恋は桃色
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 Epilogue



――――――――託生さんがまさしく雲散霧消してしまって、ぼくはしばらく呆然として動けなかった。
未来の技術のすさまじさにも驚いたのだけれど、託生さんがいなくなってしまって、心に大きな穴が開いたようだったのだ。短い間でも、一緒に過ごしたこの丸一日ほどは、本当に楽しかったから。だからぼくは、自分でも信じられないくらい、とても寂しくなってしまっていた。
ただ、十年後には託生さんにまた会えるとわかっているのは心強かった……十年後って、随分先だけれど。
ともあれ、あそこまでしてぼくをここに届けてくれた託生さんと、未来のぼくのためにも、確実に須田先生に会わなければならない。
ぼくは須田先生のスタジオの前に立ち、小さく深呼吸をした。



「佐智くんにね、君がバイオリンをやめないように説得してほしいと頼まれたんだけれどね」
初対面の須田先生は、ぼくにそう言いつつ苦笑した。
「正直なところ、無理に続ける必要はないと思うんだ」
「ぼくも、そう思います」
まだ若い、ややワイルドな風貌ながら、芯のとおった印象の先生だった。ざっくばらんな切り出し方に、ぼくはすぐに好感を持った。それと同時に、幼馴染がなぜぼくをこの人に引き合わせようとしたのかも、なんとなくわかるような気がした。
「私が話した感じだと、おそらく佐智くんは、幼馴染の君に音楽を嫌いになってほしくないと思っているんだろうと思うんだがね」
「嫌いには、なりません。ぼくには才能がなかったけれど、聴く方は嫌いではないですし」
こちらも率直に本心で答えると、須田先生は頷きながらも、少し考えるような表情を見せた。
「ただ……君は聡明な少年のようだから言うけどね、うん、音楽というのは究極的には、才能の問題でもなければ、技術の問題でもないということは、知っておいてほしいな」
「難しそうなお話ですね」
「そうかもしれない。でも、折角縁あってバイオリンのレッスンを受けたのだろうし、今までの時間を無駄にしてほしくないとも思うからね。うん、バイオリンをやめるとしても、何かを得ていってほしい。しかし、うーん、言葉では伝えにくいな。実際に体験してもらえれば、一番いいんだけど……そうだ」
ふと時計を見て、先生は楽しそうに微笑んだ。
「実はね、この後、地方から来る生徒のレッスンがあるんだよ。普段は私の旧友が教えている子で、ここには数か月に一度だけ通ってきている生徒なんだけど……君にも、彼のバイオリンを聴いてみてほしいな。もし時間があるなら、どうだい」
「時間はまだ、大丈夫です。ただ……ぼくに理解できるかどうか、わかりませんが」
佐智の顔を立てる、というためだけではなく、ぼくのような子供に対して真剣に話をしてくれたこの人に、ぼくも真摯に応えたいと思ったのだ。



レッスン室の横の控室のような部屋で、ぼくはその彼の演奏を聴かせてもらった。
弾き手はどうやらぼくと同じくらいの年齢の少年らしいけれど、率直にいって、バイオリンはあまり巧くはなかった。ぼくよりは勿論巧いのだけれど、託生さんは勿論、佐智にも全然及ばない。
……でも、どうして聴いているだけでこんなにドキドキするんだろう? 彼が心から楽しんで弾いているのが分かるせいだろうか?
途中、休憩といって須田先生は席をはずし、彼もバイオリンの手入れをはじめたようだったので、ぼくも手元のお茶を飲もう……として、うっかり机の上にあったペン類をばらばらと落としてしまった。
「……誰?」
あわててしゃがみ込み、ペンを拾っていると、彼が控室をのぞき込んできて、ふり仰いだぼくははっと息をのんだ。
綺麗だ、とすぐに思った。目を引くような美形とか、華やかな顔だちというのではないのに、さらりとした黒髪や、地味だけれど整った顔だちが、清潔で美しかった。なにより、きらきらと明かりを映す大きな黒い眸がとても綺麗で……この子を、自分のものにしたい。ふと、そんなことを考えてしまい、自分でも本当にびっくりした。
今までに感じたことのない不思議な衝動に、けれどどこか冷静な自分がいて、いろいろなことが見えてきた気がした――未来のぼく、託生さん、島岡さん、彼らが『奴ら』と呼んでいた人々。もしかしてこの少年は、彼らと、一つながりなのではないだろうか。
ぼくは立ち上がり、彼の目の前に立った。目の高さは、ちょうど同じくらい。
「ぼくは、崎義一。君は?」
「葉山託生」
「託生……」
「うん」
託生さんと同じ名をもつ少年は、にっこりと微笑んだ。
「ごめんね、君のバイオリン、勝手に聞いてたんだ」
「そうなんだ。ぼく、下手だから、恥ずかしいな」
「よければ、もっと聴きたいんだけど……弾いてくれる?」
「下手だけど、弾くのはいいよ」
そういうと、彼はバイオリンのところに戻り、ぼくに一度笑いかけ、あとは一心に弾き始めた。
ああ、……そうか、そういうことだったのか……
須田先生の仰ったことが、なんとなくわかってきた。
技術や才能では追いつかない領域、それは演奏する者の心がけであり、聴く者の態度なのだ。
技術がなかろうと、そして才能――この少年に、それがあるかどうかは別として、もしもそれがないとしても、おそらく。届くときは、届くのだ。
そしてきっと、ぼくにとって、「それ」はこの少年そのものだ。
音楽においてだけではなく、おそらく人生において。
どんな権力や財力、そして努力でも及ばない領域、きっと運命のようなもの。
それがわかって、本当によかった。
きっと『奴ら』とやらは、ぼくをこの少年に会わせないために工作しようとしていたのだろう。そして、なぜ未来のぼく自身が、『奴ら』とやらを阻止しようとしたのか、なぜこの少年にここで出会っておかなければならないと考えたのかも、よくわかる気がした。
短い曲を弾き終えた彼に、ぼくは心から拍手をおくった。
「ありがとう。ぼくはもう帰らなきゃいけないんだけど、また君のバイオリンを聴きたいな。いつか、聴かせてくれる?」
「うん、いいよ。その頃には、もっと上手になっているといいんだけど」
「じゃ、……約束」
勇気を出して、すっと小指を差し出すと、彼は素直に指をからめてくれた。胸が高鳴り、ぼくは彼との再会を確信する。
「約束するよ、えっと……義一くん」
「ギイでいいよ。みんな、そう呼ぶんだ」
「ギイ?」
「うん」
託生さんがファーストネームで呼んでほしいと言っていた意味が、やっとわかった。
親しく愛称を呼ばれただけで、こんなにうれしい。
託生さんと――託生に、いつかまた会えるように、ぼくはしっかり考えなきゃ。
それは、長く遠い道のりかもしれないけれど。
二人の「託生」が、待っていてくれるから。
「……またね、託生」
この勇敢な確信がきっと、彼とぼくとの未来を創ってくれる、そんな気がした。








『世界は、閉じている。』
He is in this closed world-line, ends





あとがき。












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