恋は桃色
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*『機械仕掛けのエア』前書をご覧下さい。












 調弦を済ませて、深呼吸をひとつ。
 弦に弓を置く瞬間は、まだまだ慣れない。いつだって新鮮に緊張する。
「そんなに力を入れたら、却って音が出やしないよ、託生くん」
 苦笑した井上先生は、ぼくの肩に後ろから手をおいて、ぽんぽんと叩いた。
「ほら、リラックスリラックス」
「は、はい。すみません」
「謝ることはないんだよ」
 ぼくは改めて深呼吸をして、最初の音を出す。随分まずいバイオリンの音が、室内を満たしていく。
 ここは、井上佐智先生の自室だ。
 井上先生は世界的に著名な若手バイオリニストで、本来ならぼくのようなど素人が習えるような先生ではないのだけれど、『葉山託生』が以前に師事していたことがあるとかで、大変僭越ながら、レッスンに復帰する、という形で見てもらっているのである。
 先生は基本的に、公演のために常に国内外を飛び回っており、本来は弟子をとったり、レッスンをつけたりということはしていないらしい。けれど『葉山託生』だけは、その才能を見込まれてか、先生がここ祠堂近くの私邸に戻っている時限定ではあるけれど、個人的にレッスンを見て貰っていたというのだ。『葉山託生』はきっと、余程の才能の持ち主であったのだろう……と言っても、ぼくの記憶の中では、『葉山託生』自身の主観でしか彼の才能を測れないし、『葉山託生』は自信家だったというわけでもないようで、今一つ彼が才能あるバイオリニストだったのかどうか、わからないのだけれど。
 でも少なくとも、彼が井上先生に認められていたことは確かだし、井上先生がすばらしいバイオリニストであることは、バイオロイドのぼくにもはっきりとわかる。
 バイオロイドのぼくには、音楽を鑑賞する能力はないとは思うのだけれど、それでも井上先生のバイオリンは、他のどんな演奏家とも、ましてやぼくなんかの音とは、全く違うということはよくわかるのだ。何というか、井上先生の音は別次元のものなのだ。バイオリンの音を現象として説明するならば、馬の尾でつくられた弓で、ナイロンやら鉄やらの弦をこする、それだけだ。それだけなのに、井上先生はすばらしい音楽を聴かせてくれる。井上先生の愛器のアマティもすばらしいのだろうけれど、先生はぼくの使っている安物を弾いてさえ、それはすばらしい音色を奏でてみせてくれるのだ。
 そんな音楽の才能に恵まれた井上先生は、その風貌もとっても美しく、まさに天が二物も三物も与えたという印象の人だ。背中の途中まであるつややかな黒髪がとっても綺麗で、やや中性的な顔立ちによく似合っている。一度、なぜそんなに髪が綺麗なのかと尋ねたら、そんなことを聞いたのはぼくが初めてだといって笑われてしまった。なぜ髪を伸ばしているのかというのはよく聞かれるけれどねと言って、井上先生は結局どちらの理由も教えてくれなかった――きっと、すごく高いトリートメントを使っているのだろう。









-I Know You-










 休憩を挟んで、新しい曲にとりかかる。
 ピアノの前に座ってぼくをみつめる井上先生の前で、ぼくは深呼吸して弓をかまえた。
 この曲は、ぼくにとっては新しい曲だけれど、『葉山託生』が弾いたことのある曲ではあるので、記憶の中に弾き方が残っている。ワンフレーズごとに、『葉山託生』はどう弾いていたのだろう、と考えて、記憶を探る。考え考え弾いていく、たどたどしく連なる音のつながりは、曲と呼べるようなものじゃなくなってしまって、ついに井上先生が苦笑した。
「随分考えながら弾いている感じだね。考えることは悪いことではないけれど、考えすぎるとかえってうまくいかないものだよ」
「……はい」
「リラックスして、気軽に、君の思うままに弾いてごらんよ」
 井上先生はそう言ってくれるのだけれど、思うままに弾く、というのは、ぼくにはとても難しいことだった。
 ぼくにできるのは、ただ楽譜の通り、指導されたとおりに弾くことだけだ。自分で曲想を考えて、表現することは出来そうもない。アンドロイドのぼくには、オリジナリティがうまれる余地があるとは思えないし、自分で曲想を考えたとして、でもそれはきっとどこかからの借り物になってしまうと思うのだ。
 だから、ぼくにオリジナルの演奏が出来るとしたら、それは――
 考えながら、つい手をとめてしまったぼくに、井上先生はまた苦笑した。
「何か悩んでいるのかい、託生くん」
「あ……、はい」
「僕でよければ、聞くけれど?」
 ぼくは少し躊躇った。
 井上先生は、ぼくがバイオロイドだということは、勿論知らない。なので、先生が真剣にアドバイスしてくれるほどに、ぼくはとっても、申し訳ない気持ちになってしまう。先生のような才能あふれる音楽家が、バイオロイド――つまり、
機械なんかに音楽を教えるなんて、あまり生産的な話ではないと思うのだ。
「先生」
「うん?」
「練習を再開してから、ぼくの音、変わっていませんか?」
「それが、心配事?」
「あ、はい」
 それだけではないのだけれど、でも、先生は『葉山託生』とぼくが、違う存在だっていうことに、気づいてはいないのだろうか。
 井上先生はふっと笑って、手元の楽譜をそっと撫でた。
「君が以前マスターしていたこの練習曲をもう一度弾きたいって言ったのも、そういう理由だったんだね。確かにね、事故の前と後とでは、君の音はかなり変わったと思う。命に関わるような大事故だったと聞いたし、その影響もあったのかなって思っていたよ」
「そうですか……」
 やっぱり、という言葉を飲み込んだ僕に、井上先生は頷いて、言葉を続けた。
「でも、前の託生くんの音もパワフルでよかったし、今の託生くんの音もより個性的で、僕はとってもいいと思うよ」
「個性的、ですか?」
 ぼくはおもわず、首を傾げた。
「うん。君にしか、出せない音だ」
 そう微笑む井上先生の言葉に、ぼくは複雑な気分だった。
 それは、ぼくの音が個性的に聞こえるのは、ぼくが機械だから、なのではないだろうか。
「まあ、君の変化には、事故の影響っていうのも、あるんだろうけれど」
 俯いたぼくの顔を覗き込むようにして、井上先生はにっこり笑いかけた。
「でも、それよりも僕は、託生くんは恋でもしたのかなって、思っていたんだけれどね」
「えっ」
 意外な言葉に、ぼくは必要以上に動揺してしまった。
「ん、まるきり的外れでもなかったのかな? じゃあその相手のことでも考えながら、もう一度弾いてごらん。リラックスしてね」
 井上先生はからかうようにそう言って、ぼくに演奏を促したけれど、とても演奏どころではないと思う。なにしろぼくは馬鹿正直に、ギイのことを思い出してしまっていたのだ。













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