恋は桃色
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 文字通りのまさしく春の嵐が吹きぬける、そのただ中を逸る心を抑えることもできずに速足で行過ぎる。強風にみだされた髪は無遠慮に視界を邪魔するし、満開の桜木ははや吹雪いて、仄明るい花弁が舞い散っては懐に降り来る、けれどそれはこの勇んで仕方のない気持ちを後押しする風だ。煩げに顔をしかめたり悪態をついたりしている周囲のやつらに一瞥だって呉れてやらない。余所見をしている場合じゃない。 
 この春も、この春は、きっと一生忘れない。







「epilogue 或いは、幸いなる日」   







 春休み、新年度に託生と同室になる旨の連絡を担任から受けた――これは異例のことなので、やはり学院としても葉山託生のことを心配はしていたのだろう――時、そしてそれが島田先生の発案であったと聞かされた時に、すべての覚悟を決めた。御大の真意はわからない。けれど、誰のどんな他意もオレには関係ない。「後悔のないように」――ああ、そうだ、その通りだ。あなたがくれたきっかけを、オレは絶対に――オレなりの意味合いで、無駄にしはしない。
 章三を追い返して二人になった305号室、机の前に立ってこちらを見詰める託生と今向かい合う。
 どうしようもなく焦がれた黒い眸と目が合って、呼吸することすらも忘れそうになる。
 窓からの風に黒い髪がそよいでさらさらと鳴り、春の柔らかい光が、この一年間で少しだけ大人びたその輪郭を淡く照らしている。なぜだろう、他のどんな人間でもダメなんだ。その頬に触れたい――いや、まだダメだ。しなければならないことが、沢山ある。
 オレはドアを閉めつつ、念のための瀬踏みに入った。
「春休み、どうだった」
「べ、別に。――長かったけど」
 ひりひりとした緊張が伝わってくるけれど、ごまかしや忌憚は感じられない。
 やはりそうだろうなとは思ったものの、もっとその声が聴きたくなり、オレは無意味な確認を継いだ。
「別に何もなかった?」
「何も」
「本当に?」
「うん」
「へえ……」
 他愛ない会話、こんなことのきっかけすら今まで殆どなかったもんな。オレは同室者という新しい立場の素晴らしさに感動していた。ま、託生は返事を返してるだけか。と思っていたら、意外なことに託生は世間話を返してくれた。
「崎君は、アメリカ帰ってたんだって?」
「ギイでいい」
 片倉は『利久』だったもんな、オレも『ギイ』だろう? 託生なら『義一』でもいいぞ。
 ついつい他愛のないことばかり考えてしまうが、そうだ、すべきことがまだまだあったのだ。
「それはそうと、今朝は大変だったそうだね、託生」
 高林のことをある程度は話しておくべきかと思ったのだが、話し始めたところで託生の様子が思わしくないことに気づいた。体調がすぐれないのだろうか?
 オレは開かれていた窓を閉めると、薬をもらいに医務室へ向かうことにした。



* * * * *



「本当にあんな初っ端から動くとは思わなかったけどな」
「ああ、章三が居てくれてよかったよ」
 遅い昼食をとりながら、オレは章三に今朝ほどの出来事を詳しく聴き出していた。簡単な状況は伝え聞いて知っていたけれど、当事者の口から詳しい話を聴きながら、章三に様子見を頼んでおいてよかったと心から安堵した。
「野崎の動きも早かったな」
「ギイも一歩遅れたんだろう?」
 オレは苦々しい思いで頷いた。
 あの後、部屋に居ない託生を捜してまわって、結局見つけたときには学生ホールから出てくるところだった。そこから野崎の動きを張って、結局昼食がこんなに遅れてしまったというわけだ。
「昼の時点では、おそらく様子見だけだったんだろうな。まだこれからどう動くか見ないとならん」
「その葉山は?」
「片倉の部屋」
「そうか、片倉と一緒なら、一先ずは安心だな」
「そうかあ? だって、片倉だぞ」
 片倉がいい奴であるということは、去年一年間同じクラスだった人間としてよく判っている。だが、だからこそ心配にもなるのだ。
「野崎や高林の親衛隊とやりあって張り合えるようには、悪いが到底思えないぞ」
「そりゃそうだけど。葉山に一人でうろうろされるよりは随分マシだろう。それに、寮の自室に居てくれれば多少は壁が出来るだろうし」
「まあ、な。確かに、こっちも動ける時間がある今日のうちにそれぞれの出方を見極めておきたいってのもあるし、とりあえず葉山は片倉に任せておくしかない……」
 ……自分で言っていて、少しむっとしてしまった。馬鹿馬鹿しい。
 オレのそんな内心には気づかずに、章三はお茶を一口飲むと、少し呆れたような声でつぶやいた。
「しかし……高林もまた、なんで葉山なんかに目をつけたんだろうなあ」
 それは、オレが託生を好きだから――というのはまだ、章三には言えない。
 それにしても一体、高林はいつ気づいたのだろう……ずっと考えていたのだが、思い当たることが一つだけあった。春休みの直前に、中庭で高林に捕まって展覧会のチケットを押し付けられそうになった時のことだ。
『君と出かける義理はない』
『どうしてさ! ……この僕がこうしてわざわざ誘いに来たっていうのに』
 高林のそうした言動は、オレにとっては不快であるという以上に、馴染みのある類のものだった。
 本心を見せて向かってくる人間にはこちらも真摯に対応するが、好意を隠れ蓑に虚栄心や功名心を満たそうとするような人間にはかかりあうのも御免なのだ。そういう人間にはまともに応じてやる必要もないし、まして愛想など逆効果だとオレは思っている。
 だが、なぜ高林は気づかないのだろう――本気で自分がオレのことを好きだと信じているのだろうか? 頭も悪い奴ではないと思うのだが、致し方ない。それを気づかせてやろうと思うには、今の高林はオレには遠い存在だった。
 ふと目の端を通る人影に気づいてそちらを見遣ると、託生が片倉と歩いていくのが見えた。
 オレはそのまま踵を返して、高林との会話を打ち切った。
 ……今にして思えば、あれがきっかけになったのかもしれない。わからないけれど、とにかく高林はオレが託生を好きであることに気づき、それが今回の野崎やら高林とその親衛隊やらの不穏な行動に繋がってしまったようだ。高林の勘のよさは知っていたのに、あの場で取り繕っておかなかったのはオレのミスだ。それがまさか、ここまで事が大きくなるとは思っても見なかったけれど。
 野崎から、高林達から、託生を守る。それは級長として、また同室者としては自然で当然なことだし、また同時にオレの長い間の願いでもあったことだ。だから、今はそれだけのために全精力を傾ければいい――余計なことを考えずにすむことが、正直ありがたかった。


 夕刻、数時間ぶりに再会した章三は、オレの顔を見るなり眉をひそめた。
「大丈夫か? なんだか……こう、半日でやつれたな」
「そうか? みっともない?」
 昼食後章三と別れ、情報を流してくれるバスケ部員の元へ向かおうとしていたところで去年からのクラスメートにつかまって、オレは午後の半分をそいつのために奔走していた。正直なところ今日は勘弁してくれと言いたかったが、そっちはそっちで緊急事態だったのだから致し方ない。そして残りの半分で、野崎の動向を探っていたのだ。
 章三は肩を落すオレの顔を少し覗きこむようにした。
「やつれたっていうか、ちょっと意外なだけだよ」
「何が」
「ギイが、そうやって疲れを見せてるのがさ」
 お前、タフだから。
 章三の評言は妥当だとは思えなかったけれど、否定するのも億劫だった。
「野崎の動向は追いきれなかった。川村が来てさ」
「ああ、その話は聴いてるよ……級長、お疲れさん」
 章三は同情を含んだ声音で労わってくれた……本当、いい友人だ。
「その野崎だが、丁度あそこを歩いてるぞ」
 章三の指差す方向に歩く人影は、確かに野崎らしかった。
「この時間じゃ、学食に向かってるのかな」
「まずいな。今、葉山も学食に居るぞ」
「まあ、そんな衆人環視の中でどうこうするってこともないだろうし、こっちも向こうを探るにはむしろうってつけの状況かもしれないな」
 章三はオレの言葉に軽く頷くと、眉をひそめて言った。
「それはそうと、こっちは悪い知らせだ。高林の親衛隊が、半分以上行方をくらましてる」
「……動いたか?」
「それすら判らん。だが、こうも姿を見ないってのは、やっぱりおかしい」
 何だ? 何をたくらんでる?
 まさか、奴らと野崎は連携しているのか?
 あぁ、考えがまとまらん――
 ――腹が減った。
 限界だ。
 オレは顔も上げずに言った。
「章三、オレたちも食事に行こう」
「……了解、相棒」


 よもやと思った動きを見せた野崎と学食でひと悶着した後、オレは部屋で一人着替えながら腹が立って仕方がなかった。
 野崎め。とっさに助けられたからよかったものの、あれを託生が被っていたらと思うと今更ながらにぞっとする。オレは制服のジャケットを犠牲にしただけで済んだけど、もし素肌を晒している手の甲や顔に掛かっていたらやけどになっていたことだろう。虚栄心と下心で託生を利用しようとしたことも赦せないが、もしも託生のあの左手に何かがあったとしたら、あんな罵倒程度じゃ済まさない所だったと、更に腹のうちが煮え繰り返るような気持ちを覚えつつ、――こらえられずに笑みが洩れてしまう。
 託生が左腕を庇っていた。無意識にかもしれないが、弦を扱うための左手を庇ったのだ。
 その事実が、馬鹿みたいに……こんなに嬉しい。
 ――早く託生に会いたい。会って、話がしたい。
 美しい黒い眸の、僕の――オレのバイオリニストに、早く、もう一度会いたい。

 寮を出たところで暗がりの人影に託生を見つけ、心臓がドキリとした。
 殴られて倒れこむ託生を見て、再び心臓がドキリと跳ねた。
「何してるんだ!」
 この顔ぶれは、高林の親衛隊か、くそ。ゆっくりとこちらを振り向いたのは、山下だった。
「ギイか、丁度いい。けど、あんたとやりあうほど俺も馬鹿じゃないぜ」
 山下が体格のいい仲間に何やら耳打ちをすると、すぐにそいつは託生を抱え上げてどこかへ向かい始めた。
「ちょっと待て、託生をどうする気だ!」
 すぐに追いかけようとしたオレの前に、残る四人が立ち塞がる。どうやら時間を稼ぐ気らしく、オレの進路を妨害するためだけに向かってくる四人には流石に手がかかり、縺れ合うようにして走りながら託生を連れ去った奴に追いついたものの、結局は多勢に無勢、オレは託生と共に音楽堂に閉じ込められてしまったのだった。







その2










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