恋は桃色
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 午後の授業を終えた託生は、ヴィオロンの行李と楽譜とを携え、速足で練習室へ向かっていた。
 今日は佐智と練習ルッソンの約束をしているのだが、あれやこれやの用事を片付けていたために、既に時間に遅れてしまっている。他の多くの生徒達と違い生活の世話を見てくれる人間も居ないため、託生は日常のわずらわしい雑務を一人でこなさなければならないためだ。尤も当人としては、これまでも自分のことはすべて自分でしていたので、さしてそれを苦にすることもなかった。だが、この広大な祠堂の敷地のあちこちに建てられた校舎や寮やらを何度も行ったり来たりしなければならないことや、そのせいで佐智等に迷惑を掛けてしまうという事態には、流石に閉口していた。
 音楽棟と呼ばれる校舎の前まで来た託生は、校舎の入り口にたむろする生徒達を見て一寸眉を上げた。が、そのまま構わずに彼らの傍まで行くと、はっきりとした声で彼らに告げる。
「中に入りたいんだ。そこ、退いてくれないか」
 大きな扉の前に座り込んでいた四人の生徒は、笑顔をぴたりと消してそろって託生を見上げた。無遠慮な視線を託生は黙って受け止める。眼鏡を鼻に乗せた一人が立ち上がり乍ら、わざとらしい笑みを顔に張り付かせて託生の顔をじろじろとねめつけた。
「誰かと思えば、我が音楽科の期待の星、葉山君ではないか」
 その言葉に追随するように、下卑た笑いが起こる。託生は些かの動揺も見せず、じっと彼等のまなざしを受けて立った。
「これはこれは。確かに、葉山託生君だ」
 嫌味っぽく確かめるその言葉の後ろから、更に意地の悪い問いかけが飛んでくる。
「葉山君、僕等の名前が判るかい?」
 託生は流石に微かにおとがいを引いた。顔はよく見かけるように思うので、おそらくは同じ音楽科の生徒なのだろう、とは思う。けれど名前までは判然としなかった。
「すまないが、判らない」
 その答えを予期していたのであろう、四人はいやらしい笑いをさざめかせて目配せをし合った。
「我々は君と同じ音楽科の生徒、同級なのだがねえ」
「僕等のような一般生徒は、葉山君に名前を覚えては貰えないようだな」
 託生が級友の名前を中々覚えられないのは、既に出来上がっている集団に突然抛り込まれた編入生だからでもあり、また記憶力が元々優れないからでもあり、いずれにしても決して悪気があってのことではない。しかし、ここでそんな説明をしても無駄であろう。彼等はただ、託生を批判したいだけなのだから。
 託生が沈黙を守っていると、殊更に痩せた体躯の一人が、さも今思いついたかのように頓狂な声をあげた。
「そうだ、葉山君! 僕等はこれからティータイムにするつもりだったんだよねえ。折角だし、お近づきのしるしにねえ、一緒にどうだい? 僕等は君と一度ゆっくり話をしてみたかったんだよ」
「そうだ、それはいい。急ぐこともあるまい、葉山君。一寸僕等に付き合い給えよ?」
 託生はしっかりと彼等の顔を見回して、口をひらいた。
「お誘いは有難いが、これから練習の約束が入っているんだ」
「おやおや、つれないご解答だ」
 託生のそのにべもない答えもまた予期していたものであったのだろう、再び低い笑い声が起こる。
 託生と佐智が音楽堂落成記念演奏会で演奏することも、そのために練習予定を組んでいることも周知の事実である。彼等は当然それを知り乍ら、託生をからかっているのだった。
 託生が硬い表情のまま黙っていると、最初に立ち上がった一人がわざとらしい笑い声を上げた。
「君のような優秀な生徒なら、一遍や二遍練習を抜けてもどうということはなかろう? 付き合いたまえよ」
「別に逢引しようと言っているわけでもないのだから、そう堅くならずに」
 やや長めの髪型が特徴的な一人が、にやにやと笑いながら託生の肩に馴れ馴れしげに手をおく。託生はやんわりとそれを払い、再び口を開いた。
「言ったはずだ、僕はこれから練習なんだ。退いてくれ」
 凛とした託生の態度に、長髪の生徒は気色ばんだ。
「随分とお高くとまってくれたものだな」
 吐き捨てるようなその言葉に、他の三人も追従して苛立ちを露にしはじめる。
「はん、勿体ぶっているのさ。陰間茶屋か何処かの御作法かねえ?」
「どうせ処女ユングフラウでもないのだろうに」
「はは、そうだそうだ、きっと編入のために、ここの学院長にでも身体で取り入ったのだろうよ」
「成る程。例の音楽堂での演奏会、何故葉山に決まったのかと思っていたが、そういう裏があったのか」
「何しろそれくらいしか手段がなかろうからな。金もなし、後ろ立てなし、ヴィオロンの腕もたいしたことはないというのに、ああして殊更とり立てられているのはおかしいとな、俺も常日頃から思っていたのだ」
 加速度的に非礼に、下品になっていく言葉を、託生は黙って投げつけられるがままに耐えた。
 調子に乗った身長の低い一人が、ちらりと託生の提げている行李に目をやった。
「そもそもあのヴィオロン、相当高価なものだそうじゃないか」
「そうだ、僕はあれは、ストラディヴァリウスだと聞いたぞ」
「なに、ストラディヴァリウスとな? はは、それでは良い音がするのも当然ということかね」
 託生の表情が険しくなったことにも気づかず、四人は託生を愚弄し続ける。
「ははは、しかし宝の持ち腐れだろうよ」
「或いは馬子にも衣裳か。しかし、然様な高価なものをどこで入手したのやら」
「ヴィオロンの入手経路を確かめる必要があるのでは……」
「そのような根も葉もない言い掛かりを附けられるような覚えはない!」
 突然大きな声を出した託生に、四人は怯んだ。
「僕のことは何とでも言え、だがこのヴィオロンは」
「そこ、何を揉めているんだ」
 冷やかでよく通る声が、不意に彼等の間を割った。
 声のした方を見遣れば、背のすらりと高く、まみえのすっと濃く鋭い、目元の涼しげな生徒がこちらをじっと見詰めていた。
 殊更怒りを顕したわけでもない、落ち着いた様子のその彼にしかし、四人はすっと顔色をなくして呆然と立ちすくむ。託生をじっと見詰めそれから再び四人へと視線と移す、彼のまなざし一つで促されてか、四人はあたふたと言い訳じみたことを口にしはじめた。
「な、なな何でもないんだよ」
「そうだ、きゅ、級友として、ヴィオロンについて質問していただけだ」
「な、なあ? ははは……何も揉めてはおらぬよ」
「そうか、僕には葉山が君等に迷惑しているように見受けられたのだが、これは僕の目が節穴だということかな?」
 回答を求めてはいないその冷たい物言いに、四人は押し黙って互いに目配せをして頷きあった。
「分が悪い。芳野、ここは退こう」
 ばたばたと立ち去る四人を冷たい目で見送って、彼はくるりと託生に向き直り、大きく嘆息した。
「全く、お坊ちゃま方は碌でもないな」
「……あの、……ありがとう」
 呟くように、しかしはっきりと託生が口を開けば、彼は少し驚いたように目を見開いて、ふと目線を外した。
「礼には及ばん。それよりも、君、葉山。絡まれ易い性質だろう。こんなことも初めてではあるまい」
 先ほどから彼が自分の名を呼んでいるという現実を再確認させられて、無作法だとは思いつつ、託生は問い返さずには居られなかった。
「君、僕のことを知っているのか?」
「無論だ。君は有名人なのだ。そうと知らなかったのならばもう少し自覚した方がよかろうし、今後は成るべく一人で歩かず、友人と行動するべきだな」
 それは無理だろうとは思ったが、彼に援けられたという手前もあり、託生は敢て反論はせずにその言葉を聴いていた。
「何にせよ、困ったことがあれば、僕でも寮長にでも直ぐに相談し給え」
「君がそう言ってくれるのはありがたいが、自分のことは成る丈自分でなんとかするようにするよ」
 託生がきっぱりとそう言うと、彼は気を害するでもなく、愉快そうに微笑んだ。
「そう言うと思ったよ。矢張り面白い男だな、君は」
「面白い?」
「ああ。中々気丈で男気のある奴だと見ていたが、果たして僕の見立てに間違いはなかったようだ」
「そんな風に評されたのは、初めてだよ」
「はは、おいそれとは印象を言語化されぬだけさ。まあいい、いずれ機会があればゆっくり語ろう。記念演奏会も楽しみにしている」
 そういい置くと、彼は返事も待たずに歩き出し、託生はその背中を呆気にとられて見送った。ぼんやりと彼の言葉を反芻していると、背後から玲瓏とした声が聴こえてきた。
「韓非殿も相変わらずだな」
「佐智君」
 託生ははっと振り返り、声の主の姿を認めて今の状況を思い出す。託生は懐中時計を持たないので正確な時刻は判らないのだが、おそらく約束の時刻をかなり回ってしまっているはずであった。慌てる託生に、佐智はにこやかに声を掛けた。
「託生君が遅いので、捜しに来たんだよ」
「すまない、随分遅刻をしてしまって」
「いや、構わないよ。何かあったのだろう?」
「……なぜ?」
 どこかから先の一部始終を見ていたのだろうか、と託生が首を傾げれば、佐智は屈託なく微笑んで人影の消えた道の向こうを指差した。
「彼が介入したのだろうと判断したんだよ」
「彼を知っているのかい、佐智君」
「赤池章三君だよ。君、知らないのか? 副寮長じゃないか」
「ああ、彼が赤池君か。名は知っている」
 託生は頷いて、ふと思い出し質問を重ねた。
「先程の、韓非殿、というのは?」
「棹名が韓非子。規則に厳しくて有名なんだ。彼に逆らえるのは、義一君か寮長くらいだよ」
 突然出たギイの名に託生は少し動揺をみせたが、佐智はあえてそのことには触れずに満足そうなため息をついた。
「しかし、そうか、遂に赤池君がお出ましとはね。彼も、君に興味があるのだろうなあ……やあ、全く色男だね、託生君は」
「佐智君……」
 託生は大きく嘆息した。
 そろそろ、意外といえば意外なほどの佐智の俗っぽさにも、慣れなければならない。












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