恋は桃色
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 月が替わり、音楽堂の落成記念演奏会が翌日に迫っていた。
 放課後、生物学の教諭に呼ばれていた託生は、部屋に戻ろうと寮に入ったところで佐智その人に呼び止められた。
「やあ託生君、課題の提出は済んだのかい?」
「ああ、もう終えたよ。少し早いけれど、佐智君がよければもう練習ルッソンをはじめるかい?」
「それはいいね」
 佐智はほころぶように微笑んだ。練習が好きで好きで仕方がないという点でも、二人はよく気があっていた。
「部屋からヴィオロンをとってくるから、先に練習室へ行ってくれ」
「すぐそこだろう、部屋まで僕もお供するよ」
「いいのに、佐智君」
 託生はそう言いながらも、嬉しそうに微笑んだ。
 部屋へと歩みをすすめつつ、託生は佐智にこの後の予定を確認する。
予行演習ゲネラルプロ-ベは五時だったっけ」
「ああ、それまで練習室で一緒にさらっておこう。特別練習室をとってあるよ」
 今頃音楽堂は明日の準備で騒がしくなっていることだろう。設えが済んだ後、明日の本番と同じ手順での予行が予定されている。
 何とはなしに高揚した気分を分かち合いながら部屋の前まで辿り着き、託生は外套の隠しから鍵を取り出した。
 いつものように鍵穴に差し込み、捻る。
 鍵は回転せず、がちりと硬質な音をたてた。
「……?」
 託生は首を傾げて、鍵を引き抜いた。不審に思いながら握りに手をかけて引くと、扉はすんなり開く。横で見ていた佐智が、訝しそうに託生の顔を覗きこんだ。
「鍵、掛けて出なかったのかい?」
「そんなはずは……」
 託生は胸騒ぎを覚え、急いで部屋に入ると室内を改めはじめた。佐智は託生の背後でじっとそれを見守っていたが、やがて衣装棚の前で動きを止めた託生に恐る恐る声を掛けた。
「……託生君?」
「ヴィオロンが、ない」
「なんだって!?」
 佐智は目を見開くと、動きを停止したままの託生の袖を掴んで揺さぶった。
「託生君、他に。他には?」
「あ……、ほか、に?」
「気を確かに持つんだよ。ヴィオロンの他になくなったものはあるかい?」
「……ない、みたいだ。他に貴重品なんて、ないから」
「ということは、犯人はヴィオロンだけを狙ったんだね、わかった。ねえ託生君、」
「…………」
「託生君」
「…………」
「託生君!」
 佐智は呆然と立ちすくむ託生の袖を思い切り引っ張って、意識を自分に向けさせた。
「いいかい、しっかりおしよ。何とかする。義一君が、必ず何とかしてくれるから」
「……崎、君?」
 未だ放心したままの託生が戸惑うように聞き返すと、佐智ははっきりと頷いて微笑んでみせた。
「だから、大丈夫。すぐに義一君を呼んで来るからね。君はここに座って待っているんだよ」



 宣言通り、佐智は間を置かずにギイと赤池章三とを連れて戻ってきた。
 二人は厳しい表情で事情を説明する佐智の声に耳を傾けた。託生は書き物机の椅子に腰掛けさせられ、その両肩には護るかのように佐智の手が置かれている。動揺の収まらない託生は殆ど黙ったままだったが、聞かれたことにはなんとかぽつぽつと答えを返していた。
 一通りの事情を聞き終えたギイは、眉間にしわを寄せて大きくため息をついた。その様子だけでも、幼馴染の佐智には、激しく憤っている心中が推し量られた。だが、今はそれどころではない。苦労して怒りを押さえ込んでいるのは、ひとえに動揺している託生のためだろうと佐智には思われた。怒りに任せて犯人を罵るより、今は託生を落ち着かせてやり、ヴィオロンを捜すことが先だ。
 やがて佐智に視線を向けたギイの目にはまだ燃え滾るような感情が見られたが、その声は冷静だった。
「佐智、替りの楽器は準備できないのか? 一先ず、演奏会のためにだけでも」
「替りったって、葉山のヴィオロンは高価なものなんだろう? その辺の楽器で代役になるのか?」
 そう口を挟んだ章三に、佐智は首を傾げてみせた。
「よく知っているね、赤池君」
「有名な話だ……音楽科ではない僕でさえ知っているほどの、ね」
 章三の含みのある言葉に、佐智とギイはそれぞれに頷いた。
 犯人も、そのことを知っていたはずだ。
「僕は一先ず守村先生にご相談してくるよ。替りの楽器のことも、何とかしてくださるかもしれない」
「でも、でも佐智君、」
 それまで黙って成り行きを見守っていた託生は、替りの一言にぴくりと肩をふるわせ、佐智の顔を見上げて小さな声で呼びかけた。
 これまで何があろうと常に毅然としていた託生が、今にも泣き出しそうな顔で自分を見上げていることに、佐智は少し驚いた。託生はそのまま視線を落とし、震える声を喉から押し出すようにして言った。
「あれがないと、……ストラディヴァリウスだからじゃない、大事なものなんだ。あれでないと、僕は……」
「葉山」
 顔を上げると、ひどく真摯な目をしたギイがじっと託生を見つめていた。
「大丈夫だ」
「崎君……」
「葉山のヴィオロンは、明日までに必ず見つける」
 ギイがそう言い切ると、託生は思わず小さく頷いた。それを見たギイは少し微笑んで、すぐに真剣な目に戻ると再び佐智に顔を向けた。
「佐智、今日は予行があるんじゃんないのか?」
「あ、うん。五時の予定だ」
「葉山もこの状態だ、とりあえずそれは断った方がいい。いずれにしても、守村先生に事と次第を報告して指示を仰いでくれ」
「わかった」
 ギイの落ち着いた指示に気を持ち直した佐智は、はっきりと頷いてみせる。ギイも頷き返し、今度は章三に向き直った。
「章三、俺達はヴィオロンを捜そう」
「ああ、だがどこを、どうやって?」
「闇雲に捜しても時間の無駄だ。いいか、犯人は何らかの方法で葉山の部屋の鍵を開けて、ヴィオロンだけを盗み出している。そんなことをして利益がある、且つそれが可能だった人間を捜すんだ。無論、単独犯とは限らない」
 章三は難しい顔をしながらも、はっきりと請け負った。簡単に解明できるような事件ではない。だが、やるしかないのだ。
 やりとりを横で聞いていた託生は、あわてたように口を挟んだ。
「さ、崎君、僕も行く」
「顔色が悪いぞ。葉山はここで休んでいろ。心配は要らない、俺と章三が必ず見つけてやるから」
 ギイは本当に心配そうにそう言い、章三や佐智もそれに同意して留めようとしたが、託生は強情に首を振った。
「盗まれたのは、僕のヴィオロンなんだ」
 きっぱりそう言う託生をじっと見つめ、ギイは観念したように頷いた。
「判った。だが、葉山は単独行動はするなよ。俺と来い」
 それでは能率が悪い、と託生はなおも言葉を継ごうとしたが、ギイの真剣な表情に、黙って頷いた。




「な、何のことだい、ギイ。言いがかりはよしてくれよ」
 ギイに壁際まで追いつめられたその学生は、突然自分を訪ねてきたギイと託生とに動揺を隠せない様子だったが、なおもしらばっくれようと試みていた。
 託生の部屋で解散し、ヴィオロンを捜しに出てから既に二時間近くが経過していた。途中で何度か章三と落ち合って情報を交換し、どうやら最近しばしば託生にからんでいた音楽科の芳野とその取り巻きが、今日の午後から妙な行動をしていたということがわかった。そして今まさに、ギイと託生がその仲間の一人をつかまえたところである。髪の長いその学生は、ギイと託生とをちらちら見ながら口を笑いの形にまげて、余裕を見せようとしている。
 その無駄な努力を笑うように、ギイは冷たく言い放つ。
「葉山のヴィオロンを盗んだのは、お前かお前の仲間だろう」
「葉山君のヴィオロン? ヴィオロンがなくなったのかい? ハハ、随分杜撰な管理をしていたものだね、葉山君。音楽家の命とも言うべき楽器を紛失するだなんて」
「鍵が掛かった部屋に保管するのが杜撰というなら、どう保管すればいいんだ? お前、今日の午後の授業をサボタージュしたそうだな?」
 ギイは章三から得た情報を、酷薄な笑顔で開示した。
「授業に出ないで、何をしていた? 寮監の部屋を訪ねたそうだな? どうにか言訳をして、鍵を借りたのか?」
 見る見るうちに青ざめてきた長髪の学生の変化を、託生は瞬きもせずに見守った。
「お、俺は……知らない、知らないぞ! 俺は鍵を借りただけだ!」
「実行犯は別に居ると? 黒幕はやはり芳野か」
 ヴィオロン専攻の学生の中でも優秀だという噂の芳野のことは、ギイも知っているらしかった。
 芳野の名前を出すと、長髪の学生は最早全てが露見したと悟ったのか、開き直ったかのように託生に向かって捲し立てはじめた。
「……だ、だとしたらどうだと言うんだ! 葉山、お前など、編入してきたばかりのくせに! 芳野はずっと評価されてきたんだ! 何故新参者のお前なんかが、あんな大役を……」
 なおも言いつのろうとする学生の胸元を掴み、ギイは強い力でその身体をぐいと壁に押しつけた。その力強さが意外に思えて、思わずギイの顔を振り返ると、ギイは怒りを滲ませた表情で静かに口をひらいた。
「……黙れ。ここで過ごしてきた年月の多寡は関係ない、葉山もれっきとした祠堂の学生だ。その葉山のヴィオロンが認められたのは、葉山のせいではない。それが悔しいのなら、お前もこんなくだらない茶番に関わっている間に楽器の練習でもするべきだったんだ」
 その迫力に気圧されてか、目を見開いたままぶるぶると震えだした学生に、ギイはゆっくりと問いかける。
「ヴィオロンは、何処だ」
「…………お、音楽堂、だ……」












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