恋は桃色
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「託生君、聴いたかい?」
 佐智がそう問いかけながら小首を傾げると、長く美しい髪がさらさらと学生服の肩から流れ落ちた。
「聴いたかって、何をだい?」
「三月の音楽堂落成記念演奏会のこと。やはり君と僕とで、協奏曲を演ることになったようだよ」
「そうか、決まったんだ」
 託生はやや固かった表情をふわっと和ませ、うれしそうに頷いた。
「よかったね」
「うん、佐智君と一緒に演奏できるのは、楽しみだ」
 無欲な託生の返答に、佐智はスタインウェイの鍵盤を手巾ハンケチで払いつつ、こっそり苦笑いをもらした。
 ここは祠堂学院の中の音楽科特別練習室である。黒々としたピヤノが鎮座し、立派な譜面台も置かれている。
 祠堂学院は、S県の山間にぽつんと建っている、華族の子弟たちが集まる学校だ。帝大予備門としての役割を担いつつ、友好国ドイツのギムナジウムに範をとって中学校と高等学校を合わせたような体裁をとっており、約三百名の男子がここで生活し学んでいる。
 ヴィオロンの才能を買われ、先の秋ごろ特待生として祠堂の音楽科に編入した託生は、正課の授業に飽きたらずか、放課後の時間には必ず練習室を利用して日々研鑽をつんでいた。井上財閥の御曹司でありながらピヤノの天才としても有名な井上佐智は、託生のヴィオロンの音色とその人柄とを気に入って、しばしばこうして二人で合奏を楽しんでいた。



 モオツァルトを合奏した後、思いだしたように託生は佐智に声を掛けた。
「そうだ、佐智君。今度から水曜と木曜はここ使えなくなったんだ。ぼくは第五練習室が割り当てになったんだよ」
 なんでもないことのようにそう告げる託生に、佐智はやや呆れたような声音で返す。
「なったからって……第五練習室にはピヤノがないじゃないか。合奏できないよ」
「うん、そうなんだけれどね、仕方がないよ」
「何故なんだい?」
「何故って」
「当ててみせようか、また芳野がねじ込んだのだろう」
 芳野とは音楽科の同級生で、託生と同じヴィオロンを専門としている学生である。
 託生の無言を肯定の返事と受け取って、佐智は美しい眉間に皺をよせて嘆息した。そのまま椅子を引いて立ち上がり、託生をじっとみつめながら言葉を継ぐ。
「嫌がらせだよ、これは」
 その言葉にも黙って微笑む託生が歯痒くて、佐智はため息をついて更に言葉を継いだ。
「まったく……彼ら、よく飽きないものだと思うね。演奏会の人選についても、彼や取り巻きが大分運動していたようだけれど」
「仕方ないさ、彼らにとっては、僕みたいなぽっと出の貧乏人は目障りなんだろう」
 祠堂が華族御用達の学校とは言え、このご時世では入学者を華族のみに限定することは不可能かつ非効率でもあるので、能力のある裕福な平民の子息も広く受け入れるようになってきている。そして、また託生のように才能があるのに金銭的に余裕がない若者に対しても、特待制度を設けて門戸を開いているのである。
 だが近年ではそうした状況を利用して、何らかの問題を抱えた金満家の子息が、実家の財や権力にものを言わせて入学してくるということも増えている。彼らの中には自らの家系に劣等感を抱いているものも多かった。他者を見下すことで自尊心を満たしたいそうした連中にとって、託生は才能だけが取柄の貧乏人として、自分たちよりも格下であると見なし得るうってつけの存在となってしまったのである。また、そんな託生のヴィオロンが学院長や、また佐智のような美しく家柄もよい人間に気に入られているということも、彼らの嫉妬心をあおる結果となっていた。殊に、件の芳野という学生は同じ楽器を専攻しているという事情もあり、たびたび託生へ言いがかりをつけてはいやがらせを繰り返しているのである。
 尤も、彼らが託生を目の敵にする訳には、もう一つの大きな要因があるのだが……それは一先ず措こう。
「財力と家名でしか人間を見られない彼らのような人種でも、君の血筋を考えればあのように騒げないはずなのだけれどね。どうも理解しかねるよ」
「佐智君、いいんだ。君がそう言ってくれるのはありがたいけど、僕の家系など僕自身には関係のないことなのだから」
 佐智はふたたび苦笑を頬にのせ、託生の瞳を覗き込むようにして言った。
「君のそういう潔癖なところ、僕は好きだよ」
 随分接近した美しい顔と、その唇から生み出された際どい言葉に、託生は瞬時に赤くなった。
「な、佐智く、ん、何を言うんだ、君ま、まさか……」
「ふふ、何をうろたえているんだい。僕が言っているのは勿論友人フロイントとしての友愛フロイントシャフトという意味でだよ? 僕にはソドミィな志向はないからね」
 誰かさんと違って。
 佐智は美しい幼馴染を思い出しながらおしまいの言葉を胸に収め、使用した楽譜をとんと揃えると小脇に抱えた。
「すまないがこれで一旦失礼するよ。家のことで、大木先生に呼ばれているんだ。夕餐でまた会おう」
「ああ、僕はもう少し練習ルッソンしていくよ」



 心地よい残響をじっくりと味わい、そろそろ自室に戻ろうかと弓を降ろしたところへ、背後から手を叩く音が聞こえてきた。託生が振り返ると、室の入口の前にはここしばらくで見慣れた異国風の顔立ちの少年が立っていた。
「崎君」
 崎義一、あだ名を仏蘭西の風でギイ。扶桑財閥――国外での通称をFグルウプという――の嫡男で、仏蘭西系の四分の一の混血のため、栗色の髪と、同じ淡い栗色の眸、白い陶器のような面差しがうつくしい。
 そのギイが、頬をやや紅潮させて託生に話しかける。
「すばらしいバッハだった。実際、感動したよ」
 少々浮かれた体すらあるギイだったが、途方に暮れたような託生の様子を見てとると、すぐに気まずそうな表情をうかべた。
「その、……勝手に入ってすまなかった」
「それは、構わないが……人が悪いよ、黙っているなんて」
「託生があまり集中しているから、声を掛けられなかった」
 託生はますます困ったような顔をする。
「……それ、よしてくれよ、名で呼ぶの。君と懇意になったつもりはないよ」
「すまない。君が不快ならよすよ、葉山」
 託生はギイに背を向けると、ヴィオロンを専用の黒い行李に収め、ぱちんと錠をおろした。
 行李を肩に掛け、ギイに軽く会釈をして扉を押し開き外に出る。ギイも直ぐに後を追って来たが、それを待つでもなく託生は歩む速度をゆるめない。
「部屋に戻るのかい?」
「ああ」
 いつの間にやら隣を歩きだしたギイに言葉少なに返事をしつつ、託生は戸惑っていた。
 ギイと居ると、いつもそうなのだ。
 元々引っ込み思案な気質がある託生は、それでなくても人とうち解けるのが得意ではない。相手がギイのような人間であれば、尚更だ。ギイは周囲の耳目を集めずに置かないその家柄や外見、卓抜した学才もさることながら、屈託のない、それでいて堂々とした人となりが十全に魅力的な男だ。だからだろうか、ギイが嫌いだという訳ではないのだが、どうにも気後れがしてしまうのだ。
 それに、ギイはなぜか、託生が対応に困るようなことをしばしば言ったりしたりするのである。例えばそう、
「その行李、俺が運ぼうか」
 などと、まるで上級生か女学生を相手に申し出るようなことを、託生に向かって言い出したりするのだ。
 託生は軽く嘆息して、ちらりとギイの顔を見て言った。
「結構だよ。君は僕の使用人ではないし、それに楽器を人に触れられるのは好きではないんだ」
 にべもない返答にもギイは少し困ったような笑顔を見せるので、託生は流石に少し心が痛んだ。
「その……、言葉が過ぎたよ。けど、君はそんなことはしてくれなくて良いんだよ」
「葉山はいつもそう言うが、俺は葉山のために何かしたいのだ、何でも、どのようなことでも」
「……どうしてだい」
「言っただろう、俺は君が好きなんだ、葉山」
 託生は歩みを止め、これ見よがしに嘆息して隣りの美男子に向き合った。
「崎君、君の言うことはてんで僕には理解出来ない。僕は男子だぞ、そして君も男子だろう」
「判っている。だが、俺は君が好きなのだ」
「僕には君が判らないよ。君ならば、魅力的な素晴らしい女性といくらでも交際出来るだろうに……頭を冷やせよ」
「どんな女性も俺には不要だ。葉山でなければ駄目なのだ」
「何故」
「判らない」
 託生は再び嘆息し、ギイもまた苦笑を口元にのせた。
「この問答も何度目だろうな」
「全くだ。兎に角、金輪際妙な事は言わないでくれよ」
「妙な事なのか?」
「これ以上の議論は無意味だ。失礼するよ」
「待ってくれ、葉山」
 託生は最早呼びかけには答えず、さりとて殊更急ぐでもなく、堂々とその場を立ち去った。












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