恋は桃色
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 ぱたぱたと足音が聞こえてきたかと思うと、曲がり角のあちらから飛び出した人影が、佐智のかかえた本をかすめて床に落とした。
「わっ」
「あ、済まない、佐智君」
 葉山託生はあわてて床にかがんで、佐智の本をとって渡してくれた。
「大丈夫かい」
「ああ、平気だ。随分急いでいるんだね、託生君」
「え、ああ……ギイを、待たせているから」
 ふと見れば、託生は大事そうに楽譜を抱えている。その題名に気づき、佐智は声を少しかすれさせた。
「『悲愴』、だね」
「ああ、ギイはこの曲が気に入っているのだそうだよ。入学式に佐智君が弾いたのだろう? そう聞いた」
 それで部屋に譜面をとりにいったところなのだと、そうにっこり微笑む託生に、他意などありはしない。佐智は笑顔のまま託生を見送ると、ふと思案した。


 ◇ ◇ ◇


 ピヤノソナタ『悲愴』、第二楽章。
 表題からは連想しえないような、美しく優しい音律。
 姿の見えない化けものにでも追われるように、佐智は『悲愴』を切り崩していく。そうして音量をゆるがせ、緩急をつけ、技巧の効果を考えながら弾く曲の、だが何と無味乾燥なことであろうか。ベートーベンの紡いだかくも美しく切ない旋律が、ただの音の羅列になってしまったかのようだった。どんなに工夫を凝らしても、まがいものの情緒をごてごてと塗り重ねているだけのようで、心が焦るばかりだった。
 先ほどふと気になった、託生の笑顔が目の前をよぎる。幸せそうな笑顔で、『悲愴』をギイに弾いてやるのだという。なぜこの美しく幸せそうにも聴こえる曲が『悲愴』と名付けられたのだろうかと、佐智はその問いを思い返す。音律がゆれる。わからない。
 佐智はこの曲を、完璧に弾ける――楽譜どおりに。そして、聴衆の願うような情緒をもって。けれど、託生のようなあたたかな『悲愴』は、やはり佐智には弾けはしないのだ。今も、そしておそらくこれからも。
 最終小節までたどり着いて、最後の一音を出すと、佐智は呆然と鍵盤を見つめた。あの妙なる美しい曲は、佐智の手をすり抜けるようにしてどこかに霧散していってしまった。失意のままに席をたとうとした佐智の耳に、どこからか拍手の音が聞こえてくる。はっとして振り向けば、練習室の内にはいつの間にやら章三が立っていた。
「済まない、勝手に部屋に入って。その、渡すものがあってな、大木さんが見学を勧めてくれたから、つい」
「いや、構わないんだ」
 佐智は懸命に、強ばった笑顔をとりつくろった。
 よりにもよって章三にこんな曲を聴かれたくはなかったと思ったが、後の祭りである。そのことから意識をそらそうとして、自分に渡すものというのはなんだろうと思いついた。
「赤池君、その」
「弾けたのだな」
「え」
 章三の言葉に、佐智はふと顔を上げた。
「その曲、以前弾けないと言っていた曲だろう。『悲愴』、と言ったか」
「……ああ、そうだ」
「弾けたのだな」
 同じ言葉を繰り返し、章三はうれしそうに笑う。その表情を見てはいられずに、佐智は再び二色の鍵盤に視線を落とした。
「弾けないのだ」
「弾けない。どうして。たいそう美しく弾いていたではないか」
 不思議そうにそう言う章三に、佐智は言葉を返せなかった。章三が心からそう思ってくれているのだろうことは、佐智にもわかる。だが、今の佐智には、章三の信頼は重荷だった。章三の問いへの返事というつもりもなく、自嘲気味に佐智は口を開いた。
「たぶん僕には、この曲を真の意味で弾くことは出来ないのだと思う」
「なぜ」
「なぜでも」
 なぜなら、このような美しい曲が、なぜ『悲愴』なのだろうか。
 わからない。
 託生ならば、わかるのかもしれない。佐智の知らない感情を知っている、託生ならば。
 託生が佐智の幼なじみとはぐくんでいるようなあのあたたかい情感を、自分は知らない。そして未来永劫、知り得ようがない――佐智は己の限界に気づかないふりはできなかった。たとえばもしかしたらこの『悲愴』という曲に、そうした恋を知ることで生まれる曲想があるのかもしれない。でも、自分はそのような可能性を持っていない。恋もしたことがないような自分に、果たして人の情緒のような複雑なものを表現できるのかどうか、まったくもって自信がなかった。恋愛をしないものと決めている自分は、この曲の可能性を、そしてこれから弾く多くの曲の可能性を、狭めてしまっているのかもしれないではないか。だが、それも佐智にはどうしようも出来ないことだった。
「仕方がないんだ。ただ、そういう運命なんだ」
 思わずふてくされたようにそう言ってしまい、佐智は自分でも少し驚いた。
 こんなふうに投げやりな気持ちをそのまま口にしたのは、初めてのことかもしれない。
 自分でも動揺して思わず黙り込んだ佐智に、章三が感情を殺した声で問いかける。
「運命。そんな言葉で片づけてしまって、それでよいのか。弾けない曲などというものが、本当にあるのか、井上」
 はっとして顔をあげると、章三はすっと横を向き、佐智の方も見ずに冷たい声で言った。
「井上は、もっと気骨のある男なのだと思っていた」
 それなり、章三は部屋を出て行ってしまい、後には呆然とした様子の佐智が一人取り残されたのだった。













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