わけがわからない、という顔をしながらも、葉山託生は黙ってギイについて来た。
ジャケットをはおり、家の施錠をしている託生を待ってから、ギイはあえて何気ない調子を装って声をかけてみる。
「こっちはもう、桜が咲き出してるんだな」
「あ、うん。春って感じだよね。ここのところ、やっとあったかくなってきたし」
そう言いつつも、まだしっかりとマフラーをまいている託生を見て、ギイはつい苦笑してしまう。
道を歩きながら、白い花をたくさんつけた樹を指して託生は言った。
「あ、あの木はもう随分花が咲いてるね。あれは、桜じゃ………、ないよね?」
「ああ、あれはこぶしだな」
「こぶし」
聞いたことはある気がする、と言いながら、託生は感心したようにギイを見返した。
「ギイって、何でも詳しいんだね」
「そうか? というよりか、託生がうといんじゃないか?」
「うっ………まあ、そうかもしれないけど」
怒ってみせるその表情に、ギイは笑いながらこっそり安堵の吐息をついた。
───拒絶されなくて、よかった。
祠堂で避けられ続けて、謝罪すらさせてもらえなかったここしばらくのことを思えば、今こんなふうに自然に会話が出来ている状況は、驚くべきものだった。しかもこんな風に突然訪ねて、どうしたって非礼に違いないのに、託生は母親の前で話を合わせてくれたのだ。
彼の心は、多少なりともまだ自分にあるのだろうか。それとも、本来のお人よしさを発揮しているだけなのだろうか。
わからないけれど、他愛ない会話すら、今はうれしかった。
平日の午後の駅のホームは閑散としていた。ホームまで送ってくれた託生に向き直り、ギイはにっこり微笑んだ。
「サンキュな、送ってくれて」
「あ、うん」
託生は少し困ったような顔で、頷いた。別れの時間は近づいている。一体何の用件だったのかと、いぶかしく思っているのだろう。
「……… あの、ギイ。これから成田に行くって、本当に? 荷物とか、ないのかい?」
「ああ、すぐに戻るつもりだったから」
「東京の家の方は、いいの?」
東京、と眉根をよせて考えて、先ほどの言い訳のことかとギイは得心した。
「あれは、嘘なんだ。成田について、すぐにここに来たから」
託生はますます不審そうな顔でこちらを見ている。それはそうだろう。ギイはゆっくりと大きく呼吸をした。
「ギイ………」
「オレ、託生が好きだ」
ためていたものを吐露するように、ギイはきっぱりと口をひらいた。
託生は十二分に呆気にとられた後、ぽつりと言った。
「うそ、だろう?」
「信じてもらえないのも、仕方がないってわかってる。でも、好きなんだ」
改めてそう告げて、ふと手を伸べる。その頬に触れてみたくなったのだ。
「あっ」
触れようとする瞬間に、避けられた。接触嫌悪症は、健在だった。
「………ごめんな」
「あ、や………、ごめ、ん………ぼくの方こそ」
「託生が謝ることじゃないさ」
人に触れられない葉山託生、それでも託生は、ギイを好きだと言ってくれたのだ。それは託生にしてみれば、重大な決断だったことだろう。
ギイは行き場を失った右手を見やり、触れられない目の前の相手にこそ触れたい、という気持ちが胸のうちに沸き起こるのを、改めて確認した。
身体を重ねるだけなら、相手は誰だって同じことだとずっと思っていた。けれど、それは勘違いだった。今まで本当の恋を知らなかったから、身体などどうでもいいと思っていられたのだ。身体も心も欲しいと思うのは、ただ一人だけなのだと、ようやくギイは理解した。
こうして気づいてみれば、どうしてこんな気持ちに今まで気づかずにいられたのだろうと、ギイは不思議で仕方がなかった。
自分のことなのに、どうしてわからなかったのだろう。本当はずっと、託生に触れたかったのだ。
託生が接触嫌悪症だということは、春からわかっていた。好きだという言葉を貰ったのに、けれどささやかな接触すら拒否された。それからきっと、ギイは彼について考えることを放棄していたのだ。たとえ好きになっても、触れられない相手だったから、触れたいと思う気持ちにどこかでブレーキをかけていたのかもしれない。
今や託生は、あたかも手の届かない、夜空に瞬く星のようだった。
目の前に、手を伸ばせばすぐに触れられるはずの場所に立っているのに、まるで何光年も遠い場所にいるようだった。
これが今の距離なのだと、ギイはそう考えた。そして、それで構わないと思った。
やがて、列車がホームに入ってきた。タイムリミットだった。
託生が困ったように、おずおずと口を開く。
「……… ギイ、その」
「悪い、もう時間だ。四月に祠堂でな」
託生がギイの告白をどう思ったのかは、わからない。わからなくてよかった。拒絶されるのは怖いし、かといって、これまでのことを考えれば、こんな唐突な告白がすぐに受け入れてもらえるとも思えなかった。
「ギイ、ぼくは………」
引き止めるような声に後ろ髪をひかれつつ、ギイは笑って手を振った。
「またな、託生」
託生は何かいいたげにしていたけれど、結局言葉がみつからなかったのか、ギイの言葉にただ頷いてみせた。ギイは笑い返すと、列車に乗り込んだ。
ホームで見送っている託生に手を振って、ゆるやかに動き始めた列車の中、適当な席に腰を下ろすとギイは大きく息をついた。手がかすかに震えて、自分は緊張をしていたのだと気付いた。車内販売が来たらコーヒーでも買おうと思いながら、ここに来る直前、マンハッタンで飲んだ、冷めたコーヒーの味を思い出す。
あの時目の前の友人に対して、彼女と身体をかさねることは気持ちの上でもう無理なのだと気付いた瞬間、やっと自覚したのだ。
託生でなければ、もうだめだった。きっとそもそも、託生には特別な気持ちを抱いているのかどうか、ということを考えだしていた時点で、それは恋だったのだ。ギイは今まで、特別な恋愛なんていう概念を自分にあてはめて考えたこともなかったのだから。
託生との間の距離を思い返して、これで構わないと再び思う。
触れ合えない距離、星までの近くて遠い道のり。
もし万一、託生と永遠に触れ合うことが出来ないとしても、これが最初で最後の恋でいい。ギイは目を閉じた。何の気負いもなく、ただそう思えた。
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