恋は桃色
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  ‘♭’



(It doesn't seem to matter,)

今月は月初めにあったN響公演でのコンチェルトソリストのほかは大きな仕事もなく、少々の取材やメディアへの出演をこなすだけだったので、佐智はほとんどの時間を幼馴染にまつわるあれこれにあてていた。と同時に、奇妙なことになってしまった幼馴染の想い人にも心を配った。
不可思議としか言いようのない現前をしたストラディヴァリウスに、佐智も随分驚きはしたけれど、それがギイのものだと判れば経緯も見えるような気がした。
もしかしたら、夢の中で孤軍奮闘している幼馴染が導こうとしている世界から、ストラディヴァリウスだけが先に届いたのではないだろうか。
幼馴染は叶うことならば、在籍している大学に寄贈するなどという回りくどい手段をとらず、託生本人にあのストラドを贈りたかったに違いない。それをダイブの中で実行したら、次の世界━━『世界E』、願わくはギイ名付けるところの『世界H』━━は、それが実現したあとの世界になるはずだ。寄贈は行われず、託生がストラドを愛器とする世界。きっと、この世界が次の世界に到達する前にストラドだけが届き、だから佐智もその変化を観測出来たのだろう━━相変わらず、手段や原因はわからないけれど。
そして、託生が現れたばかりのストラドをなんなく弾きこなしている様子を見て、『あれ』はもともと託生の手にあったはずのストラドなのではないかと佐智は考えた。過去を捩じ曲げた何者か、のせいでストラドも離れていたのだろうが、本来は『既に』託生の手に渡っていたはずのものなのではないだろうか。
新しいバイオリンは、普通は弾き慣れるまでには少々かかるものだ。ストラディヴァリウスなら尚更だ。いくら弾いたことがあったとはいえ、軽々と自分の愛器かのように扱っている託生の様子からは、捩じ曲げられる前の『過去』でも弾いていたように想像されるのだ。
ギイと託生だけではなく、ストラドも一緒に『収束』するのだ──そう思えば、なんだか楽しみだった。佐智はすっかりこのバイオリニストのファンになっていたからだ。
とはいえその佐智も、演奏会でツィゴイネルワイゼンを無伴奏で入れると聴いた時にはかなり驚いた。
以前ギイに、ツィゴイネルが彼との再会のきっかけだったとは聴いていたので、何か意味があるのだろうとは思ったけれど、無伴奏でというのは奇矯な行動にすら思えた。展覧会に習作を出すようなもので、余程のファン対象ならともかくとして、普通の演奏会では観客に対して失礼になるだろうと思ったのだ。
けれどその心配も、実際に演奏を聴いてみてすぐに解消してしまった。
バイオリンのソロパートに少しアレンジを加えて、間奏の部分などで入るブランクも弾き継ぐタイミングを工夫しているし、不自然さは最小限となっていた。託生のツィゴイネルなら伴奏なしでも、いや、彼の音のみに集中するためにむしろ無伴奏で聴きたいと思えた。一個の無伴奏曲として成立した託生のツィゴイネルワイゼンは、佐智にとっては未知の魅力を放つ一曲だった。
佐智は久々に心が昂ぶるのを感じていた。
幼馴染によれば、ダイブが始まる前の世界──『世界A』において、自分は託生の音を好きではないと言っていたらしい。個性はあるが、全く感情がのっていないと。
それは、今の佐智と、そして今の託生の音からは到底信じられないことだった。
今のこの世界の自分は、託生のバイオリンにすっかり魅了されてしまっている。個性──佐智であれば絶対にしない解釈、表現の数々が面白くて仕方ないし、内に秘めて居ることが出来ずに溢れ出すようなパッションが、しかし過剰ではなく静かに訴えかけるような感情が、今までに聴いたことがないような音になって現れていると思う。
自分よりも才能のある、あるいは潜在能力に富んだバイオリニストに出会ったら、自分は嫉妬するのだろうか? といつも自問してきたけれど、少なくとも葉山託生に関してはそれはなかった。
むしろ、もっと聴きたい。彼の才能を導いて、もっともっと開花させたい。
今はこのツィゴイネルを極限まで仕上げて、次は……そうだ、サン=サーンスの序奏とロンド・カプリチオーソもいい。サラサーテの為の曲。ツィゴイネルワイゼンをこんな風に弾ける託生であれば、あの曲をも狂おしくしかし静謐に表現できることだろう。
自分にはプロデュースやプロモートへの興味があったのだということに、佐智は初めて気がついた。
そして、託生を取り戻そうとしている幼馴染には自分も感謝しなければとも思うのだった。
自分は託生が幼馴染と結ばれることが『運命』なのだと信じているので、幼馴染の過去を捩じ曲げた何者かは幼馴染から託生を奪ったのだろうとも考えている。ということは、その何者かは幼馴染からだけではなく自分からも託生を奪おうとしていたのだと、改めて静かな怒りを覚えた。『世界A』の佐智が託生に興味を持てなかったように、ギイがなければ、今のような、あるいは更にその先の託生は存在しないのだから。





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