恋は桃色
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その日も、いつもと変わらない朝だった。
先に目を覚ましたギイが、まだまどろんでいる託生にこっそりキスをして起こしてしまい、煩そうに寝返りをうちつつブランケットに潜り込まれてしまうのもよくあることだった。
「おはよう、託生」
「まだはやいよ……たぶん。何時?」
ちらりと時計を見て、ギイは苦笑した。
「もう七時半だ」
「はやい。お休みなのに」
「言うと思った」
「それに、せっかく夢を見てたのに」
「夢……どんな?」
「わからない、ギイのせいで忘れちゃったよ……でも、」
託生は言葉を切り、ブランケットから目の上だけ出して、記憶を反芻するように壁をじっと見つめた。
「なんだか、すっごく長い夢を見てた気がするんだ」
「……実は、オレも」
目を覚ました途端に総て忘れてしまって、なんだか不安になって託生を起こしたのだ、とまでは言わなかった。


(I come back to where you are.)

祠堂を卒業し、互いに進学や留学や会社の設立やコンクールといったあれやこれやを経て、東京に一部屋を構えてもう二年以上になっていた。途中には長く会えない時期もあったし、今でもそれぞれ演奏旅行や出張で部屋を不在にしてしまう期間も多い。けれど帰る場所があるというのはいいものだと思う。それがこの街だというのなら、尚更だ。
東京という街は、二人にとって丁度よい故郷だった。生まれ故郷でも育った場所でもない、祠堂でもない、誰でも受け入れてくれる場所で、どこへでも旅立てる場所だった。
仕事の都合を考えれば託生は欧州移住を考えたこともあったし、ギイのほうでもニューヨークに戻ろうかと思ったことも何度もあった。けれど、東京に拠点を置くと決めたこと、二人の家を持ったことは、枷にもなったけれど活力の源にもなっているように思えていた。最初の頃は早く家に帰りたくて望郷の念に苛まれたものだったけれど、最近では、離れていても帰れる時のことを思えば不安はなくなって、目の前の事に集中できるようになってきた。
例によってここしばらくアメリカに滞在していたギイは、二日前の託生のリサイタルにあわせてなんとか帰国したばかりだ。昨夜は丁度祝い事もあったので少し豪華なディナーに出掛け、部屋に戻って恋人同士の時間をもって、久しぶりにゆっくりできたのだった。
「今日は何もないんだろ? オレも半休をとったし、午前中は一緒にのんびりしよう」
「うん、ぼくも午後は準備しなきゃ。明後日から名古屋だし」
二日前のリサイタルを皮切りに、これから託生は演奏会ツアーの予定だ。託生一人でのここまで大規模なイベントは初めてのことだった。まずは東京での演奏会が成功したことで安堵しはしたけれど、気を抜いてはいられないのだ。
「東京のとプログラムを変えるのか?」
「うん、一曲ずつ変えていく予定だよ」
「ふうん……オレも行こうかなあ。ついでに観光もいいな」
「ギイだって仕事があるだろ……佐智さんは仕事のついでになるからって、博多にも来てくれるらしいけど」
「なんだって!」
東京だって来ていたのに、とぼやくギイを無視して、託生はそのことを思い出した。
「そういえば佐智さん、あの時変なこと言っていたんだよね。なんでも、ぼくのパトロンになる約束をしたって言うんだ」
した覚え、ないんだけど。
「なんだそれ、オレに断りもなく、佐智のやつ……」
「あ、でも金銭面はギイに任せるんだって」
「あいつ!」
勝手な幼馴染の言い分に不満を漏らしつつ、佐智の名前でギイはそのことを思い出した。
「そうだ、佐智で思い出した。託生のファーストアルバムでも聴こう」
「わ、やめてよ、本人の前で」
「昨日は折角お祝いをしたのに、その後聴こうと思っていてすっかり忘れてた。ごめんな」
マスターアップのお祝いをし試聴盤を受け取ったものの、その存在を忘れてしまったのは、部屋に戻ってすぐ、ギイが我慢できずにキスを仕掛けてしまいそのままあれこれしていたからだ。託生はその事に気づいて、少し顔を赤くした。
託生にとって初めてとなるその音源は、佐智の力添えによって完成したものだった。今にして思えば、パトロンという発想はそこで培われたものかもしれない。
ギイはベッドを抜け出して、昨日貰った試聴盤を取り出すと、まずはジャケットの写真をじっくりと眺めてみた。
「ちょっと、もう、恥ずかしいからそんなに見つめないでよ」
「いいじゃんか、綺麗な写真だ。これだけでもファンが増えるな」
「そんなこと、ないってば」
託生はベッドの上で、枕を抱えて顔を埋めた。
ギイはそちらの託生も見て苦笑し、ケースを裏返すと曲目をざっと見てみた。よくはわからないけれど、これまで託生が演奏してきた曲の中で、得意な曲を中心に集めたものらしいことはわかる。ある曲のタイトルに、目がとまった。
「これは──」
ケースを手にしたまま思わず言葉を失っていると、託生が首を傾げて、やっとベッドから抜け出してきた。ギイの手の中のケースを横合いから覗いて、その指が辿る曲名に頷く。
「ああ、ツィゴイネルワイゼン? それは、佐智さんに勧められて」
「また佐智か……」
ギイは少し顔をしかめて見せつつ、改めてタイトルを見て呟いた。
「……無伴奏」
「そうなんだ、不思議なんだよ。これ、本来はオーケストラかピアノの伴奏を入れてもらう曲なんだけど、佐智さんは是非無伴奏でって言うんだよね。正直、最初はどうかなと思ったし、急な提案だったんだけど、弾いてみたら、結局ぼくの方がのめり込んじゃって」
ギイは黙って、ロムを再生しはじめた。
自分の音を聴かれる恥ずかしさにか、託生がキッチンへ逃げて、しばらくして観念したような顔でコーヒーを淹れてきてくれたので、それを手にソファに並んで座る。
やがてツィゴイネルワイゼンに入った。
ぐっと切り込むような低音に、ついこちらも一瞬呼吸をとめる。
無伴奏でのバイオリンは孤独で静謐で、それでいて訴えかけるような何かを内包しているように感じる。
何か──何を?
何を伝えたいのだろう。
ギイは目を閉じた。
目の前にいる当人にそれを聞いてはいけないように思った。
何を。
何だろう。
考えてもわからない。
感じられるのに、わからない……伝わらない。
思い出せなくてもどかしい、だけど。
目を開く。
自分は、知っていたはずだと思うのに、『それ』を。
「ギイ」
知らず、涙が溢れていた。
託生は何も言わず、ギイの手をそっと握ってくれた。






「6月の長い夜」 了





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