恋は桃色
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私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差し伸べて降りました

私の上に降る雪は
暑い額に落ちくもる
涙のやうでありました
(中原中也「生ひ立ちの歌」)






   「みそかごと a」




 一歩を踏むたびに足が沈み込む、水気をふくんだ重い雪の感触が心地よくて、ついついまだ雪掻きをされていない道を選んで歩く。我ながら子どもっぽいけど、丁度周囲には誰もいないことだし――それも当然だ、この寒い中用もないのに歩き廻る物好きなんて居はしない。寒さが苦手ではないオレだって、風邪で寝込んでいる章三に頼まれてのど飴を調達しに来ただけで、すぐに部屋に戻るつもりなんだ。  ふと目の端に白いものがちらつき見上げると、また降り始めたらしかった。低い雲からは飽くことなく雪がひらひらと舞い降りてくる。既にしっかりと大地を覆い尽くしている雪に、念入りに追い討ちをかけるように降る、降り続ける、雪……寒がりな人間には、ここの冬は厳しいことだろう。

 手に触れるポケットの中の飴のつつみに、意外に(と言っては失礼だろうか?)寒さに弱かったルームメイトのことを思い出し、寮に向けて歩みを再開したところで、妙な場所から声が聴こえ、オレは再び立ち止まった。何だろう。声の出元を捜し道を外れて、再び雪に踏み入ると、どうやらそれは職員宿舎の脇から聴こえてくるらしかった。ただ、声は一人分しか聴こえてこない。まさか、一人で喋っているというのでもないだろうが……この寒いのに、こんなところで何を話しているというのだろう。
「……? ……らい、しろよ」
 声の調子から、諍いごとではないようだと判断する。係わり合いになるのも億劫だし、そのまま立ち去ろうとしたところで、ふと聴き覚えのある声が聴こえた気がして、オレは聞き耳をたてた。
「…れじゃ、……ないよ」
 足音を立てないようにゆっくりと近寄りながら、確信を得て気持ちを決めた。
「なあ、せめて……」
「先輩、そいつが何か?」
 ふたりははじかれたようにこちらを向き、一様に驚いた表情をその顔に浮かべていた。背の高い方は三年か……こんな時期に祠堂にいるってことは、推薦組か内進組か? 名前は確か……ああそんなこと……どうでもいい。託生と、目が合った。少し驚きとまどうような表情は、何だか久しぶりな気がする。
「な……別に、何でもねえよ……お前……一年の崎だよな? お前には関係ない話だよ」
「こんな寒い中で立ち話だなんて、ただごとじゃなさそうだけど」
「だったら……何だってんだよ」
「あんたが下級生に無理矢理『言い聞かせる』ようなことをしているんなら、こっちにも考えがあるってことさ」
 そこで引き下がったということは、やはり何か後ろ暗いところがあったのだろう。こそこそと逃げるように立ち去った後姿を見送った……けど、結局目的は何だったんだ?
「つい入っちまったけど、追い返してよかったのか?」
 オレは振り返り、託生に声を掛けた。
 返事を期待はしていなかった。案の定託生は問いかけには答えはせずに、しかし最前からオレをみつめていたようだった。オレはまともにそれを見返した。感情の灯らないその瞳に厳しいまなざしを向けられることに、大分慣れてきてはいたが――冷気に色づく赤い頬、雪の落ちかかる黒い髪、それらに瞬きもしない瞳に、けれど微かに開いたくちびるは、それらにただ見蕩れるオレに、ふるえるその声が

「      




「……でさー、そこに地理の玄田がさー」
「玄田ー? どんなんだっけ」
「ほら、メガネのさー」
 タイムアップだった。通りの方から近づきはじめた人の声と足音とに気をとられた瞬間、託生はオレの脇をすり抜けて立ち去っていた。
 オレはしばらくその場を動けなかった。



* * * * *



 寮に帰るためにのろのろ道に戻り、職員宿舎の前に差し掛かったところで、宿舎から出てきた島田御大と行き会った。御大はこちらを見て、オレを手招きしているらしかった。
 ――オレ、最近何かしただろうか。
 呼ばれた以上は仕方がないのでとりあえず御大の傍に歩みを進め、こちらから先に挨拶した。
「こんにちは、島田先生」
「やあ崎君、丁度いいところで会った」
「……何ですか?」
「君はコーヒーは好きかな?」
 オレは戸惑った。生徒指導の島田御大がこうして声を掛けてくるというのは、何らかの指導上の思惑があってのことだろうか? それとも? 測りかねるが、おそらくどのような答えを返してもその先の行程はきっと変わらないのだろう。ならば嘘で返す必要もない。
「好きです」
「よろしい。それなら一杯振舞ってやろう。寄っていきなさい」
 御大はオレの返事を待たずに踵を返し、歩き出した。
 オレは罠にかかったのだろうか、それとも考えすぎているのだろうか。惑いながらも仕方なく御大について職員宿舎に入った。

「一度君に聞いてみたかったんだよ」
 それまでにかさねられた他愛ない会話は前フリでしかないことは判っていたが、御大の何気ない様子での話題転換はかえってオレを落ち着かなくさせた。尤も、そんな素振りを見せるようなかわいげはオレにはない。
「何をですか?」
 軽い調子で先を促すオレに、御大も何気ない声音で続けた。
「君が何故、この学校を選んだのかをね。単に日本の高校という条件だけであれば、別に祠堂でなくともよかっただろう? もっと君に相応しいだろう学校は、いくらでもあるからな」
「そうでしょうか」
「まあ、話したくないというのなら、無理には聴かんがね」
 御大は軽く笑い、殊更になんでもない様子をつくってみせる。そして、オレの中には勿論「何故祠堂に来たのか」というこれまでに何度も聴かれた問いに対する模範的な回答は準備してあった。だが、本音を話すにしても話さないにしても、等閑な返答ですませたくはないと思える程度には、オレはこの人が好きだった。オレは小さく息をつくと顔をあげ御大と目を合わせ、にっこり無邪気に微笑ってみせた。
「内緒ですよ」
「うん?」
「絶対、誰にも秘密ですよ」
「何だ、私はそんなに信用がないのかね」
「いえ、すみません。そういう意味ではないです」
「はは、教職にある人間が嘘をついては示しがつかないだろう。誰にも言わないと言ったら、言わないよ」
 笑いながら距離をはかる御大をまっすぐに見返し、オレは一気に距離をつめた。
「初恋の人が居るんです。ここに」
 言ってしまった言葉に、自分自身が息をつめる。強張るだろうと予想した御大の笑顔は、しかし穏やかなままだった。
「オレはその人に会うために、この学校に来ました」
 御大はかすかに頷くと、変わらぬおだやかな声音で話を受けた。
「今の内緒話は、先ほどここの脇で言い寄られていた生徒を助けたことと、関係があるんだね?」
 不意をつかれ、今度は流石に息をのんだ。
「……見てらしたんですか」
「覗き見をしていたわけではないよ。丁度部屋の窓を開けて換気していたら、君たちの声が聴こえて来たのでね。いい機会だし君と話がしたいと思って、掴まえに出たわけだ」
 真意の読めない御大の柔和な表情に、オレはそれ以上出せるカードを持っていなかった。





 後から考えれば、なぜあの時あんなにも真っ正直に事情を話してしまえたのか、不思議に思えて仕方がない。その一方で、あの時あのように答えたことは、ごく自然なことだったような気もどこかでしている。
 あの後御大は、結局それ以上は深入りせずに――まあ、オレの無言がいろいろな意味で答えになっていたせいもあるだろうが――「後悔のないようにしなさい」との言葉だけをくれた。御大が言った『後悔』の内実がどのようなものであるとしても、オレにとってはその言葉は一つの意味しか持たない。
 あの時口を開きかけた託生に、もしかしたらそれは最後のチャンスだったのかもしれないのにと、そう思えば際限なく落ち込みそうだったオレを、御大の言葉が助けてくれた。まだ挽回がきくのだということを教えてくれた。まだ今は、一度目の冬。後悔するにはまだ早く、勿論今後するつもりもない。
 きっかけというのは触れようとした瞬間にもろく崩れ去る砂の器のようなもので、だけど、チャンスだなんて言葉は言い訳でしかない。そんなものに頼って後悔するのは絶対にごめんだ。だから、

 後悔しないための勇気を、どうかオレに。
 託生、お前に会いに来たんだ。







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 やっと四作目まできました…しかし、気持ち的にはやっと半分くらいかな?という感じです…。
 お気づきかもしれませんが、ギイモノローグの参考にしたのは「恋文」です。ギイの「きっかけ」に関してのあの話は絶対、自分のことだと思うのです。
 冒頭の引用はく青空文庫 Aozora Bunkoさんより。
 裏面「b」があります。

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