恋は桃色
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 階下から、電話の呼び出し音が聞こえている。
 託生は少し顔をあげ、すぐにまた手元の本に目を落とした。託生のところに電話をかけてくるような相手はルームメイトの利久くらいのものだし、その利久からは昨日電話があったばかりだ。だからあれはきっと、自分には関係のない電話だろう。
 長期休みは、家に戻らなければならないのが苦痛だった。正直なところ、託生は家族とあまりうまくいっているとは言えず、だから実家もあまり居心地のよい場所とは言えなかった。とはいえ、この春ばかりは、はやく家に帰りたかった。家に帰れば、ギイに会わないで済むからだ。ギイにはなるべく、会いたくなかった。託生はまだギイが好きだった。彼に会うと、心が乱れて苦しくなる。
 けれど、いつかは忘れられる時が来るだろう。二年生にあがればクラス替えがあるし、一学年に六クラスもあるのだから、ギイとはクラスが離れる可能性が高い。そうすれば少しずつギイへの気持ちも薄れていくかもしれないし、この胸の痛みもやわらいでいくことだろう。そうなったら───もう一度、友達になれるだろうか。身勝手な望みかもしれないけれど、託生はかすかな希望を捨てられずにいた。
「託生、ちょっといい?」
 ドアをノックする音が聞こえ、託生はあわててベッドから起き上がった。頬に手をやって、表情を整える。うじうじと悩んでいたから、変な顔になっているかもしれない。
 ドアを開けると、所在なさそうに立っていた託生の母が、ほっとしたような顔を見せた。
「何だい、母さん」
「あのね、お使い、頼んでいいかしら。牛乳と、りんごを買ってきて欲しいの」
「牛乳とりんごだね、いいよ、行ってくる」
 千円札を受け取って、託生は軽く頷いた。外に出るのは、気分転換のためにもいいことかもしれない。すぐに上着をとって玄関に向かい、ドアノブに手をかけたところで、また電話の呼び出し音が鳴り始めた。はいはい、と着信音に返事をしながら母がキッチンで電話をとる様子が聞こえてくる。けれどきっとまた、自分には関係のない電話だろう。託生はそのまま外へ出た。
 うららかな日差しに、つい目を細める。玄関先の植え込みにはつつじが咲いていて、春らしい香りがほんのりと漂っている。向かいの家の咲き初めの桜を見て春を感じるのも、例年のことだ。春が来ている。
 少し気分を上向かせて歩き出した託生は、道の先の人影を見て、ぎょっとした。
「えっ!?」
 見慣れた春の光景の中で、託生が目にしたものはあまりに異質だった。
 ギイが携帯電話を耳にあてたまま、驚いたような顔でこちらを見ていた。
 呆然と見つめ合っていると、やがて背後からぱたぱたとサンダルの足音が聞こえてきた。
「託生、よかった、まだいたのね。クラスメイトの崎くんて方からお電話よ。今出たばかりだから間に合うかと思って、待って頂いてるから………あら? どうしたの?」


「座ってゆっくりしていてね、崎くん、飲み物は………緑茶で大丈夫かしら?」
 慌てた様子でキッチンに向かう母を見送りながら、託生もまた混乱していた。なにしろ見慣れたリビングで、ギイと向かい合って座っているのだ。
 手持ちぶさたに母を待ちながら、なぜギイがこんなところに居るのだろう、と考える。この春休み、ギイはアメリカに戻っていたはずで、わざわざ日本へやって来たからには、きっと何か大事な目的があるのに違いない。しかもこんな地方へわざわざ来るなんて、うぬぼれではなく、どう考えても託生に用事があるに違いないのだ。
 ギイは物珍しそうに室内を見回しているだけで、口を開く様子を見せない。やがて母が戻ってくるのだから、ここでは話せないことがあるのかもしれない───もしかして、託生の自室に通した方がよかったのだろうか、と、託生はやっと思いついた。なにしろ託生は突然のギイに相当動揺していたし、こうした状況には、託生自身も母も、あまりに不慣れで不器用だったのだ。
 やがて、母が盆に茶碗を載せて戻ってきた。
「ごめんなさいね、お茶請けになるようなものも切らしていて」
「あの、どうぞお構いなく。オレのほうこそ、急にうかがってすみません」
 ギイが丁寧に頭を下げると、母は慌てて首をふった。
「まあ、そんなこと、託生が悪いのよ。もう、お友達が来るのなら事前に言っておいてね、託生」
 自分だって、青天の霹靂みたいな状態なのだ、とは言えず、託生は素直に頷いておいた。
 ギイも余計な言い訳はせず、お茶をひとくち飲むとにっこり微笑んだ。
「さすがお茶どころですね、うまいです」
「あら、よかったわ、口にあったみたいで」
 ギイの如才のない応対に母はよい印象をもったようで、微笑みながら会話を続けた。
「それにしても、崎くんみたいなしっかりした人が託生のお友達だなんて、信じられないわ。託生、皆さんに迷惑かけたりしていないかしら」
「託生だって結構しっかりしてますよ、学校では」
 ───託生、呼び捨て。
 こっそり動揺している託生に気付かぬ様子で、母はため息をついている。
「そうかしら、崎くんとくらべると、なんだか子ども子どもして見えてきてしまって………」
「あのね、ギイは───崎くんは優秀なんだから、母さん。くらべられたら、立つ瀬がないよ」
 そうなの、それはそうでしょうね、と簡単に納得し、母は首を傾げた。
「ところで崎くんは、ご実家はどちらなの?」
「実家はニューヨークですけど、今は東京に滞在してます」
「東京に、………でも、わざわざこんな田舎まで足を伸ばすのは、大変だったのじゃない?」
 何気なさそうに首をかしげる母の言葉に、やはり母がこの唐突な訪問を訝しく思っているのだろうと知れた。それはそうだろう、なぜなら託生にだってさっぱりギイの意図がわからないのだ。
 ギイは軽く微笑んで、なんでもないことのように言った。
「そんなに遠くもなかったです。それに、託生に、どうしても四月になる前に渡しておきたいものがあったので」
 渡しておきたいもの?
 心当たりは全くなかったので、今すぐにでもギイを問い詰めたかったけれど、託生は賢明に黙っていた。
「あら、そういえば、すっかりお邪魔虫になってしまったわね。二人でお話もあるわよね、ごめんなさいね」
「いえ、そんなことないです。お話できて楽しかったです」
「ありがとう、崎くん。どうぞゆっくりしていってね。託生、お母さんはさっき頼んだ買い物に行ってくるから」
「あ、うん」
 母が出て行ってしまうと、しばし沈黙が流れた。ただでさえ唐突な事態なのに、何しろ相手はギイなのだ。いつかの諍いからここ数週間、ギイは何度も託生と話をしようとしてくれていたのに、避け続けてきてしまったのだ。どうにも気まずかった。
 けれど永遠に黙っているわけにもいかないので、託生は仕方なく口を開いた。
「………あの、ギイ」
「ごめんな、急に来て」
「あ、………うん。それはいいんだけど、あの………僕の部屋に、来る?」
 ギイは託生の顔を見ると、ふっと笑った。
「魅力的なお誘いだけど、時間がないんだ」
「え?」
「もう出ないと、マズい」
「あ、これからどこかへ行くのかい?」
 託生はようやく少し事態が飲み込めてきた気がした。おそらくギイは、どこかへ行く途中にここに立ち寄っただけなのだろう。託生にわざわざ会いに来たということよりは、ここのところの気まずい関係が気になっていたとかそんな理由で、何かのついでに託生の家に立ち寄った、ということだったら、多少納得できる、気がする。
 ギイは腕時計を睨みながら、軽く頷いて肯定した。
「ああ、もう成田へ戻らないと、飛行機に乗り遅れる。託生、駅まで送ってくれよ」
「………はい?」
 何ですと?













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