恋は桃色
恋は桃色:トップページへ









「託生くん、ちょっと弾いてみてくれないかな?」
「ここで、ですか?」
「うん。ここの特別室はモニタリングはされているけど、他の病室からは離れているし、多少大きな音を出しても大丈夫だから」
「でも……ギイが起きてしまうんじゃ」
「残念ながら、それも大丈夫」
そうですか、と安心したようながっかりしたような顔をして、託生はバイオリンをケースから取り出した。
軽く調弦をし、弓を軽く弦に当てただけで軽やかな音色が響き始める。
バッハの無伴奏パルティータ、第三番、プレルーディオ。バッハ無伴奏の中でも一際明るい曲を選んだ託生を意外に思いながら、佐智は耳を傾けた。
確かに、ストラディヴァリウスだと言われればそうなのかもしれないと思わせる音色だった。
引き終えた託生に拍手を送り、佐智はバイオリンを手に取らせてもらった。
矯めつ眇めつしているうちにあることを思い出し、ふと f 字の孔を覗き込み佐智は思わず声を上げた。
「ど、どうしました?」
「託生くん、これ……本当にストラドだ、本物だよ」
「ええと、……ラベルですか?」
「そうじゃないんだ、中に……中にカエルが……」
「は?」
佐智は託生にバイオリンを返すと、孔の中を覗かせた。
「……ほんとだ。カエルがいる」
見れば、子供の玩具のような安っぽい小さなカエルのシールが無造作に貼られていた。
むしろこのバイオリンを偽物っぽく見せているそれに、佐智は頭を振った。再びこれを見る日が来るとは。
「それはね、幼い義一くんが随分苦心して貼ったシールなんだよ」
「え?」
「これは、義一くんのストラドだ。他にあり得ない」
「……どういうことですか?」
「義一くんは幼い頃、お父上に無理矢理バイオリンを習わされたことがあって、その時にストラディヴァリウスを一挺購入したんだ」
ギイの父は音楽愛好家であったこともあり、ギイの幼馴染の佐智が幼時から才能を開花させたのを見て羨ましくなったのだろう、自分の息子にもなんとかバイオリンを弾かせようとしていた時期があった。金にあかせてストラディヴァリウスまで購入する熱の入れようで、普段そんな金の使い方も、品物に対する不見識な買い方もしない彼にしては珍しい、無茶な行動だった。
そのストラディヴァリウスは、流石に超一級の有名品ではなかったにせよ当然億はくだらない品だったので、その時まだ運命のアマーティに出会っていなかった佐智はそれを羨ましく眺めていた。殊に、幼馴染がシールを貼るといいだした時には殴ってでも止めようかと悩んだものだった。
「義一くんはすぐにバイオリンをやめてしまって、ええと……その後ある団体を経て、君の通った大学に寄贈されたのは確かなんだよ」
寄贈されたほうでは困惑したに違いない。なにしろ小さな孔だ。貼るのだって相当苦労したのだ、剥がすのはもっと大変だ。へたな剥がし方をすればストラドを毀損しかねないし、結局そのままにしておいたのだろう。
「それでは、ぼくが大学で弾かせてもらったのも、ギイのストラディヴァリウスだったんですね」
「……そういうことになるね」
「偶然って、あるものなんですね」
偶然のわけがない、義一くんの思惑通りだ……と思ったけれど、佐智は幼馴染のためにも無言でいた。
「でも、なぜそれがここにあるんでしょう」
「それがわからない……少なくとも、僕たちの頭がおかしくなったとか、君のバイオリンが化学変化を起こしたとかではなくて、何らかの超常現象で君のバイオリンがギイのストラディヴァリウスに置き換わってしまったというのは確かなんだと思う。ただのストラディヴァリウスであった、という以上に不可解だけれど」
バイオリンの置き換え──自分でそう言って、佐智はふとベッドの上の幼馴染に目をやった。まさか?
眠ったままのギイは、少しだけ微笑んでいるようにも見えた……まさか。
黙ってしまった佐智に気づかないのか、託生もまた黙り込んで何かを考えているようだった。





↑ past ↑
the Longest Night in June
↓ future ↓






10

せりふ Like
!



恋は桃色
恋は桃色:トップページへ