恋は桃色
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 寮の玄関をくぐろうとしている章三の背中を見つけ、佐智は我知らず微笑んだ。
「赤池君」
 声をかければ、章三は振り向いてかすかに頷いてよこす。
「ああ井上、丁度いいところに。茶菓子を送ってもらったんだ。少し寄っていかないか」
「ありがとう、ご相伴にあずからせて頂くよ」
 二人連れだって寮内を歩いていると、いつものように周囲の羨望のまなざしを感じて、佐智は少し誇らしいような気分になった。泣く子も黙る副寮長と並んで歩いていると、決まってこうした視線を感じるのだ。だが佐智は、そうした視線の中に、あの井上佐智を伴っている章三への羨望も含まれているということには、全く気づいていないのだった。
 章三にいざなわれて彼の部屋を訪れると、彼の目付役である柴田という青年に出迎えられた。
「井上君、いらっしゃい」
「こんにちは、柴田さん。お邪魔します」
 柴田は佐智に愛想よく微笑むと、章三に視線を向けた。
「章三君、俺はこれから奈良さんの研究会に出る予定なのだ、申し訳ないが……」
「ああ、勿論構いません。茶くらい自分で煎れます」
「そうか、すまないね。井上君、ゆっくりしていってくれよ」
「ありがとうございます、いってらっしゃいませ」
 丁寧に挨拶をする佐智に眉尻を下げて笑い、柴田は部屋をあとにした。
 柴田ら目付役の青年達の中には、帝大などで学問を修め、今後も研究の道を歩むという者が少なからずいる。そのため彼らは、優秀な同志が自然と集うこの祠堂の環境を利用して、しばしば研究会やサロンを開いているのだった。
 章三は佐智に座布団を勧めると、茶の準備に立っていった。一人残された体の佐智はしげしげと室内を見回した。こうして章三の部屋を訪問するのも既に何度目かわからないのだが、佐智の部屋は洋室なので、和風にしつらえられた章三の部屋は未だに物珍しいのだ。流麗な手の掛け軸や柴田が活けたのであろう春を感じさせる花を見ると、無意識裡にほうっと溜息をついてしまう。こうした雰囲気にも最初の頃こそ少し気後れしたものの、それもこの部屋の主らしいと思えば最近ではむしろ親しみがわいてきた。湯を持って戻った章三は、丁寧に茶を煎れながら口をひらいた。
「今日は確か、ピヤノの実技ではなかったか」
「実はそうだったんだ。あまり巧く弾けなくて、少しくさくさしてしまった」
「そうか」
 章三は軽く頷いて急須をおき、佐智の前に手づから煎れた茶を置いた。
「では、気分を替えるために、甘いものでも食べろ」
「ありがとう、赤池君」
 佐智はにっこり微笑んで、勧められるままに羊羹を一切れとった。凛とした、しかしやわらかい漆黒の感触は、そのまま章三のようだと思う。
 今日のように行き詰まりを感じた時に章三のもとを訪ねるようになったのは、章三が佐智に厳しく、かつ優しいからだと佐智は思っていた。
 なにしろ、佐智が「練習ルッソンがうまくいかなかった」などと愚痴めいたことを言おうとも、他の誰もまともに取り合ってくれはしないのだ。きっとごくささいな失敗なのであろうだとか、凡人からしてみれば失敗などと呼べるようなものではあるまいとか、皆勝手に思い込んで納得し、佐智の不安や失望といった感情はないものとみなされてしまうのだ。「天使エンゲル」であれば、正確無比な天上の音色を常に奏で続けているとでも思っているのだろうか。もしもそのようなピヤニストが本当に居るのなら、是非会ってみたいものだと佐智も思う。
 だが章三は、佐智がなにか失敗した折、練習ルッソンがうまくいかない折は、黙って聴いてくれる。だから佐智は章三に対しては、今日は失敗した、と口にすることも出来る。そうすれば、先のようにただ頷いて、茶や菓子や小説や、折々の気晴らしの品を勧めてくれるのだ。
 佐智は桜の模様のついた茶碗を取り上げて香りを楽しみ、一口含んでにっこり微笑んだ。
「赤池君のお茶はいつも美味しい」
「そうか。安い葉なんだが」
「煎れ方がいいのだろうね」
 佐智の褒め言葉にも、章三は少し首を傾げただけですぐに話題を変えてしまう。
「それで、今日は何を弾いたのだ」
「え。ああ、今日は、……リストだ」
 リストは佐智も好きだ。ただ、その曲名がよくなかった。佐智はつい苦笑して、繰り言を漏らしてしまう。
「『リーベストラウム』――愛の夢、という曲なのだ。西洋人は愛だのなんだのという言葉を簡単に使うけれど、僕ら日本人は困ってしまうね。よくわからなくて」
「まあ、確かにそういったことは僕もよく判らんが」
「そうだろう」
 むむ、と困ったようにうめく章三に、佐智は苦笑した。
 まだ十代の自分たちには、『愛の夢』などという曲名は大層すぎる。まして、恋愛はしないものと決めている自分には。
 そう思いながら佐智はふと、章三を自分とひとしなみに扱ってもよいものかどうかと思い直した。
 恋愛を諦めている自分とは違い、章三もごく一般的な男子として、初恋の経験くらいはあるのかもしれない。いや、あるに違いない。冷静で理知的で、同年代の男子よりもやや大人びていて、一見冷徹に見えつつも親切な章三なのだ。女学生や小間使いに想いをかけられたこともあるだろうし、章三自身が誰かに懸想をした経験すらあるかもしれない。佐智は、今までそんなことを考えもしなかった自分を恥ずかしく思った。やはり、自分の情緒はあまりに幼く未熟なのだと、改めて思う。
「どうした、井上」
「……いや、何でもないのだ」
 佐智はぎごちなく笑って、誤魔化すかのように羊羹を口に運んだ。













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