恋は桃色
恋は桃色:トップページへ









 その日、練習 ルッソンを終えた佐智は、少し遠回りをして帰ろうと校舎の裏手の道を歩いていた。小道をゆっくりと歩きながらつらつらと考え事をして、ふと横手を見ると、炭焼き小屋の扉が丁度閉じるところが目に入り、ふと首をかしげた。雑木林の更に向こうに位置する炭焼き小屋は、生徒にはほとんど関わりのない場所だが、その扉の影に祠堂の制服を見たように思ったのだ。散歩がてらの気持ちで佐智は小道をはずれそちらへと歩みをすすめ、木々の間のけもの道をぶらぶらと歩いていった。
 小屋の入口へ近づくと、独特の匂いが鼻をかすめた。小屋の扉はきっちりとしまらないようになっているので、中の煙が漂ってきたのだろう。不良生徒が人気のない炭焼き小屋を喫煙場所にしていただけのことかと、他愛ないからくりに佐智は少々がっかりしつつ、踵をかえそうとした際に壁板の隙間から中をふと垣間見て、驚きに目をみはった。瞬間、視線をあげたその人と目があってしまい、逃げることも叶うまいと思い切って扉をあけ、細い身体を中に滑り込ませた。
「……井上、」
「お邪魔するよ」
 佐智はそう小さく声をかけ、躊躇ってからまた口を開いた。
「赤池君……喫煙、するんだね」
 木製の箱に腰掛けていた章三は、戸惑った顔で佐智を見上げると、手にした敷島を灰落としに押しつけ火を消した。
 未成年の喫煙は法で禁じられているし、当然ながら祠堂においても罰則が定められている。だが章三は言訳をするでもなく、ふっと小さく苦笑すると困ったように言った。
「ばれてしまったな、好い加減な人間だと」
 佐智は真面目な顔で、首を横に振った。
「いや、そんなことはないよ。屹度赤池君には必要なことなのだと思う」
「必要」
「たとえ禁止されていようとも、君にとっては、喫煙が何か意味のあることなのだろうと思うから」
「……買い被りだ、井上。僕は未熟な人間なんだ」
 また苦笑して、章三はふと表情をあらためる。座していた木箱から立ち上がり、真っ直ぐに佐智を見た。
「この前は」
 ぱちり、と瞬いた佐智に、章三は一瞬躊躇い、けれどはっきりと言った。
「済まなかった。……井上に偉そうなことを言ってしまって、自分が恥ずかしい」
「赤池君」
「許して欲しい」
 そう頭を下げる章三に、佐智はあわてた。
「頭をあげてくれ、赤池くん。君の言っていたことは正しいよ」
「そんなはずはない」
「いや、そうなんだ。僕が努力を忘れかけていただけだったのだから」
「何を言うんだ、井上は誰より努力しているだろう」
 章三は少し怒ったようにそう言い、佐智はそのことをうれしく思いながらもゆるゆると首をふった。
「君こそ、僕を買いかぶりすぎだ。……屹度、僕は少し焦っていたんだ。「頭を開いて」「舌にのせて」ピヤノを弾くことを、すっかり失念していたのだ」
 『グノシエンヌ』の注意書きを引用してそう言えば、章三は不思議そうな顔で首を傾げた。
 「頭を開いて」弾くこと、「舌にのせて」弾くこと、どちらも佐智は経験したことがないし、これからもすることはないだろう。佐智に限らず、誰にとっても不可能だ。だから、こうした言葉をサティのたわごとだと退けてしまうのは簡単なことだ。しかし、サティの注文通りに演奏することは不可能なのだと諦めてしまえば、そこで終わってしまう。そうではなく、不可能を可能とすることを目指して演奏すべきなのではないか。そして、それを実行するのなら、『悲愴』にも同じように挑戦できるはずなのではないか。
 佐智は少し微笑んで、言葉を続けた。
「ピヤノで表現できるはずなんだ、僕が。ここにない花の美しさを、見たこともない異国の踊りを、経験したことのない男女の……恋の歌を」
 踏んだことのない異国の音楽をも弾いて楽しめるというのが、音楽という芸術の悦楽でもあったのに、すっかりそのことを忘れてしまっていたと佐智は思った。託生のヴィオロンが奏でるあたたかい音色は勿論魅力的だ。しかし、佐智が託生と同じ音を出す必要はないのだ。
「だから、『悲愴』もまた弾けると思うのだ」
「それは、僕もそう思う。井上なら、屹度弾ける」
 力強く請け負う章三に、佐智は莞爾にっこりと微笑んだ。
「そう言ってくれてありがとう。それで、赤池君に、お願いがあるのだ」
「何だ。何でも言ってくれ」
「僕のピヤノを、これからも聴いて欲しい」
 章三は驚いた顔で佐智を見返したが、佐智はその視線をまっすぐに受けとめた。
 迷子になっていた佐智を導いてくれたのは、章三なのだ。少なくとも佐智はそう思っている。
「迷惑で、なければ」
「迷惑だなんて、そんなことはない。だが……わかっただろう、井上も。僕は音楽のことなどてんでわからない素人だし、たいした人間でもない。井上のピヤノを聴かせて貰えるような立場じゃない」
「そんなことはないし、たとえそうだとしてもそれは関係ないことだよ」
 戸惑う章三に、佐智は微笑んで語りかけた。
「僕は足りないところの多いピヤニストだけど、それを補うための努力ならできる。そのことを忘れないように、君に観ていて欲しいのだ。君に楽しく聴いて貰えるようなピヤノを弾くなら、きっと僕はそう曲がらずに歩いていけると思う」
 佐智の言葉を聞いて、章三はますます困った顔になった。そんな表情も初めて見る、とぼんやりと思っていると、章三は視線をゆらがせて、やっと弱った声で返事を返す。
「それは……随分過剰な期待をされているような気がするが」
「やはり、迷惑だろうか」
 そっとそう問うと、章三は決然と顔をあげた。
「つまり、ピヤノを聴いていれば、いいのだな」
「ああ」
「判った。自信はあまりないが、任せろ」
 佐智はほっと息をついた。
 章三は、出来ないことをうけがうことはない男だ。きっとこれからも、律儀に佐智のピヤノを聴いてくれることだろう――佐智が努力を怠らない限り。その確約は予期していた以上にうれしいもので、佐智はふと、自分は本当は何が不安だったのだろうと思った。けれど、今は再びこうして章三と向き合っていられるということのうれしさに、その疑念もすぐに吹き飛んでしまった。佐智は思いついて、章三に向かって右手を差し延べた。
「ということで、これからも宜しく、赤池君」
「こちらこそ、井上」
 章三は力強く頷くと、佐智の白い手をぐっと握ってくれた。その手の力強さはまた、そのまま章三の倫理かのようだ。この力の導くままに自分は自分のピヤノを弾こうと佐智は思い、だから、触れる掌に一瞬心が揺れたことには、気づかなかったことにしようと思ったのだった。













prev top












---
 ここまで一年半もかかってしまいました…やっと終了しました。
 ここまでおつきあいいただき、本当に、本当にありがとうございました。

 制作に時間がかかってしまった理由はいくつかあるのですが、連載の開始を「Another Morning」と同時にしてしまったことは、かなりまずかったなあと反省しています。
 わたしはお話を書き始めるとすぐにアップしたくなってしまうほうなので、アナモニ・ソナチネはどちらも大筋は決めてあったしなんとかなるかと思ってついアップしてしまったのですが、これがとっても甘い算段でした。結果、どちらも難産するハメにおちいり、途中からまずはアナモニを片付けようときりかえて、ソナチネはずいぶん放置してしまいました。文体も、かなりばらついてしまった気がします。続けてお読みくださった方には、本当に申し訳ありませんでした、読んでくださってありがとうございました。

 そして、これだけ時間がかかっておきながら、更に申し訳ないことに、実はまだこのお話は終わりではないのでございます…。
 実はソナチネは、当初は視点切り替え小説の予定でして、章三と佐智の視点を両方入れようと思っていたのですが、うまく切り替えられず(このあたりも制作に時間がかかってしまった要因のひとつなのですが)に、ずるずる来てしまいました…。これではちょっと、書きたかったことの半分しか書けていないし、分りづらい部分も多いと思います。なので、章三視点は別のお話としてアップしようと思います。

 ただ、途中経過は難産しましたが、そしてまだ半身を欠いておりますが、お話としては結構気に入っております。…や、単に章三と佐智の交流が好きなだけかもしれませんが。原作でもそうなんですが、めったにないキャラ同志のからみ、というのがとっても好きなのです。それだけ原作タクミくんのキャラクターたちが活き活きとしているってことなのだろうなと思っています。

 ということで、なるべく近日中に、もうひとつのソナチネを書こうと思います。が、これは裏コイモモに行ってしまうかも知れません…そういうお話ではないのですが、でも表に置くのもどうか…しかしなんかもうこのソナチネを表に入れた時点で、なにもかも今更という気もしますが…。
 しかしこの昭和初期パラレルにおいて、佐智のパートナーが登場するとしたら、誰が一番面白いのでしょうね。勿論イチオシは章三ですが、この時代で、スパイな聖矢さんが祠堂に潜入捜査とかも面白そうですね。

 なんだかまとまらない後記ですみません。
 それでは、ひとまずこれにて失礼します。

2

せりふ Like
!



恋は桃色
恋は桃色:トップページへ