恋は桃色
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(It doesn't seem to matter,)

佐智が病院の裏口で待っていると、葉山託生は慌てたような、けれど何かを恐れてでもいるかのような、妙な様子で登場した。
「佐智さん、すみません急に」
「ううん、全然。ちょっと久しぶりだね、元気だった? ……少し、顔色が悪いかな?」
託生は答えずに頷くと、きょろきょろと辺りを見回している。
その様子を訝しみつつ観察して、佐智は彼がバイオリンケースを肩に掛けていることに気がついた。今迄の見舞いの際には持って来ていなかったはずだ。託生はそろそろとそれを下ろすと、抱え込むようにした。やはり様子がおかしい。
「取り敢えず、義一くんに会いに行く?」
「あの……出来ればどこか、人の居ない場所でお話ししたいんです」
「それなら尚更、義一くんの病室しかなさそうだ」
病室に入り、いつものように眠ったままのギイの横で、佐智は託生と向かい合った。
「佐智さん、ぼくは頭がおかしくなったのかもしれません」
「どうしたの、急に」
「バイオリンのことで……ぼくのバイオリン、そう古くはない、自分でいうのも何ですが安物だったんですが」
事情に詳しくはないものの、確かにそうよいものを使っていないことは知っていたので、佐智は曖昧に頷いた。
それまで託生の使っていたバイオリンは金額にしてやっと一千万という程度のもので、勿論それでも託生にとっては貴重で高価なものではあったけれど、プロのバイオリニストとしては正直充分とは言いかねるものであった。価格としても佐智の愛器であるアマーティの何分の一かもっと安いくらいだし、佐智のそれがいまだ状態がよく、現存しているアマーティの多くがピークを過ぎてしまった今でもなお特級品だと言えるものであることを考えれば、希少性という点では何百分の一の価値となってしまうかもしれない。
「でも、変なんです。今日も朝から練習していて、昼前までは確かに今までのバイオリンだったのに、昼食の後に見たら……全くの別物に変わっていたんです」
……確かに、おかしな話だ。
頭がおかしくなったのかもしれないと自分を疑いたくなる気持ちもよく分かる。
「ええと、どう、変わっていたんだい?」
「笑わないで、聴いてもらえますか?」
佐智は頷きつつも、これ以上おかしな話が登場するのかと不安になる。
託生は大真面目な顔で、抱えたままだったバイオリンケースを見下ろした。
「たぶんこれ、ストラディヴァリウスだと思うんです」



「やっぱり佐智さんも、ぼくがおかしくなったと思いますよね」
「うーん……正直、それを疑いたい」
佐智は苦笑し、肩をすくめた。
「あ、笑っちゃった、ごめん」
「いえ……無理もないです」
「でも、ストラディヴァリウスなんて鑑定書もなしに判断できないだろう? それとも、鑑定書もついてきたとか?」
「ええ、確信は持てません。ただ、今まで使っていたものと違うのは確かなんです」
そう言うと、託生はケースを椅子に置いて開いてみせた。
すると確かに、一見してかなりのオールドバイオリンであることは見て取れ、近代の作と見間違えるということはなさそうな品であった。
「最初はちょっと雰囲気が似ているなと思ったんです。でも弾いてみたら……大学に寄贈されたストラディヴァリウスを少しの間だけ演奏させてもらったことがあるんですけど、それにそっくりな気がして」
……大学。佐智はもやもやとした記憶を手繰り寄せた。
ギイの父は以前、ストラディヴァリウスを一挺所有していた。そしてギイはそれを、つてを通じてドイツの大学に寄贈していたはずだ。当時の佐智には全くその意図がわからなかったのだけれど、今にして思えばあれは託生の留学先だったのだろうし、あの奇妙な寄贈は高校卒業後に自分の気持ちに気づいたギイの、託生へのせめてものラブコールだったのではないだろうか。そして短い期間とはいえ託生の手にあのストラドが渡っていたのなら、それは正解だったのかもしれない。
更に、そのストラドに似ているというのなら、今までの荒唐無稽な話にもわずかに信憑性が出てくる。





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