恋は桃色
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 ギイと二人、音楽堂へと続く小道を足早に歩きながら、託生は辺りを見回した。
 校舎や寮から離れて雑木林の中を行く道は、人気がなく物寂しい雰囲気だ。ただでさえ夕刻で薄暗いのに、雨でも降り出しそうな空模様が更に託生の不安を煽る。寒そうな木々から目を逸らし、少し先を行くギイの背中に視線を戻した。その迷いのない足取りに、何とはなしに勇気付けられる思いがして、託生はそっと息をついた。
 やがて雑木林の向こうに、目指す音楽堂が見えてきた。音楽堂は西洋風の美しい建物だったが、薄暗闇の中に真新しい白い壁がぼうっと浮かび上がっている様子は、少しくおどろおどろしくもある。ギイはためらわずに入り口までの階段を駆け上がり、託生も置いて行かれぬようにとあわててそれを追う。施錠されているのではないかと思ったが、ギイが手を掛けると大きな扉はゆっくりと開いていった。
 扉の隙間から首を覗かせては見るものの、室内は薄暗く、内部の様子は判然としない。ギイは託生を入り口にとどめ、ゆっくりと壁沿いに歩みを進めていく。やがてぱちんと音がして、ラムプが一斉に灯ると、明日の準備がすっかり整えられているのが目に入る。更に首をめぐらせて捜すと、舞台の上には上布も真新しいピヤノが置かれており、その上にヴィオロンの入っている黒い行李が見付かった。
「あった!」
 託生は短くそう叫ぶと、するりと扉の内に滑り込んで舞台に向かって駆け出した。それをあわてて追いかけようとしたギイの後ろで、音を立てて入口の扉が閉まる。
 舞台に上り行李の中身を改め、託生はほっと安堵した。ヴィオロンは最後に見たときと寸分違わぬ様子で行李の中に納まっていた。直ぐにそのことを伝えようと自分を追ってきているはずの人を振り返ったが、そこにギイは居なかった。入口の方を見れば、ギイは扉に手をついたまま何やら考え込んでいる。託生は大きな声で呼びかけた。
「どうかしたのかい、崎君」
「扉が開かない」
「……え?」
「ヴィオロンは?」
「あ、うん、無事だ」
「そうか、まずはよかった」
 明るくそう返したギイの元へ、行李を手にして向かいつつ、託生は聞き直した。
「扉が開かないって、どういうことだい?」
「外から鍵が掛けられているようだな……ここに誘い込まれたのも、罠だったのかも知れない。いずれにしても、奴らの仕業だろう。ここに来たときも扉が施錠されていなかったから、変だとは思ったのだ」
「そうか。ヴィオロンを隠した人間はここの鍵を入手していて、今また施錠したというわけだね」
 ギイは扉を試すのを諦めると託生を促し、式典用に並べられた椅子に腰を掛けさせた。自分もその隣りに座り、天井を見上げる。
「章三達、心配しているだろうな」
「うん」
「だが上手くいけば、ここに辿り着く可能性も……」
「崎君」
 ギイの言葉を遮ると、託生はぽつりと呟いた。
「ごめんね」
「何がだ?」
「崎君達を巻き込んでしまった。一人で解決できたことだったみたいだ」
「それは結果論だろう。それに、葉山の役に立てたのなら、俺はそれでいいんだよ」
「……ありがとう。でも、どうやら原因は僕が明日の演奏者に選ばれたことのせいだったようだし」
 芳野達も、おそらく本気で託生からストラディヴァリウスを奪おうとしたのではなかったのだろう。演奏会の前日に困らせて、託生を不安がらせてやれればそれでよかったのだ。今となって見れば、託生はその程度の嫌がらせは甘んじて受ければよかったとも思っていた。
「実際、彼等の言い分も、わからなくないんだ。彼等が祠堂で長いこと研鑽を積んできたことは僕も知っているし、今も皆それぞれに努力している。今回は偶々僕が奏者に選ばれただけのことだ。僕だって努力が認められなかったら、気落ちしただろうと思うし、だから――」
「そんなふうに言うな」
 厳しい声音に、託生は思わずギイの顔をまじまじを見返した。
 ギイが自分にきつい声を出すなど、知り合って初めてのことだった。
 驚きを隠せない託生に取り合わず、ギイは言葉を続けた。
「確かに奴等も努力していたとして、それでも葉山の努力が勝っただけのことだろう。なぜそれを認めない? 葉山自身にだって、葉山の努力をないがしろにしていい理由はないぞ」
「崎君……?」
 ひどく真面目にそう言い立てるギイの様子に、託生は首を傾げた。
 なぜ、そこまで託生のことなどに拘るのか。託生にはわからなかった。
 返す言葉を捜して逡巡していると、ぶるっと震えが来た。
「寒いのか?」
「寒いよ。まだ三月になったばかり……あ」
「どうした?」
「窓の外。雪じゃないか」
 壁際の細い窓から、薄暗い空が見える。
 ちらちらと舞い降っているのは、どうやら確かに雪らしい。
「寒いわけだね」
 ぼんやりとそちらを見詰めていると、ふわりと温かなものが頬に触れた。見れば、ギイの襟巻きが外套の上に掛けられていた。託生は戸惑いつつ、ギイの温みの残る毛皮の襟巻きにそっと手を触れた。
「これじゃ、崎君が寒いだろう」
「大丈夫。俺は寒さにはめっぽう強いんだ」
 ギイはそう言って、振り返った託生ににっこり微笑むと、椅子から立ち上がった。
「それより葉山、暇潰しに舞台に上がってみよう」




 ギイに促されて上った舞台の上からは、音楽堂の全体がよく見渡せた。薄暗いラムプの明かりの中で、整然と並べられた座席が静まり返っている。託生の隣りに立ったギイは、前を見詰めたまま言った。
「どうだ?」
「どうって」
「明日はここで演奏するんだろう」
「そうだった……うまくここから救出されればね」
「ここから出られなければ、明日の演奏会まで待っていればいいのさ」
「凍死してしまうよ」
 ギイの楽天的な提案に、託生は笑いながらそう返した。
 ギイも笑ったが、ふと腕を伸ばして言った。
「あすこの椅子に皆人が座るんだぞ。緊張しはしないか?」
 託生は眼前の座席が人で埋った状態を想像しようとしたが、上手くいかなかった。どの道、自分はいつものように佐智と心を合わせて演奏するだけだ。それに、ヴィオロンはちゃんと託生の手に戻ってきたのだ。
「するかもしれない。でも、大丈夫だ。このヴィオロンがあればね」
 託生はそう言って、大事そうに行李を胸に抱えていとおしむように擦った。その様子をじっと見守っていたギイは、不意に優しい声で言った。
「大事にしているんだな、そのヴィオロン」
「ああ……家が困窮した折にも、これだけはどうしても手放せなかったんだ」
「そのストラディヴァリウスを手にした時のこと、覚えているか?」
 不意の問いかけに、託生は戸惑った。身体ごとギイの方に向き直ると、じっと託生を見詰めているギイのまなざしとまっすぐ向かい合う。
「それは、勿論」
 託生の返答に、ギイは小さく息をついて、意外な事を言った。
「あの時の約束通り、素晴らしいバッハを聴かせてくれたな」
「え……?」
 託生は意味が判らず、ギイの顔をまじまじと見返した。
 ギイは穏やかに微笑んで目を伏せると、すらすらと言葉をつなぐ。
「東京の、葉山伯爵の別邸だった。まだ幼いのに、とてもヴィオロンの上手な少年が居た。俺はその音色に魅せられて、知っている限りの曲を彼にねだった。彼はバッハが一番苦手なのだと、何度も練習していて」
「崎、君……?」
「その頃俺の父の持っている商会が、古いヴィオロンを数本入手していた。俺はその中から、出世払いということで一番高価なヴィオロンを選んで、貰い受けて――彼に、贈った。いつか、バッハを聴かせて貰うことを条件に」
「まさか、…………崎君」
 託生は驚愕に目を見開き、唇をわななかせた。
 ギイの口から出た言葉は、信じられないものばかりだった。だが。
 東京の、祖父の別邸。今はもう無い、幼い頃に何度か訪れた洋館。いくつの折だったか、確かに栗色の髪をした少年と出会った。託生のつたないヴィオリンを楽しそうに聴いてくれて、あれを、これをと請われて、何曲も弾いて過ごした。
 次々と蘇る記憶に、託生は頭を振った。
 当のギイは、変わらずに穏やかに微笑んでいる。
 託生はふと思い出したその言葉に、知らず口を開いていた。
「名前……、このヴィオロンの名は?」
「サブ・ローザ。離れてもまた葉山のヴィオロンをいつか聴けるようにと、二人で薔薇園で誓いを立てた」
 手繰り寄せた記憶に違わず一致したギイの言葉に、託生はひたいに手をやって目を閉じた。
 短いあの季節の終わりに、少年が託生にこのヴィオロンを手渡して、言った言葉。
 白い薔薇の咲き零れる下で、言った。
 いつか、バッハを。再会を誓って。
「崎君が……あの時の……そう、そうだ、……ギイ」
「葉山」
「……ギイ、……そうだ、君だ。…………どうして気付かなかったんだろう」
 急激に蘇った記憶に動揺するばかりの託生に、ギイは穏やかな声で話しかける。
「無理も無いさ、あまりに幼い頃の事だ。俺も最初は葉山があの少年だとは判らなかった」
 ギイが、このヴィオロンの贈り主だった。
 託生は力なく首を振り、ギイの視線を避けるかのように俯いた。
 このヴィオロンがあったからこそ、託生は頑張ってこられたのだ。どんなに劣悪な環境も、周囲の嫉視や蔑視も、全く気にならなかった。託生は、ただヴィオロンが弾ければそれで幸せだった。
 このヴィオロンがストラディヴァリウスという非常に高価な楽器だと知ったのは、随分後になってのことだった。託生にとっては、弾きこなせるようになったと同時にずっと憧れだったバッハを理解させてくれた、大事なヴィオロンだったのだ。そして、いつか薔薇の下で誓ったように、あの時の少年にこのヴィオロンでバッハを聴いてもらう、そんな果敢ない望みだけを胸に、託生はヴィオロンを弾き続けてきたのだ。
 なのに、ずっと気づかなかった。ここで、祠堂であの少年と再会していたなんて、それがギイだったなんて。恩人とも目標とも言うべきギイに、託生はなんと失礼で冷血な対応をしてきたことだろう。出会ってからの自分の言動を思い返すと、ギイに申し訳なくてたまらなかった。
 託生は顔が上げられずに、震える声で呟いた。
「ギイ……済まない、今まで……」
 ギイは俯いた託生の顔を覗きこむように、優しく微笑みを送った。
「謝るな。顔を見せてくれ。あの後、祠堂で再会するまでの間ずっと、葉山が研鑽を惜しまなかったことも、ヴィオロンを大事にしていてくれたこともわかっている。俺は本当に嬉しかったんだ。君が俺の惚れるようなヴィオロン弾きになっていたことを、心から嬉しく思っている」
「ギイ」
「あの時葉山のヴィオロンの音に惚れて、祠堂で再会して今の君に一目惚れした。葉山を知るにつれて、葉山の総てが好きになった。気持ちを受け入れて呉れとはもう言わない、だが、せめて」
 頬に触れようと伸ばされた手が、躊躇うように寸前で止る。替わりにまっすぐな視線を託生に送って、ギイはそっと微笑んだ。
「俺が君を想うことは、赦してくれ」
 託生は動揺しながら、なんとか返答しようと口をひらいた。
「僕――済まない、やっぱり僕は、君と恋愛は出来ないと思う、それでも」
 言葉を捜して黙った託生に、ギイはそっと問いかけた。
「俺を嫌いではないだろう?」
「無論だ」
 懸命に即答して何度も頷けば、ギイはあまりに優しく微笑むので、託生は胸が痛んだ。
 だがどんなに胸が痛もうとも、それ以上の気持ちは言葉に出来ない。
「それで充分だ、葉山」
 託生の目をじっと見詰めて、ギイはしっかりと頷き返した。
 堪らずに、託生は考えるより先に口を開いていた。
「ギイ、託生と……託生と、呼んで欲しい。昔のように。昔と同じように」
「…………ああ、託生」
 そう大切そうに呟くと、ギイはふわりと微笑んだ。
 今までに見た中で、最も美しい笑顔だと託生は思った。
「託生、君を愛している」
「…………御免」
「謝るな……ヴィオロンを、弾いてくれるか。俺の為に」
「……ああ、……ギイ。弾くよ、君の為に」
 託生はギイの視線から逃れるように背を向けて、行李をピヤノの上におくと、あのヴィオロンを取り出した。












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