恋は桃色
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何でかこの人に不会(あは)では止まむと思ひ迷ける程に、 
平中病付(やみつき)にけり。 
(しかうし)(なやみ)ける程に死にけり。 
今昔物語  
(芥川龍之介『好色』) 





   「平中」




 秋が来ていた。
 日中の日差しにはまだまだ夏の名残の暑さが残るけれど、夜の空気は大分涼しいそれとなった。湿度の高い日本の夏は何度経験しても好きになれないが、過ごしやすい秋は好ましいと思う。
 祠堂での暮らしもまた、事前に予期していた以上のものだった。章三はいい奴だし、気のいいクラスメートや面白い先輩達――まぁ、中には高林のような仕方のない奴もいることはいるが――との生活は申し分のない、楽しいものだったから。勿論、ただ一つの問題を除いては、だ。



* * * * *



「あ、ギイ、赤池、丁度いいとこに」
 章三と夕食をとっていると、級友に声をかけられた。
「どうした?」
「うん、山岡なんだけど、オレと同室の」
「ああ、今日休んでたよな。カゼだっけ?」
「サボリなんだ」
 あまりにサラリと返す級友に、オレと章三は無言で目を見交わした。
「バラしちまっていいのか?」
「うん、あいつさ、バレー部じゃん。で、一年でただ一人のレギュラーメンバーに選ばれたらしいんだけど」
「聞いたよ。次の日曜に練習試合なんだろ?」
 級友は軽く頷くと、言葉をついだ。
「そうなんだよ。でさ、それでプレッシャー感じ始めちゃったみたいでさ。朝から気分が悪いとかで、食欲もないみたいで、今も部屋にこもってるんだよ」
「……しょうがないな、山岡も」
「なぁ。部外者には、何で練習試合ごときでって感じなんだけど、まぁ色々あるのかもって思うよ。てことで、一応級長と風紀委員にこっそり報告、な」
「報告されても困るんだが……」
 章三はしかつめらしい顔をしながら首をふった。オレは代わりに章三の分まで笑顔をつくって返す。
「ま、もしこれ以上そういう様子が続くようだったらまた言えよ。相談くらいには乗るから」
「ああ、サンキュ、ギイ。赤池も宜しく」
 級友はひらひらと手を振って立ち去った。
「まったく。そもそも風紀委員にサボリの報告をしてどうするんだか」
「サボリとも言い切れないんじゃないか? 精神的なものが体に出やすい奴ってのはいるもんだろ。山岡も見かけによらずデリケートな奴だったんだな」
 章三を軽くなだめながら、自分の言葉にちくりと痛みを感じる。

 オレは何故これほどまでに「何ともない」のだろう。

 昔からオレの身体は馬鹿みたいに頑健だった。どんなに神経を磨り減らそうが飽食しようが胃にきたこともないし、不眠や肩こりにも無縁だ。風邪だって滅多にひかない。ありがたいことではあるのだが、正直なところ不本意でもある。
 母は胃弱なたちなので、大事なお客を迎える準備だとか、絵里子がインフルエンザで百四度の熱を出しただとか、そんなことがあるごとに胃薬を飲んでいる。そんな母を見て、不謹慎だとは思いながらも、感情のバロメータを他人に見える形に表わせる彼女を羨ましく思ったことがある。
 だって、オレは何ともないから。それにたとえどんなに不安なあるいは不快な状況でも、にっこり笑って誰にも気づかせない自信はある。今まではそれでいいのだと思っていた。
 けど、今は――何故これほどまでに「何ともない」のだろう。
 オレにとって託生に拒絶されるということは、煩雑な仕事をこなすことや難しい交渉を乗り切ることなどと同程度の痛みでしかないのだろうか。
 小さく息をつくと、オレは二つ目のコロッケにかみついた。



* * * * *



 定期試験前日というのは寮内に心地よい緊張が張り詰めるもので、オレは嫌いではない。寮内をうろうろしている生徒は少ないし、行過ぎる数少ない生徒達も張り詰めた表情で小脇にテキストやノートを抱えていたりと、なんとなく引き締まった雰囲気がある。まるで誰もが自分自身にしか興味がないようで、静かな寮内をゆっくり歩いていると違う世界に来たような錯覚を覚える。
 部屋に戻ると、章三は机に向かって明日の古文のノートを広げていた。オレは無遠慮にその後姿に声をかけた。
「なあ章三、古文の試験範囲教えてくれるか?」
 一瞬動きがとまり、まるで機械仕掛けのような動きでこちらを向いた章三の表情はなんとも形容しがたいものだった。
「古文の試験範囲。……ギイ、今日が何日か分かってるか?」
「え? ……二十日だよな? それがどうかしたか?」
「古文の試験は何日めなのか知ってるか?」
「初日……明日だろ?」
 章三は大きなため息をひとつついた。
「明日から期末だっていうのに……この男はこれで平均以下の点数なんてとったことがないんだからな、嫌になるよ」
 俯けていた顔を上げ何かを悟ったような目でこちらを見た章三は、抑揚のない声で告げた。
「範囲はな、テキストが『徒然草』と『伊勢物語』、ただし伊勢は「東下り」だけだ。単語はパート十一から二十まで」
 机上に置きっぱなしにしてあったテキストの目次を開き、ざっと確認する。
「サンキュ。文学史は?」
「自学自習。テキストの範囲が徒然と伊勢なんだから、中世説話と歌物語を中心に確認しておいたほうがいいと思うが」
「歌物語、ね。伊勢、大和、だっけ?」
「平中もだ」
「……『平中物語』と言えばさ」
 章三の言葉にふと記憶を呼び覚まされオレは顔を上げて章三に声を掛けたが、章三は既に自分のノートに向き直っていた。
「芥川が平貞文を主人公に『好色』って小説を書いてるの、知ってるか?」
「知らんが……すごいタイトルなんだな。たしか平中も『伊勢』の業平みたいにプレイボーイなんだよな、だから『好色』か」
「それがちょっと違うんだな」
 オレの質問に、章三は手を休めずに声だけで返して寄越してくる。しかし状況を考えれば律儀な奴だ。オレは遠慮なく話を続けた。
「いや、『平中物語』の平中はそうなんだけど。『好色』の方の平中は侍従の君という一人の女性にめっちゃ惚れこんであれこれ口説こうと頑張るんだが、侍従の君は遂に靡かず、平中は彼女に恋焦がれながら死んでしまうんだ」
「成る程ね……色男にも靡かない女性は居たってわけか」
 章三は軽く頷きながら納得したような声で答えた。
「惚れた相手に振り向いてもらえないんじゃ、色男なんてなんの意味もないよな」
 沈黙が流れる。復習に戻ったのだろうと思えた章三は、しかし少しの間をおいて蒸し返した。
「しかしあれだな」
「何だ?」
 章三はこちらを振り返り、言葉をついだ。
「昔の日本人ってのは、恋の病でよく亡くなったものなんだな。他にもあるよな、そういう話。まぁ、フィクションかもしれないが、昔の人の方が情熱的だったということもあるのかね」
「どうだろうな。ま、フィクションというか、そういう行動の類型があったための結果だと思うな。恋の病にかかった人間は食事を摂らなくなったり家に引きこもったりするもんだって認識が先にあって、多くの人間は自分の恋のアピールも兼ねてその通りに行動する。で、そんな不摂生をしてりゃ、体力が落ちて病気にもなると」
「成る程な、はは、リアリストのギイらしい解釈だ。ロマンもへったくれもないけど」
 笑いながらノートに戻った章三には、オレの表情は見えなかっただろう。そう、現実はきっとそんなものなのだと思う。分かってはいても、どうしてもその問いが頭を離れなかった。

 本気の恋ならば、それが叶わなかったら死ぬのが本当だろうか?




 馬鹿馬鹿しい。

 オレは左手の時計をちらっと見て、章三に声をかけた。
「もうこんな時間か。腹へったな、飯行くか」
「そうだな……ここだけ片付けていいか? あと二行なんだ」
「早くしないと置いてくぞ」
 机上にちらかっているノートや教材を適当に整頓しながらオレは軽口をたたく。先ほどの疑問がまだ胸にくすぶりながらも、頭の中では今日の夕食はなんだろうとぼんやり考えている――託生に拒絶されても腹はへる。夜には眠くなる。少なくともオレはそうだ。ことあるごとにこの恋の不可能性を思い知らされつつ、かなわぬ恋の病とやらで死に至りそうな気配はみじんも感じられない。今夜もオレは眠り、そして明日の朝は目を覚ます。だって覚めない夢の中で託生が手に入るというわけではないのだから――そんなふうに考える、章三いわくリアリストであるところのオレには、本当の恋など出来ないとでもいうのだろうか?
 いや、違う。
 違う?
 ……違う、そもそも。叶わないだなんて、まだ決まってないじゃんか。
 こんな馬鹿馬鹿しいことを考えるのも、腹がへってるからだな。
 辞書を引き出しにしまいしなにぐう、と腹がなり、オレは苦笑しつつ立ち上がった。







 みそかごとへ続く












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 祠堂って秋休みがあるってことは、二期制なんでしょうかね。確認するのが面倒で二期制にしてしまいました……激しく違うような気もしますが。
 ギイの本気でありつつ軽い、けど真面目、という感じが出ているといいなと思います。難しい。しかし連作のバランスが悪いので、後で訂正を入れるかもしれません。
 モチーフを芥川龍之介『好色』と冨樫義博『レベルE』から引用してます。『好色』のほうはご覧の通り、まんま文中で使ってます。引用は青空文庫 Aozora Bunkoさんより。『レベルE』は「NO.005 Crime of Nature…!」のラストから「明日から寝るなと言われてもオレは眠くなる/食うなと言われても腹はへる」という部分を言葉を替えて引用してます。この作品はとても好きなんですが、中でもこのNO.005はいろいろな意味で大好きなお話です。

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