裏コイモモ
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「浄夜」
Verklärte Nacht












終演後、楽屋に戻るとどっと疲れが出て託生は思わずよろよろと椅子にへたりこんでしまった。
すぐイベント会社の担当の女性がやってきて、感極まったような表情で祝辞と礼を述べ、託生が礼を返す間もなく慌てて会場の指揮に戻っていった。伴奏をしてくれたピアニストや知己の人々も次々に訪れてくれて、慌ただしくなる。
やがて会場を出る人々の様子を見ていた佐智が戻ってきて、託生と喜びを分かち合った。佐智は初めて見る男を連れていた。山田と名乗った男性は精悍な顔に柔らかい笑みを浮かべて託生の演奏を褒め、佐智を宜しくなどと言うので二人の関係はすぐにわかった。
佐智の紹介で数人の音楽関係者も挨拶に来てくれて、随分演奏を褒められてしまって面映ゆかったけれど、一人一人の言葉を有り難く聴かせてもらった。
随分経って、帰り支度が済んでも結局待ち人は来なかったので、諦めて楽屋を出た。スタッフ達に改めて礼を言いつつ楽屋口を出ると、彼が立ち尽くして夜空を眺めていた。
「……何、見てるんだい?」
「何も見えないな、と思ってさ」
「随分待った?」
「そうだな」
ギイはやっとこちらを振り向いて、柔らかく微笑んだ。
「長い間──もう何年も何年も、お前を待っていた気分だ」


タクシーに乗ってからも、二人とも言葉少なだった。二十分程で港区のマンションに到着する。花や荷物を手分けして運び、エレベーターに乗った。
彼の部屋を訪ねるのは初めてだった。最上階ではあるけれど、予想していたよりはコンパクトな部屋だった。お金はあっても質実で、けれどこだわりたい部分には払いを惜しまない彼の性格を思いだし、託生は彼らしい家だと思う。同居人や恋人の匂いもせず、正直安堵した。
けれど初めての訪問にやはり気後れしてはいて、部屋に入ってからも黙ったままの彼も気になって、託生は所在なく部屋の中を見回した。最上階だけあって眺望がよく、窓辺に寄るとついその景色に見とれてしまう。
やっと部屋の中を振り返ると、彼は無言のまま立ち尽くし、こちらを見つめていた。
「ギイ……?」
「まだ、信じられないんだ」
黙って見つめ返すと、吐息のように彼は続けた。
「……託生がこうしてこの部屋に居るなんて」






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………………過去が……世界が、置き換わらない。つながらなかった。
高校二年の一年間をダイブして、その後の世界の記憶は自分にもなかった。世界は『世界D』のままだった。
先程迄は、ただ結果として彼がここに居るというのが最良なのであり、あとは些末な問題だと思っていた。
今もその気持ちは変わらないけれど、戸惑いはあった。
目の前に居るのはつまり、ダイブで置き換えたはずの過去を『共有していない』葉山託生だった。
自分はダイブの中で、一年間──早めに切り上げることになったので、実際には一年弱だけれど──彼と過ごし、恋人同士になり、たくさんの思い出を作ってきた。彼が自分のことを運命の一部として受け入れ、離れようとは思わなくなるように。
けれど今目の前に居るのは、そうまでして手に入れたかった彼その人で、それは手に入れた後の彼、とは全く違う人格だ。
だからすべてリセットされてしまって、あたかも初めて彼と夜を迎えるかのような気分だった。でも彼はもっとそうだろう。
こんなふうに、どうしたらいいかわからないでいる自分は久しぶりだと思った。
演奏会の成功を労うとか、飲み物を出すとかソファをすすめるとか、そういう常識的な言葉を発したくなかった。でもいきなり彼に触れるのも怖くて、黙ったまま馬鹿のように立ち尽くしている。
そんな沈黙の中を、魔法のように彼が動き出す。
一歩一歩こちらに近づいて、
「ギイ」
彼は目の前に立つと、穏やかな笑顔を見せ、そっと囁いた。
「おかえり」
どの意味にもとれる……ダイブの中で目覚めを待っていると言ってくれたのは、本当に目の前の彼だったのだろうか?
わからない。
けれどそれを確かめたいとは思えなかった。
だからそっとその頬に触れ、心地よさそうに目を閉じた彼に、一言だけ、
「待っていてくれて、ありがとう。託生──」


重ねただけのキスはすぐに深くなり、背中に回された彼の手のひらの温度が上がるのを感じていとも容易く煽られた。
寝室に移動してベッドに座らせ、シャツを脱がそうとボタンを外しはじめると、彼は一瞬動きを止めて顔を伏せた。
「……ギイ、あの、」
「何だ?」
逡巡しながら託生は、声を震わせた。
「ぼく……ぼくは、君にまだ、伝えていないことが」
何を聴いても今更止まれない……と思いながらもデジャヴュを感じて記憶を探る。
──ダイブの中、六月のあの日曜日。彼を初めて抱いた日の打ち明け話を思い出す。
「お前の、兄さんの話か?」
はっとしたように顔を上げ、無言で口元を引き締めたその表情に、ギイは微笑んだ。
「何も言わなくていいし、何も心配はいらない」
「ギイ」
彼が接触嫌悪になった切っ掛けとも言える、実の兄との道ならぬ関係については、彼自身からの告白で既に知っていた。ダイブ開始より前の過去のことでもあり、今更どうすることもできない。
けれど、そうした総てを、どうにもならない総てのことを無意味にするために、この一年を──この一ヶ月、をつかったのだ。
再びキスを繰り返しながら、彼の肌を辿っていく。高校生の頃とは違う、知らない間に大人にかわった身体に胸が少しざわざわした。
首筋にキスを埋めながら、手は次第に下がってそこにいたり、ダイブの中で知った彼の弱いところを探ってみると彼が小さく声を上げた。
声を出してしまったことを恥じるかのような彼の戸惑うまなざしに、ともすれば高校生の恋人の頃の彼よりも初心にさえ思える表情に、なんだかズルをしたような気分になりギイは後悔した。
『この世界』においては、自分は今日初めて彼を抱くのだ。
それに、彼はもうずっと人肌を知らないのかもしれない。兄との関係が終わってから、誰とも触れ合っていない可能性が高い。
性急にならないように自制して、ゆっくりと愛撫を施していく。
時間を掛けて慎重にそこをゆるめ、やはり時間を掛けて身体をつなげた。
彼は文句一つ言わずに、けれど声を殺し苦痛に歪んだ表情は身体の負担が大きいことを示していた。そこでふと違和感に眉をひそめる。
ダイブ中に結ばれた記憶で恋人気分が消えずにうっかりしていたが、もともと接触嫌悪の彼がここまで一言も嫌だと言わなかったというのは、むしろ普通ではない状態なのではないだろうか。ダイブの中、恋人同士になって距離を詰めたつもりの後でも、彼は初めて抱いた折には恐慌をきたしかけていたというのに。
今は、恋人同士としての時間を過ごして慣れさせることさえせず、唐突に距離を縮めたのだ。あの時よりももっと、苦痛や戸惑いは大きいはずだ。
ギイは彼を思いやっているつもりでいながらも自分の欲望を優先させてしまったのだと思い、けれど謝ったりすれば余計に彼を傷つけるとも思い、そろそろと彼の髪を撫でてみた。
彼のことだから健気に微笑んでくれるのではとも期待したけれど反応は薄く、更にキスをおとしてみる。
「託生……大丈夫か? 随分無理をさせてしまっているな」
「……ん、」
「一旦、抜くか?」
「いやだ、……やめないで」
「でも」
託生は涙に濡れる眸でギイを見上げた。
力ない腕を伸ばして、ギイの頬に触れて囁く。
「もっと……さわって。深く、して」
やけに性急な託生に、ギイは不可解な気持ちだった。
「焦る必要はないだろ……もう、オレの側を離れないって、お前は」
言ったじゃないか、という続きを待たず、託生はゆるゆると首を横に振った。涙がこめかみを伝いきらきら零れる。
「今夜じゃなきゃ……今じゃなきゃ、だめなんだ。だから」
「託生」
「ギイ、お願い」
もっと──と甘い声で囁かれて、その声を奪うかのようにキスをした。


気がつくと日付が変わっていた。名残惜しくつながりを解いて、ベッドに並んで身体を横たえる。
すぐに圧倒的な眠気がやってきた。無駄な抵抗と知りながらもギイは眠気に抗おうと目をしばたたいた。
おそらく今夜眠り、目が覚めれば世界は全く違っているだろうという予感があった。そこはきっと『運命の地平』だ。過去が置き換わり、すべてが収束する場だ。やけに『この夜』に拘った彼も、無意識にそれを知っていたのではないかとすら思う。
それでもこの夜を忘れたくないと思った。今迄のダイブの後のように、せめて自分にだけでもこの世界──『世界D』の記憶が残っていますようにと願いながら、既にまどろみかけている託生の身体を抱き締めた。
彼は眠りに落ちた。





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