恋は桃色
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袖か最前列か、と随分迷ったのだけれど、やはり舞台と会場全体とを両方見たくて、佐智は自分用に最後列の一席を購入してあった。
毒気が抜けたのか、佐智の提案を素直に受けた彼女と、彼女の見張りを引き受けてくれた聖矢は、やはり最後列で客が少なかった場所を確認して案内した。
満席にはならなかったが、佐智は満足していた。皆期待に満ちた表情で自分の席に向かっていたからだ。チケットを送った知人達も、皆来てくれている。
警備の注意を逸らすためにか彼女に液体を掛けられてしまった女性も、彼女の自白で特に危険なものではないことがわかって応急対応が出来たようで、無事に客席に入ったと知らせがあり安心した。
これで全て片付いた、はずだ。捻じ曲げられていた幼馴染の過去についても、今日の演奏会の準備についても。だから、あとは──
定刻になり、やや緊張した面持ちの託生が登場する。前半はピアノの伴奏でバイオリンソナタと小曲をそつなく演奏し、好意的な拍手で受け止められた。
休憩を挟んでの後半にも別のソナタから入り、それが終わるとピアニストが退いた。
バッハの無伴奏パルティータから、今日も明るめのガヴォットとロンドを選んでいた。凛として気品が保たれているのがバッハらしくていいと思いながら聴いていると、背後に人の立つ気配を感じ、もしやまだ彼女が何かするつもりなのかと不安を覚えつつ振り返る。息をのんだ。
義一くん、と声を掛けそうになり、慌てて手で口を抑える。
真っ直ぐに舞台を見据える彼は、きちんとスーツで身なりを整え、腕には花束を抱えている。
佐智は慌てて開いていた隣りの席に移動し、通路側の自分の座っていた場所に彼を座らせた。
色々聞きたいこともあったけれど、演奏にも集中したかったので全てを後回しにする。
無伴奏パルティータを何曲か弾いて短い拍手を受け、舞台上の託生がふっとこちらを見た、ような気がした。けれど驚いた様子もなかったので、ギイには気づかなかったのかもしれない。
託生が弓を上げた。最後の曲、ツィゴイネルワイゼンだ。
情熱とは程遠く静謐に、それでいて抑え切れない感情が迸るかのように冒頭の重々しいフレーズを弾き、弓を一瞬退いてじっと虚空を見つめる。こんなに長いブレスは練習の時には入れていなかったはずだ。彼にしては芝居掛かり過ぎていると思ったけれど、その瞬間に込められた彼の万感が少しでも聴衆に、そして誰よりも隣りに居る幼馴染に伝わればと願った。
正確な一つ一つの音、それらの重なり、繋がり。総てのフレーズは練習の際に聴いた以上の完全さをもって彼の世界を表現して行き、佐智はその迫力に全身が総毛立つのを感じ、けれど彼の解釈がもたらす衝撃の大きさに聴衆にきちんと受け止めてもらえるだろうかと心配にもなり、嬉しくて不安というこれがファン心理というものかと初めての体験に胸をときめかせ、はらはらしながら見守った。
ラストの速いパッセージを駆け抜け、ふっと残響が消えた瞬間、場内は大きな拍手に包まれた。彼を理解してもらえたのだとほっとしながら、熱のこもったどよめきとブラボーの声に、日本の演奏会でここまでの反応は珍しいと佐智は微笑んだ。
鳴り止まない拍手の中、佐智は隣りの幼馴染を促した。
しっかりとした足取りで舞台に向かい花束を差し出したギイに、託生は驚いた様子もなく身をかがめ、微笑んでそれを受け取っている。
見交わされる二人の混じりけのない穏やかな笑顔を見た瞬間、佐智は総てがあるべき場所に収束したことを理解した。





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