Prologue
ソファにバッグとバイオリンを置くと、ジャケットのままばったりとベッドに倒れこんで、ぼくはため息をついた。
ちょっと、疲れた。
一人でビジネスホテルに泊まるなんて、初めてのことだ。これまでのぼくの旅行体験はといえば、ほぼギイとのふたり旅のみ、だったので、交通や宿泊の手配からチェックイン、チェックアウトやらなにやら、今まではすべてギイに頼ってしまっていた。だから、一人であれこれの手配をして、ここまで来るだけでも、気を張っていたのだと思う。ギイの言うように、世間知らずだとは思うけれど、仕方がない。
それに、そもそもこんな一人旅をすることになった理由であるところの、明日の予定を考えると、正直ちょっと、気が重い。
目を閉じて、これまでのあれこれを思い出していたところへ、不意にスマートフォンの着信音が鳴り響く。ぼくはぎょっとして、急いで体を起こした。
「うそ」
ぼくのこのスマホの番号は、ギイと他の数人の友人しか知らないはずなのだ。誰だろう。
章三や利久という可能性もゼロではないけれど、ぼくの履歴の九割以上は、当然この秘密のスマホをくれたギイで埋まっている。だから今も、コールしているのはギイという可能性が高い。けれど、ギイは秋休みを利用して、ニューヨークに帰っているはずで――
そんなことをせわしく考えながら、ぼくは急いで、バッグのサイドポケットからスマホをとりだした。
……やっぱり。
ディスプレイには、当然のように『ハニー』の文字がちかちか流れていた。
「ギイ……」
この小さな端末が、どんなに離れていても、ギイとぼくを、つないでくれるのだ。
そして、ギイという人は、ぼくが心細くなっている時には、必ず手をさしのべてくれる——お互いどこに、どうして居ようとも。
我知らず微笑みながら、ぼくはスマホをタップした。
「ギイ?」
けれど、ぼくの呼びかけに答えはなかった。
「もしもし、ギイ? 今、ニューヨークだよね? そっちは……ええと、今は真夜中だろう?」
返事が得られず、切れてしまったのかな、と思いかけたところで、どこかの喧騒のようなくぐもったざわめきに気づいて、ぼくはじっと耳をすませた。
何だろう? これは。
その時やっとギイの声が受話器から聴こえ始めた。
『託……、か……? 聞こえるか?』
「……ギイ、風邪でもひいた? なんだか声が少し、……へんだけど」
それに、なんだか声が遠く、途切れがちだ。
『託生…なんだな? 今、…こだ?』
「えっと、どこかって? 休み前に伝えたと思うけど、東京に来てるよ」
『そうだっ……、な…』
「うん、ギイ、……どうしたんだい? 何かあった? それに、よく声がきこえないんだけど」
おかしな状況に、少し不安になりながら問いかけると、ギイはそれからしばらく黙り込んだ。
電話の向こうでは相変わらずざわざわとした雰囲気が流れていて、その上妙に、雑音が入る。いつもはこんなことないのに。
「ねえ、ギイ……」
『託……』
「うん」
『……すけ……んだ、託生』
「ギイ?」
『オレを、助けて欲しい』
やっときこえた、思いつめたようなその声に、ぼくは一瞬言葉を失った。
「ギイ……ぼくに、助けてほしいって? ほんとうに?」
『ああ。託生じゃなきゃ、ダメなんだ』
ぼくは驚きつつも、次第に困ったようなうれしいような気持ちが沸いてくるのを押さえられなかった。
ギイがぼくを頼るなんて、しかもこんなに直接的に。
あのギイがぼくなんかを頼るなんて、それは余程困っているということなのだろうし、喜ぶのは不謹慎かもしれない。けれど、ギイがぼくを頼ってくれるというのは、やっぱりとても、うれしい。
ぼくはスマホを握りなおし、つとめて明るい声を出した。
「ぼくに出来ることなら、何でもするよ。何をすればいい?」
『託生……』
ギイは少し躊躇うように言葉を切った。
『託生、オレに……』
「ギイ、に?」
ぼくが辛抱強く待っていると、やがてギイははっきりとこう言った。
『オレにバイオリンをやめさせないでくれ』
「……は?」
ギイに?
バイオリンを、やめさせるな?
「ちょ、それってどう」
『すまな…、時間がない……だ。また連絡するから、スマホを——』
そこで通話はぶつりと途切れ、ぼくは急に静かになった室内で呆気にとられたまま、スマホをみつめていた。
ギイの言ったことは、ぼくにはさっぱりわからなかった。
ギイが……バイオリンを?
小さい頃にバイオリンを無理矢理習わされたとは聴いていたけれど、それ以降は全くノータッチだったと思っていた。第一、彼のバイオリンは、今はここに、ぼくの手元にあるのだ。
それとも、今も隠れてこっそり練習をしているとか?
ぼくは頭を振った。
それはちょっと、考えられない。いくらギイが唐突な言動を『売り』にしているとは言え、音楽方面での実行力には、今までお目にかかった事がない。夏休みに京野さんのところで音楽劇をやった時も、楽器の担当を必死に回避しようとしていたくらいだったのだ。
いずれにせよ、ギイの不可解な言葉は、凡人のぼくがどんなに考えてもわかりっこないだろうな、と思う。
『また連絡するから』、おそらくスマホをちゃんと持っていろっていうことなんだろう。ぼくは、ギイの連絡を待つしかない。仕方なくスマホをポケットにつっこんで、とりあえず食事にでも行こうかと思ったところで、ぐらり、と地面が揺れた。
ぼくは咄嗟に、バッグの脇に置いてあったバイオリンのケースを掴み、抱え込む。
地震だとしたら、自分よりもまず、バイオリンを守らなければと思ったのだ。
けれど、揺れは次第にうねりとなって部屋全体を包みこんだ。
身体が床に沈みこむような奇妙な感覚に、目眩を覚える。
これは、本当に地震なのだろうか? 地震にしては妙な揺れ方で、地震地帯である東海地方在住のぼくでも、こんなのは今まで経験したことがない。まるで、落ちていってしまいそう……落ちていく? 落ちていくって、どこに?
ぼくはほとんどパニックになりかけながら、懸命に手をまわして、バイオリンケースをぎゅっと抱きしめた。
ストラド、お前だけは壊れないでいておくれよ。
7