恋は桃色
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  ‘Tremolo.’



大学の同窓生や関係者にそれとなく聴いてはみたけれど、大学が所有しているバイオリンの盗難や紛失は起こっていないようだった。
それよりも奇妙なことに、五年程前に大学に寄贈され、佐智の話で元はギイが所有していたと判明したあのストラディヴァリウスのことを、誰も覚えていなかった。彼等の反応は、まるであたかも、最初からそのようなストラディヴァリウスは存在しなかったかのように感じられた。託生はまた訳がわからなくなった。
確かに在学中、ストラドが一挺寄贈され──そういえば、日本の音楽団体からだということだったのだ、それで留学生ながら日本人の託生もしばらく弾かせてもらい、小さな演奏会も催した、はずだ。
でも、それらがすべてなかったかのようになっている。
わからないが、自分のバイオリンが突然消えて、このストラディヴァリウスが手元に来たことがそもそもおかしいのだ。考えても仕方がないし、原因や経緯などわかりそうもない。
ストラディヴァリウスだと思えば、自分などが弾いていいのだろうか、という気後れがないわけではなかったけれど、佐智は元々ギイのバイオリンなのだから遠慮することはないという妙な理屈で太鼓判を押してくれた。いずれにせよ元のバイオリンは消えてしまったし、今はこのストラディヴァリウスを弾くしかないのだけれど。
演奏会まであまり日もなく、少し不安だったけれど、弾き始めて見ると思っていたよりもすんなりと練習に入ることが出来た。以前ストラディヴァリウスを貸与された時は弾きこなすのが難しく、しっくり来ないまま返却の日が来てしまったものだったのだけど、今回は身体によく馴染んでいるように感じる。まるで、ずっとこの楽器を弾いていたかのようだ……元々はギイが所有していたものだと知ったせいもあるのだろうか。
しかし、月末にある演奏会まで然程時間はなかった。ピアニストとの合奏練習もかさね、準備も練習も順調に進めていたが、まだ足りない気がした。ギイに相応しいようなバイオリニストになるためには。


……夢を見た。
懐かしい祠堂の寮部屋だ。
高二の一年間、ギイと同部屋だったことは今となっては懐かしい思い出となっているが、最初の頃は不安と動揺と緊張の連続で、正直心休まる間もなかった。
託生がコミュニケーションが苦手で人との接触も苦手だということはギイも分かっていてくれたので、うまく距離をとりながら少しずつ託生に人との付き合いに慣れさせていってくれた。結局、距離はゼロにはならなかったけれど、ギイのおかげで大分ましにはなったと思う。
思えば、一年の時は明るく腹蔵のない片倉利久に助けられ、三年の時は親切で理知的な三洲新に色々と学ばせてもらった。託生の祠堂での三年間は、彼等三人のルームメイトがいなければどうにもならなかったことだろう。
好きになったのは、勿論ギイだけだったけれど。
夢の中は、ちょうど二年の時の間取りだった。彼に会えるかもしれない、と、託生は夢だと知ってか知らずか期待する。
ベッドの上で雑誌を捲っていると、しばらくして果たしてドアを開けてギイが入ってきた。
「遅かったね。夕食、間に合った?」
「ギリギリな。危ないところだった……もう、矢倉の頼み事は次から断るぞ」
「それは、かわいそうだよ」
他愛ない会話……こんなこと、昔あっただろうか?
これは、過去の記憶なのだろうか。
ふと託生のベッドサイドまでやって来ると、……過去の記憶ではなかった。こんなことは、あり得ない──ギイは枕をクッションがわりにしている託生の上に身をかがめて、キスをした。
驚いて引きかけた肩を抑え、その耳元でギイは低い声で囁いた。
「まだ、慣れないか?」
まだ?
こんなことは、されたことがない。
固まったままの託生をいたずらっぽい目で見つめるギイに、どうしたらいいのかわからず、


(don't you see it in my eyes?)

──目を覚ますと、まだ外は真っ暗だった。
鼓動がうるさい位に高鳴っている。
「……なんだよ、これ」
今の夢は一体。
あまり考えたくないが、自分の願望だとしか思えない。
佐智にギイの気持ちを聴いてから、もしあの頃両思いになれていたら、などと妄想しなかったと言えば嘘になる。だけど、夢にまで見るなんて……自分が恥ずかしかった。しかもこんなにもリアリティのある夢。まだ唇の感触が残っている。
なんてはしたない。浅ましい。図々しい……もう眠れそうになかったこともあり、託生はベッドを降りると練習を再開することにした。





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