恋は桃色
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 つらつらと思いを巡らせながら、暮れ方の雑木林を彷徨(うろつ)いている内に、佐智はいつの間にか音楽堂まで来てしまっていた。夕闇の中、木々の間にぼんやりとうかぶ白い建物を見つめていると、内部からは何やら物音や人の声らしきものが聞こえてくる。
 何があるのだろうとぼんやり考えていると、背後から鋭い声が聞こえた。
「君、何をしている」
 振り返ると、赤池章三だった。章三はちょっと驚いたような顔で佐智を見つめた。
「井上じゃないか」
「こんにちは」
 このような場所で知り合いに会うとは思っても居なかったので少し動揺しつつ、それでもにっこりと微笑んで会釈する。
 章三はそれに軽く頷きつつ返事をすると、こんなところで何をしているのかと再び問うてきた。
「散歩をしていただけだよ。ぼんやりしていたら、こんな所まで来てしまったみたいだ」
「そうか」
「赤池君こそ、何をしているんだい」
「僕は音楽堂で、天長節にある演奏会の打ち合わせだ。資料が必要になって、教員棟まで取りに遣られていたんだ」
 ああ、と納得した佐智が少し身体を震わせたのに目ざとく気づき、章三は諭すように云った。
「もう日暮れだ、寒くなるぞ。ここで少し待っていろ、一緒に戻ろう」
「打ち合わせは、もういいのかい」
「ああ、まだ掛かりそうだが、どうせ僕はやがて寮長会議の時間だから」
 そう言うが早いか返答も待たずにさっさと音楽堂に入っていく後姿を、佐智は呆気にとられて見つめていた。
 少しして戻ってきた章三は、佐智を寮へと促しながら今度はゆっくり歩き出す。佐智の歩調に合わせてくれているものらしい。
 佐智は、章三との間にまだ少し隔てを感じていた。歩きながらそっと章三の顔をうかがってみたが、凛とした横顔からはどんな表情も読み取れない。章三は何を考えて自分などと同行しているのだろう、もしや自分でも気づかぬうちに粗相をしており、それについて叱られるのではあるまいか、などと埒もないことをぐるぐると考える。
 会話の端緒をつかめずにいる佐智に、章三は何気ない調子で話しかけてきた。
「此度の演奏会では、井上は弾かないのだな」
「え」
「小さい会だが、天長節の記念演奏会だ。井上も弾くものとばかり思っていた」
 佐智は章三が話を向けてくれたことに我知らずほっとして、章三に向かって微笑んだ。
「この間、落成記念会で弾かせて貰ったばかりだし、今回は弦楽が中心だからね。託生君は、四重奏団を組んで一曲だけ弾くらしいよ」
「そのようだな。その、葉山は上手くやっているのか」
「ああ。階段長の野沢君、知っているだろう。彼がセロで一緒に弾くんだ」
「はは、野沢が一緒なら安心だな……ギイが」
「あはは、全くだ。託生君のことを一番心配しているのは、義一君だろうからね」
 笑った章三にうれしくなり、先ほど迄の鬱屈を忘れて、佐智は思わず声をたてて笑った。
「……井上も、」
「……なんだい」
 少し躊躇うような様子の章三に、佐智は先を促した。
「また、どこかで演奏を披露することはあるのだろう。そういう予定はないのか」
「今のところは特にはない」
「そうか……残念だな。今回の演奏会で井上のピヤノも聴けるものと、楽しみにしていたのだが。次に拝聴出来るのは、いつになるやら、ということか」
 あまりに意外なその言葉に、佐智はぱちぱちと目を瞬かせた。
 つまり、赤池章三は、自分のピヤノに興味を持っている……ということなのだろうか。
 信じられないことではあるが、嘘だとも思われない。
 なぜなら、相手はあの赤池章三だ。世辞などを言うものとは、到底思われない。
 佐智は知らず胸の鼓動を高鳴らせて、またぱちぱちと瞬いた。差し出がましいだろうかと思いつつ心を決めて、だがしっかりと口を開いた。
「その、いつでも。赤池君、僕などのピヤノで良ければ、いつでも弾くよ。ピヤノは運べないからご足労願うことはなるけれど、練習室でも僕の自室でも、遊びに来ておくれよ」
「いいのか」
「ああ、歓迎するよ」
 眉を少しくひそめて問い返す章三に、佐智ははっきりと請け負った。
「僕など、練習の邪魔なのではないか? 音楽については、さっぱり判らんのだが」
「いや、君が退屈でなければ僕は構わないよ。退屈せずに、楽しんでくれればもっといい。義一君などとてつもない音痴だけれど、稀にやって来ることもあるし……尤も義一君が遊びに来るのは、大抵は託生君と僕と合奏している時だがね」
「はは、全く。判りやすい奴だな……では、僕もいずれお邪魔させていただこう」
「待っているよ」
 佐智は心からそう返し、微笑んだ。












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