恋は桃色
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 託生と佐智の「クロイツェル・ソナタ」は、決してお愛想などではない熱心な拍手によって労われた。観客席には祠堂に縁のある著名な音楽家等の来賓を迎えており、また学院の生徒や教諭のほか、音楽堂の建設にあたって惜しみない寄付を送った父兄会や卒業生によって埋め尽くされて、後ろの方には立ち見まで出ている。その超満員の観客達が、総立ちとなって手を叩いているのだ。託生と佐智は目を合わせて微笑みあうと、観客に向かって深々と一礼した。
 舞台の袖に戻っても拍手の勢いは衰えず、二人はなんとかつくろっていた表情を堪え切れなくなったようにはじけさせて笑い合い、固く握手を交わした。
「やったね、託生君!」
「うん、よかった!」
 それ以上言葉にならずただ笑い合っている二人に、ずっと袖で聴いていてくれたらしい音楽科の守村教諭も、喜びを隠し切れない様子で拍手を送りながら労ってくれた。
「二人とも、お疲れ様。今日の演奏は真実最高の出来だった! 非常に良かったよ」
「ありがとうございます、守村先生」
「先生のご指導のお陰です」
 更に続けようとしたところに、演奏会の進行を担当している教諭が少し慌てながら袖に入ってきた。
「二人とも、お疲れ様。観客も皆いたく感動しているよ。それでね、どうも拍手が止まないようなんだが、二人に追加演奏を頼めるかい?」
「追加演奏ですって?」
 二人は驚いて、思わず顔を見合わせた。
「託生君、どうする? クロイツェルのほかの曲で、今弾ける曲はあるかい」
「僕はいいよ、佐智君が何かお弾きよ。聴衆は佐智君の独奏を期待していると思うから」
「そんなことはないと思うよ。それに、託生くんのヴィオロンを待っている人が居るよ」
 佐智がじっと託生を見詰めてそう言うと、守村が口を挟んだ。
「いくら君達二人の気が合うといっても、突発の協奏は危険だね。どうかな、二人が順番に短い曲を演っては」
 その言葉に、それもそうだと佐智は頷き、すぐに進行担当の教諭に向き直った。
「じゃあ僕は、シュウベルトのモマン・ムジコーの第二番を。託生君は?」
「ええ……?」
 展開の速さについて行けず、託生は目を白黒させた。
「葉山君の得意な曲でいいと思うけれど」
 そう助言する守村の言葉に、託生はふと手にしたままだったヴィオロンに目をやった。
 託生のヴィオロンを、待ってくれている人。
 観客席のどこかで聴いてくれたはずのその人を思い出し、託生は決然として顔を上げた。
「……バッハの、エールを弾きます」




 G線一本で演奏する美しい曲を、託生は思いの丈を込めて弾いた。
 最後の音の余韻が消え、しん、と静まり返った音楽堂は、一瞬置いた後大きな拍手と歓声につつまれた。この熱心な拍手や賛辞は、託生一人へ送られているのだと思えば先程以上に照れくさかったが、やはり感慨も一入だった。託生は深々と一礼をし、退場した。
 控え室に戻って再び佐智と高揚を分かち合い、ヴィオロンに簡単な手入れをして行李に仕舞う。入れ替わり立ち代り控え室を訪れる守村や他の教員、そして手伝いの生徒達にまで温かい声を掛けられ、託生は心地よい満足感に充足していた。
 特に、野沢政貴をはじめ、音楽科の生徒たちが会いに来てくれたことは、託生にとってはうれしいことだった。これまで親しく会話したことすらなかった学友たちが、託生の演奏にシャッポを脱いだであるとか、佐智との息がとても合っていたとか、興奮した様子で口々に感想を述べ立てたのだ。彼等との間の隔てが少しでもなくなったような気がして、託生は彼等に丁寧に感謝の気持ちを伝えた。
 訪問客が一段落したのを見計らってか、二人きりになると、佐智は少し怒ったような調子で話しだした。
「無事に演奏会が終わってよかった。一時はどうなることかと思ったよ」
「そうだね、昨日はありがとう、佐智君。沢山迷惑を掛けてしまったね」
「君のせいじゃないじゃないか。全く、とんでもない事件だった」
 託生とギイが音楽堂に閉じ込められた後、やはり章三は別の経路から芳野等の企みにせまっていた。章三は佐智に二人を救い出させ、その間に芳野を捕らえておいてくれたのだった。章三の八面六臂の活躍に、ギイは彼等とは交渉で済ませると言い、演奏会への準備を促された託生等はそこで別れたのだった。
「それにしても、義一君も何を考えているのやら。芳野等の所業を学院に報告もせずに済ますだなんて、今日の演奏中にまた彼等が何かしはしまいかと、僕は随分心配したよ。尤も、演奏中にはそんなことも忘れてしまっていたけれどね」
「いや、大事にならずによかったよ。先生方に知れれば、どのような沙汰があるかわからないし」
「託生君、しかし……」
 そこで扉を叩く音がして、佐智の目付け役の大木が入ってきた。
「お二人とも、お疲れ様でした。とても良い演奏でした」
「ありがとうございます」
 更に一言二言交わした後、大木は佐智に何事かを耳打ちした。佐智は託生を振り返って、済まなそうな声で言った。
「託生君、済まないが先に失礼しなければならなくなった」
 これから来賓客達に、井上財閥の御曹司としての挨拶をするのだそうだった。
 すぐに了解した託生に、佐智は殊更残念そうにため息をついてみせた。
「すまないね、一緒にお茶でも飲みたいと思っていたのだけれど」
「ありがとう、でも僕への気遣いは無用だよ」
「うん、どうせお邪魔のようだし」
「え?」
 佐智の意味ありげな流し目に振り返れば、控え室の扉のところには何時の間にやらギイが立っており、こちらをじっと見ていた。優しい微笑みに、託生の心臓が少しく跳ねた。
「それではね、託生君、また後で。『義一くん』に宜しく」
 そう悪戯っぽく笑った佐智は、ギイを一顧だにせずに、大木を連れて出て行ってしまう。
 途方にくれた託生は、仕方なくギイに声を掛けた。
「あの、ギイ、中に入ってくれよ」
「ああ、ありがとう」
 椅子を勧めて向かい合い、気まずい思いをしている託生をよそに、ギイはにっこり微笑んだ。
「素晴らしかった」
 率直な賛辞に、託生も自然に笑って返す。
「ありがとう。佐智君と一緒だったから、実力以上の演奏が出来た気がするよ」
「ああ、見事に息の合った『クロイツェル・ソナタ』だった。そしてバッハも素晴らしかった」
 その言葉に、託生は自分の頬が赤く染まるのが判った。
「ありがとう、託生」
 何の気負いもなくそう続けたギイに、ギイのために弾いたわけではないと言いかけてやめた。
 それは嘘だ。
 今日のエールは、確かにギイのために弾いたのだ。
 託生はまっすぐな視線をギイに向けた。
「礼を言うのは、僕の方だ」
 苦手だったバッハを、バッハだけではない、沢山の音楽を、諦めずに来られたのはギイのおかげだ。
 ギイが呉れた、ストラディヴァリウスのおかげなのだ。
「君が待っていてくれたから、ここまで来られた。僕は今までずっと、いつか君に聴いてもらうために、ヴィオロンを弾いてきたんだから」
「託生」
 ギイは眸に穏やかな歓喜を湛えて、そっと言った。
「またヴィオロンを聴かせてくれるか?」
「ああ、勿論。何時だって弾くよ、……君のためなら」
 託生が懸命にそう言えば、ギイはいたずらっぽく微笑んだ。
「では、今からでも? 俺の部屋で」
 一寸怯んだ託生に、ギイは更に微笑んだ。
「章三も呼ぼう。昨日は俺も大分使いだてをしてしまったからな」
「あ、……うん、そうだね。僕ももう一度お礼が言いたい」
「ああ。それに佐智にも伝言しておけば、後から来るだろう」
「わかった。じゃ、ここを片付けて、守村先生にご挨拶をしてから伺うよ」
 託生は微笑みながらそう返事をすると、荷物を片付けるために席を立ち、ギイを部屋から送り出した。
 一人になって、こまごまとした品を風呂敷にまとめながら、つい頬に手をやった。
 ギイの部屋を一人で訪れなければならないかと思って躊躇したこと、ギイにもばれてしまっただろう。
 自然に親しい友人として振舞うまでには、まだまだ時間が掛かりそうだ。
 託生は小さくため息をつくと、まとめた荷物と黒い行李を手にして思いを振り切るように顔を上げ、控え室を退出した。







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 割と思いつきで始めてしまったので、書き終わって少しホっとしました。特に最後のほうは、当初の予定からは大分変更したので、むしろ時間を掛けて書いてよかったような気もしました(こういうことを書いてしまうと興ざめかもしれませんが、当初はバイオリンは託生祖父の遺品で、音楽堂で両思いにするつもりでした。

 タイトルは三島由紀夫「豊饒の海」第一巻からです。

 で、これ一本で終えるつもりだったのですが、まだまだ書きたいことが出来てしまったので、シリーズ化することにしました。続けるためにこういうラストにした、という感もありますね。当初から念頭においていた託生モテモテももっと書きたいし、勿論ギイをもう少し幸せにしてあげたいし(笑、あと書きはじめて気づいたのですが、佐智の学生生活を書いてみたいという気持ちも、わたしの中にあったみたいです。きっと近所のオバちゃんみたいなんだろうなあ、と…既に大分オバちゃん化している気もしますが…(笑。
 とりあえず次は、番外編としてせんせいのお話をアップします。

 途中で出てきた、「女優」=「シャウシュピーラリン」は原作の読みとは違うのですが、この方がドイツ語に近いようです。(ドイツ語協力:相方@ジョジョ、マリィさん、ありがとう!

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