恋は桃色
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そのドイツ人実業家はバイオリンの音色をこよなく愛しているそうで、ギイの幼馴染にあの『サチ・イノウエ』──井上佐智がいると知ってからは、会うたびにその時気に入りのバイオリニストについて嬉々として紹介してくれる。
ギイとしては、バイオリンは幼馴染のそれで十分に感じているし、そもそも音楽にそれほど素養があるわけではないので、あまり熱心に語られても困ってしまう。けれど彼はギイの反応をさほど期待してはいないようで、いつも一方的に楽しそうに長広舌をふるうのだった。
『ギイ、今日は素晴らしい趣向を用意したよ』
ベルリンでの仕事も粗方片付いたその日、例によってその実業家の催す立食パーティーに呼ばれ仕事の話がてら赴くと、彼はいつにもまして嬉しそうに語り始めた。
なんでもとても素晴らしいバイオリニストを見つけたとかで、しかも今夜はその彼をゲストに招き演奏してもらうことになっているというのだ。
いかに彼であっても、実際にバイオリニストを招くというのは珍しいことで、余程気に入ったのか、それともまだ駆け出しの音楽家なのか、その両方かと思いながらギイは相槌を打っていた。
ホスト役として忙しい彼と別れ、白ワインを片手にそこここで知人と挨拶をかわして近況や情報を交換していると、やがて明かりが少し落とされ、広い部屋の奥に光があつまった。どうやらくだんのバイオリニストの出番らしいと思い、ワインを赤に替えてぼんやりと音を待つ。
瞬間、ぱしっ、と頬をはたかれたように思った。
バイオリンの音だと認識するまで、タイムラグができた。
哀愁を帯びたメロディが、ケレン味なく紡がれる。
あまり詳しくはないギイでさえ、幼馴染の演奏で聴いたことがある曲だった。
サラサーテ、ツィゴイネルワイゼン。
バイオリンだけで、無伴奏で弾いている。
技量の良し悪しはわからないのでさておき、妙に気になるというか胸騒ぎのする演奏だった。同じ曲を佐智が弾いていた時には、オーケストラの伴奏があったはずだ。バイオリンソロとオーケストラとの掛け合いが醍醐味であるような曲だった。それを、彼は独りで弾いている。孤独で、他を寄せ付けないような情緒に、一体どんな奏者なのかと気になり出す。
演奏に耳を傾けている周囲の人々の合間を縫って、ギイはゆっくりと泳ぐように奏者の方へと向かった。
奏者の姿が見えたところで、またはっとした。
たしか、ホストの彼は──そう、ギイと同じ日本人だと言っていた。本当はギイはアメリカ国籍なのだけれど、多分彼にとっては『サチ・イノウエ』のイメージで、ギイをも日本人だと思いこんでいるのだろうと苦笑いをするしかなかったけれど──名前をなんと言っていただろうか。
記憶力のいいギイではあるものの、商談のことばかり考えておざなりにしてしまった会話の中身を、ゆっくりと思い出す。確か。
タクミ・ハヤマと言ったか。
どんな字を書くのだろう。


(Where do I have to go?)

二曲を演奏すると、拍手のさざめきの中バイオリニストはすぐに退場してしまった。依頼人の思惑としてはこのパーティーで彼に顔を売らせたかったのではと思うのだけれど、愛想のないことだ。考えてみれば、十二月だというのにクリスマスソングのたぐいを選ばないのもそっけないようにも思えた。これまでに経験したこうした種類の余興を思い返してみても、今日の彼は無愛想すぎた。
ギイは食べ物を少々つまみつつ、また知人との歓談に戻ったが、しばらくするとホストの実業家氏がギイを探し出して来てくれた。
『聴いてくれたかい?』
『ああ、素晴らしかったよ。タクミ・ハヤマだっけ?』
『そうそう、本当は君にも引き合わせたかったのだけれど、彼、コミュニケーションが極度に苦手だそうでね。今日ここへ来てもらうのにもかなり口説き落としたものだから』
『随分センシティブなんだな。ちょっと話してみたかったから、残念だが』
『センシティブ……、うん、そう言ってもいいのかも。彼の場合、その精神性が音楽にうまく昇華されて魅力になっている気がするんだよ』
ギイは頷いて、芸術家にはそういうキャラクターがいてもおかしくないとも思った。





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