恋は桃色
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 『グノシエンヌ』と題されたエリック・サティによる小曲集を、佐智は機嫌よく弾いていた。
 そこここに記された作曲者の奇妙な注文付けにも、今日は楽しんで答えられる。
  「音楽界の異端児」などと呼ばれるサティは、『グノシエンヌ』の譜面に「思考の端末で」「うぬぼれずに」「頭を開いて」などといった意味不明瞭な語句を書き記している。先日まではそのような一種のお遊びにつき合える気分になれなかったのだが、今日は違った。
 先だっての赤池章三との会話が、佐智の心を音楽に対して前向きにさせていた。章三が佐智に、佐智のピヤノに興味を持ってくれたということが、佐智自身にも意外なほどに嬉しかったのだ。


 ◇ ◇ ◇


 赤池章三は元々ギイの相棒であり、そのギイは佐智の幼なじみでもあるのだが、佐智はこれまで章三と親しく会話したことはなかった。
 そもそも学科が違ったし、偶にギイと三人で顔を合わせることがあっても、佐智が同席すると章三はなぜか寡黙になってしまい、佐智と目を合わせようともしなかったのだ。打ち解けて貰えない様子に、佐智は自分は章三にあまり好かれていないのだろうと思っていた。
 葉山託生のような例外も居るには居るが、佐智と出会った場合殆どの人間は、初対面から楽才を称賛したり、それすらもままならないほどに萎縮したりするのだった。逆に、柔和な外見やピヤノを嗜むということから軟弱な男として軽んじたり、揶揄したりするような人間も居ないではなかった。しかし、章三のように佐智を単に無視する相手に出会ったのは、佐智にとっては初めての経験だった。章三に嫌われる理由は佐智には思い当たらなかったのだが、自分でも気付かない何かが章三には気に入らないのかもしれなかった。
 いずれにしても、だから佐智にとっての章三とは、噂に聞く「韓非殿」の印象であったと言える。法家の祖に喩えられる程規則に喧しく、冷徹で厳格な副寮長。ギイからは、あれでいて案外に好い加減な所もあるのだとしばしば聞かされたことがあったし、二人でこなしたという際どい冒険譚を聞いたこともあったのだけれど、そんな章三というのは、佐智には今ひとつしっくりこなかった。


 だが先般のヴィオロン盗難事件の折には、音楽堂に閉じこめられたギイと託生とを救う為に、佐智は図らずもその章三と協力することになった。あの日、芳野らをつらまえ、また音楽堂の鍵を入手してギイと託生とを救う過程で、それまでの会話の総量をあっけなく超えてしまうくらい、二人だけで相談をかわした。
 そして逐一下される章三の的確で冷静で容赦のない判断に、やはり厳しいが頼もしい男なのだと佐智は感服させられた。副寮長という役職も韓非子という棹名も伊達ではないということ、且つまた時には危ない場面をもくぐり抜けてきたギイの相棒なのだということに、心から納得させられたのだった。
 あの後、託生自身への被害が殆どなかったことや、また周囲への影響も勘案して、結局ギイは教員らへは知らせずに事を収めた。万一葉山に危害を及ぼすようなことがあれば、次は放校ぐらいの沙汰では済まない、とのギイの迫力ある脅しは効果的だったらしく、あれ以来託生の周辺では芳野の姿すらも見かけないようになった。葉山託生に害を与えるようなら、恐いのは学院当局ではなく崎義一である――ひいてはその背後にある扶桑財閥である、という脅しは、成る程芳野らを戦かせるに充分な釘であったのだろう。
 今にして思えば、章三はギイがそう判断する可能性を考慮して、佐智の他には人手を借りずに対処していたのだろうと思う。そんなことを思い返すと、今更ながらにギイと章三との阿吽の呼吸が察せられ、また章三という男の能力の高さにも改めて感心させられるのだった。


 そしてまた、あれ以来少しずつではあるが友人同士のような会話が出来るようにもなり、佐智は今では明らかな好意を持って章三に対するようになっていた。嫌われていると思っていた相手が親しく会話をしてくれるようになったこと自体、単純にうれしかったし、そして章三が噂通りに高潔な人物であり、しかし想像していたよりもずっと親しみやすい人柄だったとわかっていくうちに、佐智の章三への好感度は日に日に増していった。
 その章三が、佐智のピヤノを聴きたいと言ってくれたのだ。彼と更に親しくなれたように思えて、彼が佐智に興味を持ってくれたように思えて、佐智は純粋にうれしかった。また、世辞など言わない「韓非殿」に自分のピヤノが認めてもらえたようで、誇らしくもあった。だからだろうか、佐智は今、近来稀に見るほどにピヤノの音に集中しながら、自分でも不思議なほどに章三のことばかりを胸に思い浮かべていた。












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