恋は桃色
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 早々に潜り込んだ布団の中で、佐智はもう随分長い間、寝返りをうっては溜息をつくということを繰り返している。夕食を残したので、目付役の大木は心配して頓服薬を飲ませようとした。それは何とか断ったが、代わりに命じられた早めの就寝についてはこれ幸いと諒解した。自分でもそれは甘えだと判っているので佐智は自己嫌悪を催し、ただでさえ波立つ胸の内はさらに休まることがなかった。
 章三に落胆されたという事実が、佐智に重くのしかかっていた。嫌われていると思っていた相手と意外にも仲良く慣れた、その反動なのだろうか。佐智は自分でも不可解なほど、章三の反応に動揺していた。
 遠くから眺めるだけ、噂に聞くだけだった、規則に厳しいという韓非殿は、お茶を煎れるのが巧く案外に気さくで、そして友人を思いやる親切な男だった。「韓非殿」のかような一面を知っているのは、ギイや託生をはじめとしたそう多くはない級友達のみだろうと思うと、純粋にうれしく且つまた慕わしさも日に日に増した。そんな予想外だった章三の優しさに、自分は甘えすぎてしまったのだろうかと、佐智は大いに反省していた。章三はやはり「韓非殿」だったのだ。
 自身に投げられた章三の問いを、改めて自身に突きつける。弾けない曲などというものが、本当にあるのだろうかと。それは運命だと片付けようとした佐智に、章三は否を示した。恋愛をしないものと決めている佐智には表現し得ない感情があると思うのは、間違いなのか。弾けない情緒を弾き表せと、章三はそう言うのだろうか。佐智は薄暗い部屋の中でじっと瞬きをしながら考える。

 章三は規則にこだわる男だと言われているけれど、章三がこだわっているのはおそらく規則そのものではないのだと思う。佐智が思うに、章三は必要なこととそうでないこととの間に、彼なりに明確な線引きを行っていて、規則を守るということは彼においては基本的に必要なことと見なされているのだ。だから逆に必要が上回れば、規則を破ることだって厭いはしない。
 たとえばあのヴィオロン盗難事件の折にも、章三はどこかから入手してきた音楽堂の鍵をこともなげに出してみせ、佐智を驚愕させたものだった。殊にあの折は式典の直前であり、鍵も厳重に管理されていたであろうに、一体どこから手に入れてきたのだと佐智が問うても、章三は不敵に笑って済んだらすぐに返すさ、とうそぶいていた。そんな悪餓鬼めいた笑い方は初めて見るものだったが、佐智は章三のそのような面はむしろ好ましいと感じたのだ。正統な手続きを経て鍵を手に入れようとすれば、時間がかかるし芳野らの悪事も学校当局に露見することになる。それよりも一刻も早く託生の手にヴィオロンを取り戻し、芳野らの処遇をギイに任せることのほうが、誰にとっても有益だと章三は判断したのだ。
 つまり、規則に煩く、そして必要ならばそれを簡単に破ってしまうというのは、別に章三がいい加減だからでも独善的だからでもないのであり、それは章三なりの倫理的な判断なのだと佐智は思う。
 当然のことながら祠堂では不純同性交遊は禁止されている――勿論、不純異性交遊も当然ながら禁止なのだが、ここには女性が殆ど居ない――し、規則の上だけではなく学生一般の通念においてもそれは許されざる行いである。韓非殿とあだ名される章三であれば、それを取り締まりたいはずである。だが彼は、相棒と新しい友人との間に先日来生じている淡い恋愛を、見て見ぬふりを決め込んでいる。見て見ぬふりどころか、衆目から二人を隠してやろうとさえしている様子を、佐智はしばしば目撃している。してみればおそらくは、章三も佐智同様に、あの恋が二人にとっていかに大切なものなのかを、それが失われれば彼らが彼らではいられなくなってしまうほどに大事なものだということを、しっかり分っているのだろう。分っていればこそ、規則に反する二人を黙認しているのだろう。そういう男なのだ。だから、おそらくは。佐智は寝返りをうち、青い窓をそっと見やる。 
 運命等という言葉で、今の自分に表現し得ない情緒を諦めるということは、章三には必要な努力を怠る者の言い訳にしか聞こえなかったのだ。自分の限界を運命という理由で認めることは、章三にとっては怠慢に思われたのだろう。そして、きっとその通りなのだろうと佐智は思った。自分は章三に甘えすぎてしまったのではなく、単に章三の指摘したように、甘かっただけなのだ。
 佐智は暗闇の中、寝台の上でそっと身体を起こした。窓外から青い月光が入るだけの部屋で、布団から這い出してピヤノに歩み寄る。黒い肌に手を触れてすべらせ、音をたてずに蓋を開く。象牙色の白鍵にたおやかな指をおとせば、ポーンとひそやかに音がかえってきた。その残響が消えるまで指を鍵盤に休ませ、やがてしんと静まりかえった部屋の中で、佐智はつめていた息をゆっくりとはいた。
 きちんと椅子に腰掛け、章三に褒めて貰った『グノシエンヌ』をゆっくりと弾き始める。
(「思考の隅で」…「あなた自身を頼りに」…「舌にのせて」)
 曲によっては拍子も小節の区切りも書かれていない、そんなこの曲集の自由さに惹かれた佐智は、作曲者が記した奇妙な注意書きまでも完全に暗記している。その一言一言を思い返しつつ、佐智は何かが自分の中で開いていくような心持ちを得ていた。
「そうか、……そういうことなのだ」
 異国の踊り手がたおやかに舞うようなピヤノの旋律が、静かな夜の中をぬっていく。第一番を末尾まで弾き終えて、佐智は満足の吐息をついた。久しぶりに無心にピヤノを弾いたような気がして、そっと白い鍵盤を撫でて窓の外へと目をやった。
「僕にはやっぱり、ピヤノしかない。僕のピヤノを……聴いて欲しいな。彼に」













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