恋は桃色
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(Where do I have to go?)

ミラノでも寒の戻りというのだろうか、四月上旬にしては異常なほどに肌寒く、ギイは珍しく体調を崩していた。視察や挨拶回りばかりの予定だったので、時折ぼんやりしていてもなんとかなるのは幸いだった。
今日もこの後は空き時間だ。体調のこともあるし、少し早いがもうホテルに戻って休もうかと考えていると、島岡の代わりに来ている秘書のキャロルが神妙な表情でこちらを見ているので、何か急な予定でも入ったのかとギイは少々うんざりした。
『ギイ、折り入って相談、いえお願いがあります』
『なんだ、改まって』
お願い、という彼女からあまり聞かない単語にギイは少し身構えた。
しばらく躊躇いがちに視線をあちこちに送り、やがて上目遣いでギイを見ると彼女は小声で切り出した。
『実は、個人的にサン・シーロに行きたいのです』
サン・シーロ……確か、サッカーのスタジアムの愛称だ。
そういえば、秘書の恋人はかなりのサッカーファン、それも確か、チームまでは知らないがセリエAのファンだという話を聞いたことがある。何か写真をとるとか、土産でも買うのかも知れない。
『構わないさ。オレは風邪気味だし、付き合えないが』
『ええ勿論、ギイは養生なさっていてください』
勢いよく頷いて、ギイをホテルに送り届けると、秘書はパンツスーツにパンプスのまま颯爽と出掛けていった。大ぶりにカールさせた後ろ髪がふりふりと揺れているのが、まるで喜ぶ犬の尾かのようにさえ見えた。
ギイはその後姿に苦笑を送ったが、彼女が羨ましくもあった。
彼女自身がサッカーが好きだという話は聞いたことがない。それでも恋人のために有名なスタジアムに楽しそうに出かけていくそのモチベーションが、ギイの目にはには何ともまばゆく映った。なぜなら自分はそのような経験をしたことなど一度もなかったからだ。
だからなのかもしれない、部屋に戻り彼女に持たされたビタミン入りのレモネードを飲みながらしばらく考えて、ギイは再び上着を手に部屋を出た。
運命というほどのものではないかもしれないが、きっとこれも何かの縁のようなものだ。そう思いたかった。



その小さなテアトロは少々入り組んだ場所にあり、スマートフォンの地図アプリを使っても辿り着くのに随分苦労した。結局到着したのは開演ぎりぎりの時間で、チケット代を払って中に入るとそう多くはない席数だったけれど八割がたは埋まっていて、盛況ぶりになんとなく安堵する。普段はジャズのライブが多いという会場らしく、クラシックの演奏会としてはカジュアルな雰囲気だ。なるべく前方の席を探して腰を落ち着ける。
最初にアジア系らしきチェリストが登場し、ピアノを伴奏に数曲披露した。神経質そうな男性だったが、拍手を貰って微笑む様子からは人のよさが窺えた。
チェリストがアンコールに応えて一曲弾き、交代で葉山託生が現れる。迷いのない動作で構えると、ピアノに合わせて演奏をはじめる。タイトルはわからないが技巧的な曲で、メロディがくるくる変わり、佐智の言っていた彼の弱点──感情が乗らなくてもさほど問題なく弾けるタイプの曲のようにも思えた。
普段と変わらない硬いままの表情に、彼はなぜ音楽を、バイオリンを選んだのだろうとふと思う。演奏が好きだからとか、楽しいからとかそういうポジティブな理由があったようには正直あまり思えない。
難しそうなパッセージを切り抜けて、ふっと彼が息をつく、その得意気のない、安堵ですらなさそうな無心の一瞬、彼の黒い眸が何を映したのだろうと興味が沸いた。
二曲を弾き終えて一礼し拍手を受け取って、顔をあげた彼と目があったような気がした。少し首を傾げ、考えている様子にもしやと思ってしまう。客席の明かりを落としきってはいないので、気のせい、ではないかもしれない。
彼はピアニストに何か話しかけると、アンコールに答えるように再度弓を挙げた。
ピアノを待たずに弾きはじめたそのメロディに、ギイは思わず息をとめた。
ツィゴイネルワイゼンだった。
本当に、気のせいではないのかもしれない。





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