恋は桃色
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 保険医の中山の車で病院から帰ってきたギイの左腕は、ぐるぐると包帯で巻かれていた。寮の談話室で待っていた託生は、急いで玄関に迎えに出たもの、既にギイの周囲には、人だかりといっていいほどの寮生が集まってしまっていた。友人たちに取り囲まれていたギイは、けれど託生に気づくと、笑いながらこちらに無事な右手をあげてみせた。
 学校を出るときには、我慢してはいたようだけれどかなり痛みを感じていたようだったのにと、意外に元気そうなギイに、託生はひとまずは安心した。けれど友人や先輩たちに囲まれているギイにはなかなか近づけず、人の輪から離れて部屋に向かいがてら、やっとギイに話しかけることができた。
「ギイ、大丈夫?」
「ああ、手首、ねんざだってさ」
「ごめんね、ぼくのせいで」
「託生は何も悪く無いだろ。そんなに大ケガってわけでもないし、気にするなよ」
 明るく笑ってそういうギイに、託生もようやく笑い返すことができた。
 ギイはそういってはくれるけれど、そして確かに、階段から落ちてしまったのは、高林の取り巻きのせいではあるけれど。ギイが託生を助けてくれたのは、事実である。
「それじゃ………ありがとう、ギイ」
「どういたしまして」
 部屋に戻り、とりあえずは着替えようとしたところで、ひかえめなノックの音がきこえる。
「どうぞ、開いてるよ」
 ギイが声をかけると、やや間があって、そっと扉が開いた。
「葉山、ギイ」
「………高林」
 扉の向こうには、高林が悄然として立っていた。少し後ろには、高林の同室者である吉沢もいる。
「ふたりとも、本当にごめんなさい」
 あまりに素直に頭を下げた高林を、ギイも託生も無言で見つめるしかなかった。
「俺のせいで、葉山にいやな思いをさせて、あげくギイにケガまでさせちゃって、ごめん」
 しばしの沈黙ののち、ギイはひょいと肩をすくめて口をひらいた。
「わかれば、いいさ。託生は無事だったし、オレもねんざで済んだし」
「ギイ」
 託生は思わず、ギイを振り返った。あっけらかんとした言葉に、驚いてしまう。一番の被害を被っているのは、ギイだろうに。
 もっとも託生は、ギイが許すというのなら、反対はできないけれど。
 ふと、高林の背後にひかえるようにして立っている吉沢と目が合った。わざわざついてきているということは、吉沢が高林に注意でもしたのだろうか。高林のわがままに振り回されていた吉沢を思い出し、その状況の変化に少し心が軽くなった。
 なさけない顔をした高林と目があい、託生は言葉にまよって、結局ただ頷いてみせた。高林もそれで納得したように、「ごめん」ともう一度繰り返し、吉沢に付き添われるようにして帰って行った。
 なんとなく二人を見送っていると、背後からギイが声をかけてきた。
「託生」
「うん?」
「高林とのトラブル、オレのせいだったんだろ」
 振り返ると、ギイは真面目な顔で、こちらを見つめていた。
 何も報告などしていなかったけれど、今日の高林とのやりとりで、高林が嫉妬心から託生にからんできたことに気づいていたのだろう。あるいは、過去に高林からアプローチを受けたことがあったのかもしれない。
「ごめんな、託生」
「あ、ううん、それこそギイのせいじゃ、ないよ。それに、ぼくはケガすらしていないんだし」
「そっか、………サンキュ」
 ギイはふっと笑い、室内へと託生を促した。
「じゃ、着替えるか」
「うん、そうだね」
 それぞれのクロゼットの前に向かい、普段着をとりだす。託生は自分も着替えつつ、ギイの様子をうかがった。タイを抜こうとつい左腕をあげかけて、気づいたように降ろしている。なんとか右手だけでタイをとりのぞき、包帯をよけて腕まくりの状態にされているシャツも、右手だけでボタンをはずす。腕を抜きながら、わかったというようにひとりごとをもらす。
「前があいてたほうが、腕を通しやすいな」
 そう頷いて長袖のシャツをとりだすと、先に左腕を通してしまってからはおり、また右手だけでボタンをとめはじめる。器用なものではあるけれど、大変そうだ。
「ギイ、大丈夫かい? 着替えるの、大変そうだね」
「ああ、片手だと、意外に………面倒だな」
 難しい顔をしてベルトに手をかけるギイを、けれど託生は見守ることしか出来なかった。


 食堂に向かう道すがらも、先輩や友人たちから次々に声がかかる。ギイの怪我については、既にいろいろな情報が出回っているらしい。
「ギイ、足ケガしたんだって? あれ? 足じゃなくて、手だったんだ?」
「ようギイ、なんか殴り合いのケンカしたんだって?」
「崎、階段から落ちて複雑骨折したんだって? 平気か?」
 最初の頃は、あまりにあまりな誤解は訂正していたのだけれど、やがてその数の多さに面倒になったらしく、ギイは適当に返事をしてやり過ごしていった。食堂の入口につくころには疲れ果てて、ついついため息をついてしまう。
「祠堂のウワサはマッハの速度とは言うけど、信憑性については疑問が残るな」
「ほんとだね」
 食堂はまださほど混雑してはいなかったので、席を確保せずに食事を受け取りに行くことにした。食事をのせるトレイをとって配膳のコーナーにむかっていると、前方から食事を手にした赤池章三がやってきた。こちらに気づくと、軽く手をあげて声をかけてくる。
「ギイ、ケガをしたんだって? 大丈夫なのか?」
「ああ、ケガ自体はたいしたことはないんだが………って、随分ウワサになってるのが、面倒」
「みんな心配してるんだろ。興味半分、もあるだろうけど」
 赤池は苦笑しながら、ギイの手のトレイを見ると、自分の持っているトレイを少し持ち上げていった。
「ギイ、これと、そっちのトレイと交換。先に座ってろよ」
「そこまで気を使わなくても、オレ全然平気だぞ」
「いいから、運んでやるからついてこい。葉山、ギイのトレイ持って。順番とっておいてくれよ」
「あ、うん」
 てきぱきと赤池に仕切られて、ギイは少し不本意そうに席に座らせられた。やがて自分の分の食事と二人分のお茶を持って戻り、隣りに座った託生に、ギイは困ったような顔でぼやいた。
「これじゃまるで、病人みたいじゃんか」
「まだわかってないみたいだけどな、お前、れっきとしたケガ人なんだよ。普段なまじ健康だから、自覚が薄いようだけど」
 頭の上から赤池がそう言うと、不満そうに口をとがらせて、気を取り直したように箸をとった。
「ま、利き腕が無事でよかったよな」
 焼き魚に器用に箸の先を入れる様子を見て、託生も思わず頷いてしまう。確かに、利き腕を怪我していたら、今とは比べものにならないくらい大変だったことだろう。もっとも、左腕がつかえないせいか、なんとなく右手も使いづらそうではある。大変そうだな、と思ってついつい見守っていると、不意に前に座っている赤池が、醤油さしを差し出した。
「ギイ、醤油いるか?」
「あーサンキュ、少なめにくれ」
 赤池はギイの皿の大根おろしに醤油をかけると、自分の皿にもとって元の場所にもどした。
 何気ないそんな光景に、けれど託生は自分の気のつかなさに気づかされてしまう。
 今だけではない、着替えの時だって、食事の準備だって、自分が手伝うべきだったのだ、たぶん。
 何かを話しだした、赤池の声が遠くなる。隣りにいるギイが、それに返しているけれど、何を言っているのかもう聞こえない。不意に眼に見えない壁に気づいたような、心もとないような気持ちがした。













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