつとシチリア出身のおれは、アンチフランスワインの同士なのだ。
 生き返ってから今日で三日、さまざまな用事はまだほとんど片付いていないのだが、シュラとおれは示し合わせて昼食を一緒にとっていた。昼食というか、メインはむしろ酒という感じだが。
 オーブンにはおれの手製のカネロニを入れてあるし、シュラの倉庫に死ぬ前から入ってたオリーブのびんは賞味期限に間に合ったし、ワインはうまいし、風は気持ちいいし。気のおけない友人とのくだらない会話も心地いい――まあ、ここに帰ってきたのもそう悪いことでもなかったか。おれは気分良く杯をかさねて、たぶんそこそこ酔っぱらっていた。


(つづく)



2009年10月19日

「新世界」1

※蟹魚です。




「新世界」
 ――或いは、死神聖闘士の園芸日記


 あれこれの紆余曲折をへて、おれはサンクチュアリに戻ってきた。
 久しぶりのサンクチュアリは案の定全く相変わらずで、おれをうんざりさせてくれた。
 おれとしては、陰気な上に死ぬほど退屈な巨蟹宮にまた閉じ込められるくらいなら、この世に戻って来られようが来られまいがどうでもよかった。だが、また冥界に行くのも本当に死ぬのも多少面倒だったし、アテナの恩着せがましい微笑みに反抗するのももう面倒くさかったから、殊勝に感謝するフリをしておいた。

 まあ折角だから、アテナの命令だのの仕事は適当にやり過ごしておいて、時々サンクチュアリを抜け出して。美味いワインでも飲んで、綺麗なお姉ちゃんと仲良くして――あと何年か、何十年か、そんな風に過ごしてまた死ぬだけだ。本当、どうでも構わない。
 何もかもどうでもいい、それは本当なんだがしかし、久々に戻ってきたサンクチュアリは全く相変わらずで、大いに変わっていた。おれが丹精した薔薇が、大いに狂い咲きをしていたのだ。


(つづく)



2009年10月03日

「アリオーソ」7

「シチリアの方言だとti amu、になる」
「…そうなのか。ti amu、か」
 私は素直に頷いた。デスマスクは少し笑うと、やっと私の目を見た。
「ま、お前は標準語で充分だろ。なんだよ、恋人がイタリア人なのか?」
「そうなるといいと思っている。どう思う?」
 問い返す私に、彼はまたふっと笑った。相変わらずいやな笑い方をする男だ。
「テレビで覚えたにしちゃ悪くない発音だったぜ。愛を告げる時には、花でも一緒に渡してやりな。お前の得意な薔薇でもさ」
「薔薇か。薔薇は今ない。では、だめなのだろうか」
「は?」
 変な顔をしているデスマスクに、私はなおも言いつのった。
「返事をきかせてほしい」
「…は?」
「君にきいてもらいたかったと言っただろう。ti amu、君が好きだ。最初の死より前から、ずっと」
「……………は?」
 壊れた機械のように反応が鈍くなってしまったデスマスクの返事を、私は辛抱強く待った。アイオロスの言っていたとおり、時間はたっぷりあるのだ。

 彼が私を嫌いでも、からかっていても馬鹿にしていても、なんでもいい。でも、私の外見くらいには、興味をもってくれるだろうか。
 なにしろ私は自分の美貌にだけは多少の自信があるし、そして彼のくれた本当に数少ない言葉たちは、きちんとすべて覚えているのだ。まだほんの幼い頃の、初めて出会ったときの言葉さえも。

『Ciao, bello! Sei belissima assai!(よお、美人!マジでイカスな!)』

(おしまい)

---
 唐突に、ン年ごしの、そして初めての星矢二次、初めてのデスアフロ、です。
 星矢二次はともかくとして、まさかよもやデスアフロを書くことになろうとは…ン年前の自分には、というかほんの一年半前の自分にも、思いもよらなかったことでございます。萌えというのは、ほんとうにわからないものですね(笑

 まえがき(?)のとおり、あたしが最も敬愛している(現在形で)星矢サイトさま、お名前を出してしまいますが、BOOTSTRAPさまがいらっしゃらなくて、さびしくて仕方のないこの頃なのです(ご復活を心から願っております。そんなもんもんとした気持をここ一年くらいずっと持っていたのですが、とっても唐突に、発作的にこのような二次を書いてしまいました。校正もしていないのでへんなところも多いですし、また手を入れるかもしれません。あと(あえて)原作を読み返してないので、二次創作のイメージ先行ですがまあいいか。

 はずみがついてしまったので、もうちょっと書きたいですね、星矢二次。デスアフロもいいし、サガリアとかロスリアとかもいいな(笑



2009年10月02日

「アリオーソ」6

 急ブレーキをかけたために、私は前につんのめりそうになった。
「…あっぶねえなあ、ったく。そんなに急いでどこに行くってんだ? 生き返ったばっかりで、一体何をするつもりなんだよ?」
 私の腕をとって転ぶのをふせいでくれたのは、あの男だった。私は彼を睨んでやった。
「あぶなかったのは、君がいきなり声をかけて私を驚かせたからだ…君も甦っていたのだな」
「なんだよ」
「サガは聖戦に貢献した聖闘士が甦った、と言っていた。君もちゃんと甦っていたのだな。もしやだめかと心配してしまった」
 私の言葉を嫌味と受け取ったのか、男はいやな顔をしたが、反論はしなかった。自覚があるのだろう。
 私はきちんと彼に向かい合った。せっかく甦ったというのに、相変わらず昏い男だ。服装も相変わらず下品すれすれの派手な服で、そういえばアテナが私たちを甦らせてくださった時には、一体どのように服を選ばれたのだろう。私は簡単な白いシャツなのだが。
 …いや、服のことは今はどうでもよい。私はこほんと空咳をして、彼の目をまっすぐに見つめた。
「ところで、先ほどの言葉だが」
「あ?」
「イタリア語だろう。もしかして、最初に会ったときもあのように言っていたのか」
「…あー、よく覚えてたな」
 んな古いこと、とぼやく彼に、私は真面目な顔をつくろった。
「…デスマスク」
「なんだよ」
「ti amo」
 彼は驚いた顔で私を見返した。
「と、いうのだろう、確か。びっくりしたか? こう見えて私は、テレビの講座でイタリア語を勉強していたのだ。ずっと君にきいてもらいたかった。君はシチリア島出身だと聞いていたから」
 ti amo、愛しているという意のイタリア語だ。初級の講座のごく冒頭から登場していたこの言葉は、イタリアでは相当頻出の言葉なのだろう。軽薄なものだ。
 デスマスクは少し黙った後、ふいと横を向いて呟いた。
「…ti amu」
「え?」

(つづく)



2009年10月01日

「アリオーソ」5

 私は懐かしいサンクチュアリに立っていた。
 ふわりと乾いた風が頬をかすめる、懐かしい砂埃とかすかな緑のかおり。
 目の前には、サガと、そしてアイオリアによく似た男が立っていた。驚くべきことではあるが、おそらく彼は射手座の――
「お帰り、アフロディーテ。お前は甦ったのだ」
「…え?」
 サガが優しげに微笑んでいる。うまく声が出ずこほ、とちいさく咳をした私に、アイオロスが晴れやかな笑顔で言った。
「久しいな、ディーテ。元気だったか?」
「アイオロス、元気なわけがなかろう。彼は今の今まで死んでいたのだ」
「だがおれが死んで後は元気だったのだろう」
 サガとアイオロスの暢気なやりとりについて行けず、黙ったまま見守っていると、サガがこちらににっこり微笑んで口を開いた。
「アフロディーテ、聖戦は終わったのだ。そして、アテナは聖戦に貢献した聖闘士たちを、そのお慈悲で甦らせてくださった。まあ、冥界との取引などもあったようだが…とにかく、お前は再びピスケスのアフロディーテだ」
「…そんなことって」
 動揺のあまり声が震えるのが、自分でもわかった。
「いや…現世に戻らせていただくまではわかりますが、…ピスケスとして、というのは、しかし」
 私の言葉にまなざしをゆらがせたサガにかわって、アイオロスが朗らかに笑った。
「その理由も正当性もそのほかのことも、これからゆっくり悩めばいいさ。まだ随分、時間の猶予ができたようだから」
「…そうだな、アイオロスの言うとおりだ。アフロディーテ、とりあえず自分の宮で休みなさい。休んで、それからゆっくり話そう。後で皆と顔をあわせる時間をつくるつもりだよ」
 サガはそう言って私の後ろの双魚宮を示すと、そのまま教皇の間の方へと歩き出した。アイオロスはその後に続きながら、私に振り返るとまた笑った。
「お前で最後だ。私たち二人のほかは、下階の宮のものから甦らせたそうだから。待たせてしまって悪かったな」

 私はぼんやりと二人を見送り、それから双魚宮をしばらく見上げ、くるりと踵を返した、そのまま走り出す。身体は意のままに軽い。昨日の続きのように、しっくりと私の身体だ。十二宮をつなぐ階段を一段飛ばしで降りてゆく、スピードがどんどん早くなる。磨羯宮のあたりでシュラとすれ違ったような気がしたけれど、声をかけるいとまもない。
 一心に前だけを見つめ十二宮を駆け降りる私の背中に、明るい声が聞こえた。
「Ciao, bello! Sei belissima assai!」
「…あ!」

(つづく)



2009年09月30日

「アリオーソ」4

 だが、やがて先の教皇という男がやってくると、すべては一変した。シオンという名の前教皇は、私たちが小宇宙を保ったまま冥界にたどり着いたのは何も偶然ではない、死者たる私たちにもまだ黄金聖闘士としてなすべき使命があるのだ、といった。
 私たちは興奮した。数百年ぶりに地上に降り立ったアテナに何の奉公も出来ぬまま朽ちてしまうのではなく、まだ何か出来ることがあるのだと言う。
 そのためには、冥王に忠誠を誓い冥闘士となる必要がある、と聞かされたときにも迷わなかった。どうせアテナに逆らった逆賊の身だ、今更黄金聖闘士の矜恃も何もあったものではない。それよりは、この身を有効に使いたい。

 サガやカミュがそう喜んでいる横で、彼はまた昏い笑い方をしていた。
 また肉体が手に入るだって? ありがたい話じゃねえか、アテナはどうでもいいが、少しでも長く現世を楽しませてもらうぜ。
 男の笑いに眉をひそめつつぼんやりしていた私は、何時の間にか彼とともに先兵をつとめる役割を振られていた。サガと、そしてシオンの命では逆らうことなど出来はしない。私は仕方なく彼との共同作戦を遂行し、――彼の悪態も露悪的な強がりなのかも知れないなどとよく考えようとした自分を大いに後悔しながら、再びの死を死んだのだった。

 …それでも最後の最後には、私の小宇宙も少しは役に立てたことだろう。
 嘆きの壁での記憶は殆ど思い出せない。きっとそれは、私の走馬燈が終わる予兆なのだろう。
 私は月夜を歩いている。
 もうすぐこの道も終わるのだろう。
 月の光の下を一人歩きながら、最後の時を思い返そうと試みる。彼は、あの時一緒だっただろうか。どうだろう。もう何も思い出せない。全ての記憶を闇にかえして、そして私も――
「...i, belissim...ssai」
 どこかで聴いたような声が聞こえ、私はついと振り向いた、瞬間。

(つづく)

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