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どうやらぼくは、十年前にタイムスリップしてしまったらしい、ということは、認めざるを得ないとして――信じがたいことではあるけれど、夢ではないようなので仕方がない――ぼくはいったい、どうすればいいんだろう?
とはいえ、この時代に来て最初に会ったのがギイ――義一くん、だったということは、不幸中の幸いだったのかもしれない。十年前のギイだけれど、ぼくのことを知らないギイだけれど、それでもさすがにギイ、というか、こんなにちいさな頃からしっかりしていて、しかもぼくが十年後から来たと信じてくれたということは、とっても心強い。
義一くんの部屋で、ちいさめのテーブルセットに座り、改めて向かい合った。
「お茶も出せなくて、すみません。やっぱり家の者達には、内緒にしておいたほうがいいと思うんです。タイムスリップだなんて、信じてもらえそうにないので」
「あ、それはもちろん。どうぞ、おかまいなく」
「いろいろ、伺いたいんですか」
と、義一くんはそこで言葉を切った。何から訊ねたものかと、迷ったのだろう。
「託生さんは、どうやってこの時代にいらしたんですか?」
それは、ぼくも一番知りたいことだ。
「皆目、見当もつかないんだ。ぼくはちょうど、用事があって新宿のビジネスホテルに居たんだけれど、床が揺れたな、と思ったら落下するような感じがして、気がついたら君も知っているとおり、ここの庭に倒れていたんだ」
「ということは……帰り方もご存じない、というわけですね」
「そういうこと」
ぼくははあ、とため息をついた。
「マズイなあ、これじゃあ、須田先生に会いに行けないや」
「須田先生?」
「うん、以前ぼくがバイオリンを習っていた先生。えっと、未来の今日の明日、進学の相談をさせていただく約束をしていたんだ」
「須田先生……もしかして、託生さんがおっしゃっているのは、バイオリニストの須田利人先生のことですか?」
「え、うん。よく知ってるね」
「ちょうど明日……勿論この今日の明日ですが、ぼくもその須田先生のところへうかがう予定なんです」
「ええ?」
ぼくは目をまるくしてしまった。
なんという、偶然だろう。
「あ、そっか、ギイ……義一くんも、バイオリンを習っていたんだよね、確か。君も須田先生に習っている、とか?」
「いえ……ご存知かと思いますけど、ぼくはアメリカ人なので、普段はアメリカで先生についているんです。今回は、日本に滞在している間にお会いしてみないかと、友人から紹介をうけていて」
その友人というのは、井上佐智さんだろうか。そう質問したかったけれど、義一くんはその先をつづけた。
「でもぼくは、あとで電話をして断ろうと思って居るんです」
「え、どうしてだい?」
「だって、もうやめるから。バイオリン」
「……どうして?」
「全然、弾けるようにならないんです。ぼくには才能がないんですよ」
……ギイの音楽的才能のことを思いだしてしまって、ぼくはすぐには否定できなかった。
確かにギイは、音楽関係は、楽器も歌唱も苦手としていたようだったけれど。
「ぼくの友人に、とてもバイオリンの巧い子がいるんですよ。ぼくには才能がないし、どうしたって彼のようには弾けやしない。だったら、他のことにチャレンジしたほうが有意義なように思うんです」
……今度こそ、佐智さんのことだ。それは、佐智さんと比べたら、誰だってそうだろうけれど。
「バイオリン、どれくらい続けているの?」
「一年弱、です」
「それじゃあ、まだうまく弾けなくてもしょうがないよ」
「でも、ぼくは結局、バイオリンをやめたのでしょう?」
「え?」
「託生さんのバイオリン。十年後のぼくがお貸ししたものだって、おっしゃったじゃないですか」
まったく、するどいなあ。ちいさくても、さすがはギイ。
ぼくはつい苦笑してしまった。
「そうなんだけどね、ぼくは君のバイオリン、聞いたことがないから判断できないな。そうだ、義一くん、弾いてみせてよ」
「だめです、下手ですから」
「誰でも最初は下手だよ」
「託生さんも?」
「え?」
「託生さんも、ぼくくらいの頃は、今みたいには上手じゃなかったんですか?」
ぼく自身の八才の頃って……どうだったっけ。でもとりあえず、下手だった時期があることは、間違いないと自信をもって、そういえる。
「当たり前じゃないか。というか、ぼくは今でもそう巧くはないけどさ」
「そんなことはないです! 託生さんのバイオリン、すごく、素敵でした。ぼくの友人よりも、もっと巧かった」
「そ、そう?」
うう、義一くん。八才の佐智さんとはいえ、ぼくと比べてくれるなんて、オソロシイというか畏れ多いというか……。八才の佐智さんとぼくとでも、きっと佐智さんの方が巧いと思うのだけれど。まあ、お世辞だと思っておこう。
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