三度目の朝
ほの昏い部屋の中で目を覚ます
カーテンの隙間から差し込む春の光
ベッドを降りて、音をたてないように数歩
隣りの枕元にそっと跪く
まだ眠りの中にいるのだろうその顔を窺い見て
穏やかなその寝顔を目にする、ただそれだけで
身体中が、心まで疼く
そうして我慢出来なくなって、
──つい、その口元にキスを軽くかすめる
……ああ、全く。
オレって、こんなに堪え性なかったっけ?
Prologue ──三度の接吻のある独白
「起きろ、託生。もう七時だぞ」
「──ん………………もう、少し……」
カーテンを思いっきり引き開けて、朝の光をまともにあててやる。眩しがって眉にしわを寄せ、もぞもぞとブランケットを引き上げる仕草が可愛くて、つい微笑む。
「託生、朝だよ」
「…………」
もう一度呼びかけると、託生は返事をせず引き上げたブランケットに顔を隠してしまった。往生際の悪い強情な態度にオレもついむきになり、ブランケットをつかんで一気に引っ張ってやる。
果物みたいにごろりとシーツの上にころがるはめになり、託生は身体をまるめて抗議した。
「さっ……、さむ、寒いじゃないか!」
「寒いもんか、春だってのに」
託生はいかにも仕方なく、という感じでのろのろと上体を起こした。性懲りも無く毛布を引き寄せながら、枕元の時計を覗き込む。
アラームの時刻にはまだ少しあることを確認し、託生はオレを見上げた。
「ギイ」
「なんだ?」
「あのさ、……七時起床って、早過ぎないかい?」
「早いもんか。オレは三十分も前から起きてたんだ。これでも七時までは起こすのを我慢してやったんだぞ、ありがたく思え」
その間ずーっと託生の寝顔を眺めて、あまつさえキスまでしたことは内緒だ。
託生は半分閉じたままの目を擦りながら、ぶつぶつと反論する。
「だって…………去年は……七時十五分に起きていて、それで間に合っていたんだよ」
眠そうな声と表情とが可愛くて、つい笑いそうになるのを必死で堪えて、オレは難しい顔をつくって見せる。
「十五分くらい大して変わらないだろ。とにかく、オレは腹が減ってるんだ。早く顔を洗って着替えろよ」
「……………………」
反論する気をなくしたらしく、託生は黙りこんだ。のろのろとベッドから降りるその動作を、オレは自分のベッドに腰掛けたまま見守る。ふらふらとバスルームへ向かう、その身体がオレの目の前を通り過ぎるその瞬間、殆ど無意識にその腕を捉えてしまって、自分でも驚いた。
「なに?」
不思議そうに振り返るその表情に、考える間もなく捉えた腕を引く。
「わっ!」
ぐらりと倒れかかるのを抱きとめ、躊躇いも無くキスを送って、
「おはよう、託生」
驚きと羞恥とで真っ赤になった託生に、オレはにっこり微笑んだ。
「な……なんだよ! 急に!」
「目が覚めただろ?」
「よ、余計なお世話だよ!」
怒ったようにそう言うと、託生はくるりとこちらに背を向けてばたばたとバスルームに駆けて行ってしまった。
オレはくすくす笑いながら、手持ち無沙汰にまかせて窓辺に寄り、明るい外を見遣った。
春らしく、おだやかな青の空から、朝の陽射しがきらきらと眩しい。
そう、春だから、だ。
……この春満開の頭の中を、どうにも制御できない。
距離が測れない、加減が出来ない。感情は常にアウトオブコントロール。
それでいて、自分の行動に一々怯んでもいる。
大体不意打ちのキスなんて、託生にはまだ荷が勝ちすぎるんじゃないか? うざったいと思われたらどうするんだ? 仕舞いには嫌われてしまったりして?
そう思うのに、もうこれで、……何度目だ? 全く、自制出来ていない。
更にタチが悪いことに、オレの言動に託生が戸惑っても怒っても、愚かなオレは単純に喜んでしまうのだ。託生の小さな情動ひとつひとつに、オレの感情はいちいち多大に動かされて、託生が感情を露にすればするほど、たとえそれがマイナスの感情であれ、オレはうれしい。……オレのこんな内心を知れば、託生は怒るだろうか。そうしてオレは、託生の信頼を失ってしまうのだろうか。
分かってはいるんだ。自分の軽率さも、勝手さも。
分かっているのに、とまらない。とめられない。何度も同じところで間違える、躾の悪い犬のようだ……オレって、馬鹿なんだろうか。
一人で散漫にそんなことを考えていると、託生がバスルームから戻ってきた。心なしか、元気がない。
先ほど来の自省と相まって、オレは大いに動揺した。そんな内心を顔に出さないようにして掛けるべき言葉を考えていると、託生が先に口を開いた。
「あの、ごめんね」
「何が?」
「さっき。余計なお世話だなんて、言って」
オレはほっとして、わざと軽く返す。
「なんだ、気にしてないよ。オレも悪かったよ、驚かせたか?」
「ちょっとびっくり、しただけ」
「そっか。それより腹減ったな、早く着替えちゃえよ」
「うん」
やっと少し微笑んだ託生に、堪えきれずに立ち上がって距離を詰める。
「ギイ……?」
「その前に、託生」
「なに?」
「キスしていいか?」
「は!?」
脈絡のなさに目を見開いて、託生はしぱしぱと目を瞬かせた。
「お早うのキスがまだだろ?」
「……さ、さっき、した…………じゃないか」
一方的に、と言いたげなまなざしに、オレは厚顔にも憤然として見せる。
「あれは託生の目覚まし代わり、だ。いいから早く済ませて、早く着替えろ。オレは腹が減ってるって言っただろう」
「う……」
朝食とキスとを引き比べるオレの軽率さに丸め込まれ、託生はしぶしぶながら頷いた。
「ほら、来いよ」
手を伸ばせば、躊躇いながらも素直に伸べられた託生の腕を引き寄せて、じっとその眸を見詰める。戸惑いと困惑と、そして少しの怯えの色に、けれどオレはやっぱりやめてやれない。オレはどうしても、託生の了承を得てキスを送りたかった。
三度目の朝の、三度目のキス。
頬に手を触れると、その睫が少し震えながら伏せられる。
この心があるがままに伝わればいいと願いながら、そっと唇をあわせた──好きだ。
お前が、好きだ。
それだけを思って、ゆっくりと離れる。そうして開かれた眸には照れたようなまだ戸惑うような色が差していた。オレは真面目に、口をひらく。
「お早う、託生」
「……うん。お早う、ギイ」
「さ、終わり。早く着替えろよな」
「はいはい」
ぱっと手を離して解放してやると、託生は呆れたような返事を返してクロゼットに向かい、だからオレのこんな表情は見てはいないだろう。こっそり息をついて、窓外に再び目を遣った。
ただ触れるだけのキスが、こんなにも愛おしいものだったなんて。ずっと知らなかったんだ──託生に再会するまで。そんな真実を、
オレに気付かせてくれて、本当にありがとう。
春へ急ぐ人 へ続く
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タイトルはランボオ「三度の接吻のある喜劇」から借用・改変。
わたしのイメージしている二年初期ギイの心象総集編、という感じのプロローグです。原作のこの頃のギイって、他の時期に増して不思議な言動が多い気がします。内心めちゃくちゃ舞い上がってたり、少し臆病にもなってるのかなあ、とか想像してます。それでも崎義一なので(笑、強引だし自信家っぽいし超然としてるし、そしてなぜか時々ものすごくアホだし、と…(笑、すみません…。でもそんな多面体なギイって、すごく面白いと思うのです。
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