恋は桃色
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 音楽棟へと向かう並木道を歩いている託生の前に、不意に前から来た生徒が立ちはだかる。ヴィオロンの行李を庇った拍子に、手にしていた楽譜類がばらばらと散らばった。
「おおっと、失礼」
 軽々しい謝罪は、本気のものとは思えなかった。現にぶつかった本人は、地面の上の楽譜を気にする素振りも見せずに再び歩き出している。周囲を取り巻く生徒達から洩れる忍び笑いを無視して、託生は屈んで楽譜を拾い集めはじめた。
 こんなことは、いつものことだ。些細な嫌がらせなどを気にしていたら、ここでは生活して行けない。
 楽譜を揃えた所で小さく溜息をつくと、頭上から小馬鹿にするような声が聞こえてきた。
「ふん、相も変わらずどんくさいな」
 顔を上げると、傲然と腕を組んでこちらを見下ろしているのは、「女優シャウシュピーラリン」こと高林泉であった。託生は立ち上がり、まっすぐに高林の顔を見返した。
「何か僕に用かい、高林君」
「どんくささも相変わらずだが、鈍さも相変わらずだな。お前、僕の忠告を無視して未だにギイに付き纏っているそうじゃないか?」
 むしろ託生について廻っているのはギイの方だと思うのだが、火に油を注ぐことになりそうなので、託生は高林の顔を見返したなり黙っていた。日々示されるギイのあからさまな好意は、託生が多くの学生の嫉視を集めてしまう原因の一つとなっていた。殊にこの高林は並々ならぬ執着をギイに寄せており、事あるごとにこうして託生に苦情を申し入れてくるのだ。
 その高林は、落ち着いた託生の様子に却って激昂したようだった。
「葉山、お前のような男がギイと懇意にしているだなんて、僕は許せない! 容姿も並、学力も並、家柄も今は見る影なしときて、あげくギイに迷惑ばかり掛けているくせに!」
 高林は柳眉を逆立てて託生を睨みつけた。「女優シャウシュピーラリン」の棹名は伊達ではない。いつだか雑誌で見た、活動写真の『サロメ』にそっくりだ。
 高林の勢いに流石に気圧されながらも、託生は懸命に弁明しようとした。
「別に僕は、崎君と懇意になどしていない」
「黙れ! 先だっても、丸善の御用聞きがギイにヴィオロンの弦を届けていたのを見た。あれは君のための品だろう、違うとは言わせないぞ!」
「弦?」
 託生は首を傾げた。
「知らない。僕が頼んだものではないよ」
 正直に過ぎる託生の物言いは、またしても高林を激昂させる結果となったようだった。高林はぎりぎりと音がしそうな程に奥歯を噛み締めて、託生の胸倉に掴みかかった。
「ギイに手数を掛けさせておいて、その言い草は何だ!」
「高林、そこまでにして置くのだな。ギイに嫌われるぞ」
「な……!」
 凛とした冷徹な声に、託生と高林は同時に振り向いた。
 遠巻きにした生徒達を背景に、赤池章三とギイその人とが並び立ってこちらを見ていた。
 ギイの視線に、高林は流石に気まずそうに託生から手を離し、けれど憎憎しげに章三を睨みつけた。
「赤池……余計なことを!」
「僕等は偶然ここを通りかかっただけだ。公衆の面前で何をやっているんだ、君は」
 冷たい章三の物言いに、それまで黙っていたギイが言葉を続ける。
「高林、葉山の言っていることは本当だ。俺は葉山に頼まれて行動したわけではないのだから」
 自分が慕っているギイの言葉は流石に堪えたのか、高林は言葉に詰まり押し黙った。居た堪れなくなったのか、高林はくるりと託生に向き直り、再び眸に鋭い光を滾らせぐっと睨む。
「覚えておけよ!」
 叩きつけるようにそう言って走り去った高林を見送り、託生が唖然としていると、章三が周囲にわだかまっている生徒達に声を掛け始める。
「さあ、余興は終りだ。散った散った」
 流石に章三の言葉に逆らえる者は居ないのか、ばらばらと散り始めた人の流れの中で、ギイはそっと託生に近寄り、声を掛けた。
「大丈夫か、葉山」
「別に、僕は」
 そう曖昧に言い置いて歩き出すと、すぐにギイもその隣りを歩き出した。
「済まなかったな」
「崎君のせいでは、ないだろう」
 ぽつんと告げられた謝罪の言葉に、託生は本心からそう言った。
 高林や他の生徒達に羨まれ、嫌がらせまでされていることは、確かに迷惑極まりない。だがそれとこれとは話が別で、たとえその原因の幾許かがギイの好意にあるのだとしても、彼等の迷惑行為はギイの責任ではない。
 託生はそれよりも、今の状況の方が気になっていた。
「崎君、……何故、僕について来るんだい?」
 二人はいつしか音楽棟の前まで来ていた。託生はギイに向き直り、はっきりと疑問を突きつける。
 ギイは少し困ったように視線を流し、すぐに諦めて肩を竦めた。
「高林にばらされてしまったが、渡したいものがあるのだ。あのような人前では、葉山にまた迷惑が掛かるだろうと思ってさ」
 そう言い乍らジャケツの隠しから袋を取り出し、託生に差し出す。
 高林の言っていた、弦のことだろうか。本当に? それにしても。
 託生は頭をかすかに横に振った。
「貰う謂れがない」
「そうか? 今日誕生日だろう、葉山」
 ぱちぱちと託生が眸を瞬かせると、ギイは会心そうに微笑んだ。
「どうして、それを」
「佐智が教えてくれた。迷惑かもしれないが、俺にも祝わせてくれ」
 ギイの差し出した袋を受け取って中身を見ると、四種類の弦が入っている。それぞれ、託生がいつも使っている社のものだ。託生が二社の弦を使い分けていることも、佐智に聴いたのだろう。
 この舶来の弦は昔から託生が愛用しているものなのだが、決して安物ではない。しかしギイが日頃託生に贈ろうと提案し、その度に託生が断っている高価な品々よりは、値段としては遥かに安価なものだった。それになにより、ヴィオロン弾きには無くては困る消耗品で――正直なところ、祠堂に来て出費の嵩んでいた託生にとっては、ありがたい贈り物だった。
 託生は何とはなしに頬を緩め、自然と微笑んだ。
「……ありがとう、崎君」
「受け取ってもらえて、嬉しい」
 ギイもほっとした様子で微笑んだ。
 ……何故か、贈ったギイの方が、嬉しそうだ。
 託生はそんなギイの心からの笑顔に胸が騒ぐのを覚えて、戸惑った。俯いて弦の袋を弄りながら、つと言葉が零れる。
「崎君、は」
「何だ?」
「何時なんだい」
 ふと目を上げると、ギイの不思議そうな顔が目に入る。自分が逡巡せぬうちにと、託生は急いで後を続ける。
「誕生日」
 ギイは少し驚いたように目を見開いて、またふわりと微笑んだ。
「七月。二十九日だ」
「返礼するよ、きっと」
「ありがとう。気を使うなよ」
 託生は頷くと、ギイに別れを告げて音楽棟に向かった。
 友人同士の、他愛ない約束ごとだ。
 誰とだって、する会話だ。
 託生は何故か騒いで鎮まらない気持ちを持て余して、何度もそう自分に言い聞かせた。




「また高林君に絡まれたそうだね」
 練習室に入ってきた佐智は、ヴィオロンも取り出さないまま椅子に座ったなり、ギイに貰った弦を玩んでいる託生を見つけ、にっこりと微笑んだ。託生は苦笑して、立ち上がった。
「情報が早いね、佐智君」
「野沢君が現場を通りかかったそうだよ。仲裁しようとした折に義一君が登場したので、出番がなかったと言っていた」
 野沢は同じ音楽科の、それも階段長だ。たおやかな外見とは逆に、大胆且つ竹を割ったような性格で、託生もまだあまり親しくはないものの、何となく好感を抱いていた。
「それ、義一君から?」
 佐智は目敏く託生の手の中にある新品の弦を見つけると、首を傾げた。
「……そうだ」
「ふふ、誕生日おめでとう、託生君……義一君に話したこと、迷惑だったかい?」
「そんなことは、ないけれど」
 曖昧な託生の言葉に、佐智は無言で先を促した。
「どうして崎君は、僕のことをこうして気に掛けてくれるんだろうと思って」
「何を今更。君のことが好きだからだろう」
「それが判らないんだ。あの崎君が何故、僕などを……全く理解できないよ。崎君のような全く人好きのする男子が、わざわざ同性の相手を、しかも僕みたいな何の取り得もない男を……構う、のか」
 高林に言われたことに、ある意味託生は納得していた。
 自分など何の面白みもない人間だし、付き合って有益だとも思えないのだ。
 託生の戸惑い声に、佐智はきれいな黒髪を揺らせて笑いながら首を傾げた。
「そうは言うけれどね、彼、君に一目惚れだったんだよ」
「それ、何時の事なんだい? 僕は崎君と初めて会った時のことを、覚えていないのだけれど」
 託生の記憶では、ギイには自己紹介されるよりも先に、恋心を告白されていた。
 その時は、なぜこのような美男子が自分などを熱烈に口説くのだろうという疑問で一杯になってしまって、彼が一体何時自分の事を知り初めたのかということにまでは頭が回らなかったのだ。
 佐智はいかにも楽しそうに微笑んで、記憶を引き出すように顎に指を置いて話し出した。
「秋の初めだったっけ、義一君と二人散歩に出て、噴水の辺りを歩いていた時だ。たまたま編入の手続きに来た託生君と擦れ違ってね、義一君、いきなり立ちすくんだかと思ったら真っ赤になって。かなり時間が経ってからやっと息を吹き返したかと思ったら、あの美しい人は誰なんだと高声一つ、途端に駆けだしてしまうんだもの。僕は何か急性の病気かと疑って、随分はらはらさせられたものだよ」
 そんな風に聴かされても、全く記憶にないのだ。
 たとえ言葉を交わさずとも、佐智やギイのような美男子と擦れ違っておいて、全く記憶にも残ってないというのも信じがたいことにも思えた。尤も、祠堂への編入が決まって気を張っており、周囲に目が届かなかったという理由はあろうが。託生は他人に興味の薄い自分の性質を再確認しつつ、ため息をついた。
 黙り込んだ託生に佐智はくすりと笑うと、後を続けた。
「まあね、いずれにしても、何故義一君が託生君に惚れ込んでいるのかまでは、正直僕にも定かではない。だけど彼の幼馴染として言わせて貰えば、義一君は君のことを真摯に想っているように思うよ。決して伊達や酔狂等ではなくね」
 否定も肯定も出来ずに黙っていると、佐智はふと真面目な顔をした。
「でも、それはい、義一君のことはいんだよ。彼は自分で自分のことを、ちゃんと判ってる。問題は託生君、君の気持ちだ」
「……僕は」
 佐智に返事をしようとしながら、託生は自分の中にわだかまった不可解な感情に戸惑った。
 それを脇に追いやって、考えながら言葉を続ける。
「僕は……今は、恋愛などしている余裕はないし、たとえあったとしても」
 言葉を切って、こちらをじっと見詰める佐智を、まっすぐに見詰め返す。
「僕は同性と恋愛することは、出来ないよ」
 それだけ言うと、託生は黙ってヴィオロンの準備を始めた。
 本当の心持ちだ。恋愛経験はないけれど、自分が同性に恋をするなど、考えもよらないことだとしか思えない。
 ……けれど、
 ギイの笑顔を思い出すと、胸が騒ぐ。
 それは無視出来ないほどに、強い情動になっていた。












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