恋は桃色
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ギイこと崎義一は、いつになく疲れていた。
つい今朝方ヒースロー空港に着いたばかりで既に三件の会見を済ませ、今は次の目的地へと向かうために車に乗っている。
その前には本国アメリカで二十日以上休みなく働いていたし、このままではよくないと思いつつ、ここしばらくは余人では代わることが出来ない仕事がいくつも重なってどうしようもなかった。まだ二十代も半ばの若さとはいえ、流石に身体にも精神にもこたえた。
秘書が大荷物を抱えているのにも気遣う余裕が持てなかったが、彼女は文句も言わずにギイを車に押し込め自分もその後に続くとすぐにタブレットを取り出した。
『ボス、本日の夕食会はやはり「はしご」でお願いします』
『……仕方ないな、了解』
夕食会のはしご……中座したり遅れたりというのはパーティーでもなければ、いやパーティーであっても、本来はあまりいいことではないはずだ。
けれどギイは理由や状況を確認もせずに頷いた。手腕は確かだし義理も礼儀も心得ている彼女なので、秘書がそういうのであればそうしたほうがよりよいということなのだろうと思ったのだ。
だから、問い返さなかったのは彼女を信頼していたからではあるのだけど、自分で判断したくないというのも本音ではあった。



二件のディナーを回って、食べる量は調整したもののさすがに重くなった腹をかかえて迎えの車に乗ったところで丁度雨が降り出した。冬の雨は殊更寒々しく見えた。思わず眉間にしわをよせながら流れていく窓外の風景を見るともなく眺める。
……雨は好きじゃない。
特にロンドンの雨は大嫌い。
ただでさえビジネスの旅行なんて味も素っ気もないのだ。観光をする暇などほぼなく、食事だって時間がなかったりビジネスランチになったりだ。ましてここはロンドンなのだ。雨はしょっちゅうだし、言いたくはないが、名物料理はおろかおいしい食事に期待することすらできない。
それでもロンドンなのだからせめて、と昼に少しだけホテルに寄った時にジンを選んで部屋に放り込んでおいた自分の浅はかさが嫌になる。
ジンなんて普段のみつけている酒でもないので、知っているというだけで目についたボンベイサファイアを選んだ。その名前が綺麗で好きだった。けれど代金を支払いがさがさした紙袋に入れて手渡されると、アルコール中毒者の気分になった。
部屋に戻ってタイをほどきながらグラスを取り出す。ロックをおとして少し上から透明な液体を注ぎ、シャツを脱ぐ合間に呷る。強いだけに思えるアルコールが舌を、喉をやいて体の中に入っていく。腹が燃えさかるような一瞬だけ、少し面白かった。
軽い酩酊は程なく訪れて、メールと各種通知をチェックするとシャワーも浴びずにベッドに体を沈ませる。
──このまま、ベッドに倒れ込んだ姿のままで何日も何日もこうしていられたらいいのに。
鬱屈とした閉塞感は、ここのところの忙しさのせいだけではない気がした。
仕事は好きでやっているのだし、忙しさが苦になるたちでもない。今は疲労が蓄積しているが、基本的には体力もあるほうで、だからこの行き詰まったような感覚には何か別の理由がある気がする。
精神的な問題を疑ったこともあるけれど、心理療法士と面談したこともあるけれど、自分程度の負荷や負担は現代人の誰しもが抱えている程度のものである気もするし、なんだかしっくりこなかった。
だからわからない。考えがまとまらない。
脳がどろどろと溶け出すような感覚に、窓の外の霧のような雨が部屋の中にまで漂い込んでくる幻覚を見る。
このまま眠ってしまいたい。
目が覚めたらどこか違う場所だったらいいのに。


(Where do I have to go?)
(Tokyo……Tokyo?)

自分の血のスリークォーターは日本人で、だから東京に郷愁を覚える、ということにしている。
本当はただ、馴染みの少ない土地をユートピアに設定して勝手に焦がれているだけだというのはよくわかっていた。欧米人によくありがちなエキゾチシズム、オリエンタリズムだ。
あそこには家族の所有する別宅もあり、勿論何度も訪れた場所でもあるのだがそこで長く生活をした経験はなく、けれど訪れるたびに綺麗で静かな、それでいて猥雑で複雑な面もある街に好感を持った。そこに住む人々も、少し大人しめだけれど明るく親切な友人が多かった。
あの街で暮らしていたら、今とは何かが変わったのだろうか?
わからない。
でも、今は殊にそのユートピアが恋しかった。





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