恋は桃色
恋は桃色:トップページへ






 曲を弾き終えた佐智は、鍵盤からすっと手をひき横を向いた。それで初めて曲が終わったことに気づき、章三は照れくさそうに笑いながら手をたたいた。
「僕には正直よく判らんが、モダンな曲だな。異国の舞踊曲かと思われたが」
「お気に召さなかったかい」
「いや、判らんには判らんが良い曲だと思う。井上が楽しそうで、なんとなく聴いていて楽しくなった」
「それは、うれしいな」
 佐智はその言葉の意味を深く考えもせず微笑んで、身体ごと章三の方に向き直ると首をかしげた。
「やっぱり新しい曲より、古典音楽の方がいいかい。何か、赤池君の好きな曲があれば、弾こうか」
「折角そう言ってもらっても、西洋音楽はさっぱりで……あ、そうだ」
 章三は思い出したようにふと佐智の目をまっすぐ見返し、すぐに逸らしてしまう。
「入学式の折に弾いていた曲、覚えているか」
「ああ、ベートーベンの『悲愴』」
 にっこり微笑んで頷いて、しかし次の瞬間、笑みが消える。
「井上……、」
 訝しそうに呼ぶ章三に、佐智ははっと我に返る。
「あ、すまない、何でもないのだ。弾こうか」
 ぎこちない笑いを無理矢理浮かべて、章三の視線を避けるようにして佐智はピヤノに向き直った。
 動揺する心を静めつつ、何とか手を鍵盤の上に置いてみたものの、しかしいつもなら意識などせずとも動き出すはずのその手は、固まったかのように動かない。佐智はますます心を騒がせる。
 やがて、ぱたり、と鍵盤の上に白い掌が落ちた。
 その軽さは、よくもまあこの細指で激烈なフォルテシモやアパッショナートな音色を紡ぎだしたものだと感心させられるほどに頼りないものだった。まるで一振りの天使の羽根のようなその掌を見詰める章三に、佐智はぽつりと告げた。
「弾けない」
「……え?」
 章三が戸惑っていることはわかったが、佐智にはそれ以上の言葉を発することが叶わなかった。
「あ……、井上だって、覚えてない曲があるのだろうな。よく知らずに言って、済まなかった」
「いや」
 佐智は少し自嘲気味に微笑んで、首をゆるく振った。
「一旦暗譜した曲は、僕は忘れはしない。でも、……弾けないのだ」
「井上。何か、あったのか」
「……ああ、いや……そうではないのだけれど」
 曖昧に濁し、佐智は目を伏せる。
 ベートーベンのピヤノソナタ、その美しいメロディは佐智も大好きで、何度も弾いたことのある曲だ。楽譜など既に完璧に暗譜している。
 けれど、佐智は思い出してしまっていた。しばらく前に、託生がこのソナタを弾いている場面を、偶然覗いてしまった折のことを。無心の表情で弓をあやつる託生と、その隣りで本当に幸せそうにそれを聞いていたギイ。そのヴィオロンの音色は本当に美しくまた聴く人の心をゆるがせるもので、このピヤノ曲の真髄はかような音色だったのだと思い、佐智はうちのめされた。もちろん、ヴィオロンとピヤノという楽器の違いはある。だが、あのような音色は自分には到底紡げそうにないと思い、それ以来佐智の音楽に対する自信というものは、粉々になってしまったのだ――
「井上」
「あ」
 呼びかけに、物思いに沈んでいた佐智は目の前の友人の存在をやっと思いだし、あわてて顔を上げた。
「ごめん、赤池君。折角リクエストを呉れたのに……」
「そんなことはいいんだ、井上。何かあったんだろう? 本当は」
 章三の言葉に、佐智は再び目を伏せた。
 何か――、いや、何か特別なことがあったわけではない。
 ただ、気づいてしまったのだ。自分の才能の限界に。
 また黙り込んだ佐智の顔を覗き込む、章三は
「すまない、問い詰めるつもりはないのだ。僕は音楽に関しては全くの門外漢だし、役立たずかもしれないから。ただ、もし僕でも力になれることがあれば、何でも言ってくれ」
「赤池君」
「井上はどうか判らんが、僕としてはもう戦友のつもりだからな」
「戦友……」
 佐智は耳慣れない言葉に首をかしげ、あ、と気づく。先般のヴィオロン盗難事件において、佐智が章三の相方をつとめたことを指しているのだろう。
「でも、僕は何も出来なかっただろう。君について廻っただけだ」
「いや、そんなことはない。ずっと閉じこめられていたギイよりかは、大いに働いたさ」
 くすりと笑った佐智に、章三は伺うように付け加えた。
「しかし、井上には迷惑か」
「いや、……うれしい」
 戦友だなんて、初めて言われた。
 これまで誰も佐智を、そんな風に呼んではくれたことはなかったのだ。そもそも、佐智がそういった危険な出来事に関わること自体が、あり得ないことだったのだから。
 戦友、それも、赤池章三の。
 佐智は改めてその言葉をかみしめ、ふと口元をゆるませた。自分には過ぎた評価だと思ったが、章三本人がそう言ってくれるのなら、素直に喜んでも構わぬだろう。佐智はにっこりほほ笑んだ。
「ありがとう。韓非殿にそんなふうに思ってもらえるなんて、何だか恐悦至極だな」
「……その呼び名は、やめてくれ」
 韓非子なんて言われるのは不本意なんだ、と顔をしかめた章三に、佐智は今度は心おきなく吹き出した。













prev top next 











2

せりふ Like
!



恋は桃色
恋は桃色:トップページへ