恋は桃色
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 その日、祠堂学院の音楽棟・第三練習室ではプロコフィエフの『トッカータ』が荒れ狂っていた。
 彼にしては乱暴な、それでいて正確無比のタッチで刻まれる音階には、もしそれを聴く者が居たとしたら、さぞや肝を潰したことだろう。
 天使(エンゲル)のピヤニスト、井上佐智。
 そんな冠言葉で知られる彼の面影は、そこには微塵もなかった。
 激しさを全く失わず、しかも正確に『トッカータ』を弾き終えて、叩きつけるように最後の和音を出すと、佐智は伏せていた目をピヤノの上に置いた懐中時計にちらりと向けて、大きくため息をついた。音楽練習室は授業や個人指導が入っていない限りは自由に使えることになっているのだが、そろそろ練習室予約用の帳面に記した使用期限の時刻が迫っていた。
 佐智は寮の自室にピヤノを、それもグランドピヤノを持っている。どっしりとした石壁作りの寮においては周囲への気兼ねなく練習をすることが可能なので、練習室は基本的に自室にピヤノのない学生が優先的に使えることになっているし、佐智も普段は自室のピヤノで練習するようにしている。
 けれど今日はどうしても自室のピヤノを弾く気にはなれずに、こうして空いている練習室を探し出して使っていた。自室では大木に演奏を聴かれてしまうかもしれないからだ。自身の目付役でもありピヤノの指導者でもある大木に、このようなピヤノの音を聴かれたくはなかった。自分でも音が荒れていることは、充分に判っているのだ。
 佐智は金鎖のついた時計を引き寄せると学生服の隠しに仕舞い、簡単に鍵盤を拭って掃除をし、そのまま部屋を出た。楽譜は持ってきていなかった。


 ◇ ◇ ◇


 すぐに寮へ戻る気になれず、雑木林の方向へと佐智は足を向けた。寮に戻れば知り合いに出会うかもしれず、表情を取り繕って会話しなければならないのは億劫だった。
 浮かない表情のままぶらぶらと歩みを進め、様々に思いを遣る。
 ここのところの情緒不安定の理由は、自分でも何とはなしに気づいていた。
 先月、音楽堂の落成記念演奏会で、葉山託生と『クロイツェル・ソナタ』を演奏してから、佐智は自分の音楽に対する自信をすっかり失っていたのだ。
 だが情緒不安定の原因は、正確には『クロイツェル』ではない。
 あの演奏会の直前に起きた託生のヴィオロンの盗難事件をきっかけとして、幼なじみのギイの想いがようやっと託生に伝わったらしいことには、佐智もすぐに気づいた。それから後、以前はぎこちないだけであった二人の関係が、次第に良好なものに変わって来たことも。
 尤も託生の方はギイの気持ちを受け入れたわけではないと言い張っているし、それは本当にそうなのだろうが、それでも心持ちの上での変化は少なからずあったのだろう。託生のヴィオロンの音色はそれまでよりも深みを増し、明らかに以前とは変わってきていると佐智は思っている。
 そんな託生の音は佐智には何とも羨ましく、そしてまた、佐智の心を無性に騒がせるのだった。


 自分は恋愛はしないものと、佐智ははっきりと決心していた。
 そう思うようになったのは、小さな頃からギイを傍で見ていたからだと思う。扶桑財閥の御曹司であるギイは、随分幼い頃から帝王学を学び厳しい教育を受け、自分の思い通りになることなど殆どなく、それでいて我儘の一つも言ったことがない――勿論、佐智に対してぼやいてみせることは、しばしばあったが。
 そして、今ではそれら全てに替えても惜しくないほど、託生のことを愛している。
 我儘を言ったこともないギイの、幼いころのただ一つの、そして凡人には想像もつかないような我儘が、ストラディヴァリウスだった。最高級のヴィオロンを出世払いということで貰い受け、そして人にやってしまったのだ。後から考えれば、その時には既に託生への愛が運命づけられていたのだろう。
 そんな、他の何ものをも望まず、ただ一人の心だけを(のぞ)んでいるギイ。そんなギイを知っていればこそ、佐智も彼の想いが報われることを願っていたし、今でもその気持ちは変わらない。
 それと同時に我が身を振り返り、ピヤノを既に撰んだ自分もまた、ピヤノを運命とし、その他の一切を願わないと心に誓っていた。ピヤノを撰んだ上は、ピヤノ以上に大切な存在があってはならない、と。


 いずれにせよ、好いた相手が出来たところで、どうせ添い遂げられる訳でもないのだ。
 佐智もまた井上財閥の御曹司で、且つひとり子だった。本来ならばギイのように、財閥の後継者としての勉強を重ね、行く行くは財閥のために働かなければならない立場である。だが幸いにも父親が佐智の天分を理解し、佐智を自分の後継者とすることをきっぱり諦めてくれたお陰で、こうして音楽三昧の日々を過ごすことが出来ている。佐智も父の寛大なる措置には深く感謝しているし、であればこそ音楽以外の面については基本的には父の意向に逆らわないつもりでいる。
 だから、祠堂を卒業した後にピヤニストとして活動するにしても、結婚だけは父が選ぶ相手――おそらくは、井上財閥にとって最も益となるような相手とすることになるのだろうし、そのことはピヤノと共に生きる道を撰んだ時から、佐智も覚悟していたことだった。
 ともあれ、佐智は恋愛はしない。それは仕方のないことだ。
 だが恋愛それ自体は諦めたとしても、そのことによって自分の音楽に限界が生まれるのではないか、ということに、佐智は気づいてしまったのだ――託生の音の変化によって。


 ギイという存在を受け入れたことで、託生の音はあたたかみを持った。
 楽曲を真摯に理解しようとする、時には突飛な迄の直向きな態度と同時に、はっきりとした天真爛漫さが持ち味だった託生のヴィオロンは、ギイの想いを理解することで更に深みを増した。
 邪気無く戯れる天使達の上にあたたかい陽の光が射したかような、なんとも心に触れる音を出すようになった。
 天使(エンゲル)の音とは、あのような音楽のことを云うのだと思う。
 自分には到底出せない音だと佐智は思った。
 自分など、天使(エンゲル)ではない。
 音楽を愛する気持ちは誰にも負けないし、それで()い、それだけで()いのだと佐智は今までずっと思ってきた。音楽を愛し鍛錬し続ければ、古今の芸術家の上り詰めようとした高みに近づくことが出来るのだと、一心に信じていた。
 だが果たして。託生のような音を、いつか自分は出せるのだろうか。
 佐智は恋愛をしないし、これからもするつもりはない。
 そのことが自分の限界を定めてしまうのではないかと思うと、佐智は言い知れない不安に苛まれるのだった。













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