恋は桃色
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!!!!!パラレル設定ですので、ご注意ください&設定をご覧ください!!!!!本テキスト内にはフジミ(秋月こお「富士見二丁目交響楽団シリーズ」)のキャラが登場します。フジミをご存知でなくても判る内容だと思いますが、こうした企画等が苦手な方はご注意ください。圭×悠季です!!!!!




















「65小節までは、もっと抑えて。そのあとのクレシェンドをきちんと活かすようにね」
「はい」
「それからここは」
 託生の譜面にさらさらと鉛筆を走らせて、その先の和音をくるりと囲み、守村は言葉を切った。
 鉛筆を譜面台に置き、脇の台においていた自分のグァルネリを取りあげる。
 守村は指示した部分を軽がると弾いてみせると、託生に向かって微笑んだ。
「わかったかい」
「あ、はい」
「じゃあ、そうね、55から弾いてみてくれるかい」
 託生は頷きストラディヴァリウスを構えなおすと、守村の手本を思いかえしながら弦に弓を当てる。
 しばらく進んだところで、再び守村の制止が入った。
「うん、そこまで。まだ少し走っているね、特に78あたり。もっと一音ずつしっかり抑えてごらん。今と同じところから、もう一度」
「はい」
 託生は再びヴィオロンを構え、神経を集中させて同じメロディを繰返す。
「うん、よくなってきたね。後でまた練習しておくようにね」
 守村はそう褒めて穏やかに微笑むと、先を促した。
 守村悠季は祠堂学院の音楽科の教員である。まだ若く実績はないものの、その指導は厳しくも懇切丁寧だと生徒の間でも評判が高い。専門の楽器はヴィオロンであり、託生の指導担当教諭でもある。だが担当教諭とは言っても、ヴィオロンを弾く生徒だけでも全学年を合わせれば二十人からは居るのだし、ヴィオロン専攻の教諭は守村を入れて二人しかいない。だから週に一度の守村の個人教授は、託生にとっては貴重な時間なのだった。
 託生が守村の個人教授を楽しみにしているのは、守村の指導技術は勿論のこと、その人となりにも惹かれてのことである。音楽家という職業からは連想できかねることであるが、意外にも守村の実家は農家であるということだった。それを気にしてか、事あるごとに自分は庶民だからと苦笑するのだが、そんなところも託生は好ましく思っていた。生徒も教員もブルジョワジィばかりの祠堂にあっては、託生にとって守村は数少ない身近な(と思える)人間であった。だからこそ、人と打ち解けることの得手ではない託生も、守村には早くから心を開くようになっていたのだった。
 終りの小節までさらったところで、守村は懐中時計を確認して苦笑した。
「時間、過ぎてしまったね。ここまでにしよう。次回は仕上げられるよう、今日確認した点に注意して練習して、全体の曲想も練り直しておいてね」
「はい、わかりました。ありがとうございました、先生」
 託生はほっと息をついて、頭を下げた。
 守村の指導には、遠慮がない。名立たる名家の子息達に臆することもないし、勿論託生のような特待生を贔屓することもしない。そして、まだ学生なのだからと見て指導を加減をすることもない。生徒が他の教員であれば可を出す地点まで辿りつくと、守村はその更に先を要求する。今で言えば、技術面での可を出した後で、芸術面での精進を要求する、といった具合だ。
 たおやかなその外見や優しげな面差しは、一見この音楽教師を弱弱しい青年に見せがちなのだが、凛と背筋の伸びた立ち居振る舞いをよく見ていれば、時には頑固なほどのこうした守村の性格が垣間見えてくるのだった。そしてそんな守村の清廉さ、潔癖さも、託生は好ましく思っていた。
 ヴィオロンを仕舞おうと守村に背を向けたところで、扉を叩く乾いた音が聞こえた。
「どうぞ、何方です?」
 守村が声をかけると、扉が半ば開き、その向こうには日本人離れして背の高い美丈夫が立っていた。
「失礼、練習ルッソンはもう終わられましたか?」
「桐ノ院先生」
 途端に強張ったその声音に、おや、と託生は顔を上げた。
「何か御用ですか」
 そっけない守村の問いかけに、扉の向こうの桐ノ院は莞爾にっこりと微笑んだ。
「ええ、紅茶のいのが手に入りましたので、守村先生もご一緒に如何かと思いまして」
「間に合ってます」
 にべもない守村の返しに、託生は唖然とした。
 生徒等の前ではいつでも柔和で、穏やかな顔しか見せたことのない守村の、この様子はただ事ではない。
 あっけにとられて守村の顔を無遠慮に見つめている託生に、桐ノ院が矛先を転じた。
「どうですか、葉山君もご一緒に」
「あ……はい、ありがとうございます」
「それではお二人で御出でなさい」
 思わず頷いてしまった託生は、桐ノ院にそう促されて自分の失言に気づいた。内心焦りつつ振り返ると、守村は色を失っていたが、託生の視線に気づくと、つくったものと明らかに判るひきつった微笑みを送ってきた。
「そういうことなら御馳走になろうか、葉山君。……桐ノ院先生、僕らは楽器を片付けてから伺いますので」
 最後の言葉は扉の方へは顔を向けないままに口にされたものであったが、桐ノ院は不快な顔も見せずに再び守村へと莞爾にっこり微笑んで見せた。
「判りました。準備してお待ちしています」





 妙なことになってしまった。
 どう見ても、守村は桐ノ院の誘いに乗り気ではないようだった。託生が不用意な返答をしたせいで、桐ノ院の誘いを断れなくなってしまったのだろう。
 謝罪、すべきだろうか。
 託生は先ほどの遣り取りを反芻しつつ、そう思った。
 だが託生の半歩前を歩く守村は、ヴィオロンの行李を両手で胸にかかえて、思いつめたような表情で黙々と歩いている。
 声をかけることを躊躇っていると、守村が歩みを止めないまま口を開いた。
「ごめんね葉山君、つき合わせちゃって」
「……はあ、いえ」
 謝ろうと思っていたのに、逆に謝られてしまった。
 託生は逡巡しつつ、守村に遅れないようにと速足で歩きながら、思い切って声を掛けた。
「あの、守村先生」
「何」
「先生は、その、桐ノ院先生のことを、快く思っていらっしゃらないのですか」
 託生の率直に過ぎる問いかけに守村は卒然歩みをとめ、くるりとこちらに向き直る。
 と、みるみるうちに頬が赤く染まり、守村は挙動不審なまでにうろたえた。
「そ、そ……そんなことは、ないけど」
 おや、と思いつつ、託生は先を続けた。
「えっと、……紅茶は、お嫌いですか」
「いや、そんなことはないよ。以前欧州に留学して居たこともあるから、頂き慣れている……し」
 守村が留学していたというのは、初耳だ。
 もっとその話を詳しく聴きたいと思ったが、視線をうろうろと彷徨わせる守村を見ていると、何と続けたらよいものかと戸惑ってしまう。
 先ほどの桐ノ院へのにべもない拒絶も、今のこの不可解な態度も、普段の守村らしいものではない。
 一体、何が守村をそうさせるのだろう。どうにも判然はっきりしない。
 託生は首をかしげつつ、考えながら言葉を継いだ。
「桐ノ院先生は、優秀な指揮者でいらっしゃると伺っています」
「うん、まあね……彼の音楽的才能は真実素晴らしいよ」
 やっと少し微笑んだ守村は、少しため息をついて、自ら話題を繋げた。
「一度、帝都で彼の振ったベートーベンの第五番を聴いたことがあるよ」
「第五番というと、交響曲の『運命はかく扉を叩く』ですか」
「そう。本当に素晴らしかった」
 守村はそう言い切ると、ふと空を見詰めた。
「彼の第五番は、冒頭からして違うんだよ。あの冒頭はあの交響曲の心臓部のようなものだけれど、あの絶妙な間合い……理想的だと思ったよ。そしてその後も、堂々たる、しかし重過ぎない第一楽章……まさにベートーベンそのものという感じだった……」
 どこかうっとりとしたまなざしで滔滔と語り出す守村を、託生はあっけにとられて見詰めた。
「そして第四楽章だ。それまでの三楽章を総て昇華するかのような、まさに宙へと飛翔するかのような迫力で、……僕は終演後も震えが止らなかった。あれは真実、これまでに聴いたどの第五番も色褪せてしまうような、本当に素晴らしい第四楽章だった……イタリヤに留学した折にも様々なあちらの楽団を拝聴したけれど、あの桐ノ院の第五番を超える演奏はおそらくないだろうと思われたよ」
 守村は熱のこもった弁を奮い続け、最早託生の存在も忘れているかのようであった。口をはさむことを諦めた託生が黙ったまま見守っていると、はたと守村の口が止る。
「あ……、ご、ごめん……、その、つい、……興奮して」
「あ、いえ」
 気まずそうに謝る守村に、託生はぱちぱちと瞬きをして、間抜けな返答を返す。
 焦りにか羞恥にか首まで赤くなった守村は、くるりと踵を返した。
「じゃ、い、行こうか、桐ノ院先生が待ってる」
 託生は首を傾げつつ、更に速足になった守村のあとを急いで追い掛けた。




 切なくも美しいピヤノの調べが壁際の蓄音機から聞こえてくる。
 初めて訪れた桐ノ院の私室は、素晴らしく豪奢な部屋だった。豪奢ではあるが、決して下品に陥ってはいない。それぞれの調度は高価なものなのだろうが、配置や兼ね合いまでも計算された落ち着きのある佇まいは、そこに住む人間の生来の高貴さを窺わせるような印象だった。
 桐ノ院の実家は銀行家だと聞くが、そもそも元は公家の血筋であるらしい。いずれにしても託生には遠い世界の話で、桐ノ院もまた遠い存在であるとしか感じられなかった。
 桐ノ院は二人が荷物を置くようにと意匠が凝らされた小卓子の上を示した。守村は礼を言って自分のヴィオロンの行李をそこに置き、気後れがしてぼんやり佇んでいた託生を促した。守村の落ち着いている様子を見ると、この部屋を訪れたのは、どうやら初めてのことではないらしい。守村と桐ノ院とは同僚なのだから、当然と言えば当然のことなのかもしれない。
 託生も守村に倣い、おそるおそる自分の行李を守村の行李の隣りに置いた。自分の粗末な行李などを置いては申し訳ないような美しい卓子だと託生は思ったが、そもそもその行李の中身が、その卓子はもとよりこの部屋の調度全てを合わせたよりも高価なものであるということは、頭の中から吹き飛んでいる。
 更に促されるままに天鵞絨びろうど張りの長椅子に守村と並んで腰を下ろすと、桐ノ院が手づから紅茶を淹れてくれた。
 恐縮して茶碗を受け取ると、馥郁ふくいくたる薫りが鼻腔をくすぐる。一口口に含むと穏やかなウヴァの風味に少し心が落ち着き、託生はほっと息をついた。
 改めて周囲を見渡しつつ、やっと落ち着いて聴けるようになったピヤノの音に、耳を傾ける。
「あの、素敵な曲ですね」
 思い切って話しかけると、桐ノ院は無表情に頷きながらも、丁寧に解説してくれる。
「ラフマニノフのピヤノ協奏曲第三番です。これはラフマニノフ本人と、紐育ニュウヨオクの楽団との演奏の録音です」
「ラフマニノフ……、佐智く……あ、いえ、井上君が練習していました。この曲ではありませんでしたが」
 桐ノ院はまた頷いて、少し考えるようにしながら話し出した。
「井上君は最近、近現代の作曲家に興味を抱いているようですね……守村先生?」
 突然話題を振られた守村は、茶器を取り落としそうになったらしかった。
「えっ……ええ、そ、そう、先日はサティなども弾いていましたね」
 守村の不可解な様子にも何も言わずに微笑むと、桐ノ院は再び託生に向き直った。
「このラフマニノフの第三番も大変難しい曲ですが、井上君ならば弾きこなせるかも知れません。彼ならばいずれ名のある楽団と協奏曲で共演することもあるかもしれませんね。その際には是非聴いてみたいものです。そして僕がその楽団を振ることが出来れば、なお素晴らしい」
 託生は本心から頷いて、同意を示した。自分の親友がこの著名な指揮者にこのように賞賛されているということが我が事のように嬉しく、思わず頬がゆるむ。
 と同時に、いつも冷静に見える桐ノ院が、音楽のこととなると熱心な様子で語り出したことに、好感を持った。
 これまで桐ノ院とは個人的には親しく会話するような機会はなかったのだが、貴族的な風貌と、ある種尊大にも見える態度から、何とはなしに近づきがたい印象を持っていたのだった。よく知りもしないで苦手意識を持ってしまっていたことを、託生はこっそり反省した。
 尤も、このように打ち解けた態度で微笑んだりする桐ノ院が滅多に見られるものではないということを、託生はまだ知らない。
 ラフマニノフの話題をきっかけとして、桐ノ院は色々と託生に話を向けてくれた。桐ノ院は守村を誘いに来たように見えたのだから、おまけの自分がこうしてもてなしてもらうことは申し訳ないように思えたのだが、桐ノ院は守村との練習ルッソンの様子などを楽しそうに聴いては、熱心に質問をしてくる。桐ノ院に問われるままに現在取り組み中の曲のこと、そして今後弾いてみたい曲のことなどを話していると、次第に守村も楽しそうに話に加わりだした。
 窓際の置時計がチン、と音をたてて時を廻ったことを伝え、託生はふと顔をあげた。級友と写譜についての打ち合わせを約束していることを思い出したのだ。二人との会話の楽しさに、ついつい時間を過ごしてしまったようだ。打ち合わせは夕餐の後にという予定だが、今日は託生に譜面を準備しておく当番が廻ってきているのだった。
「すみません、僕は用事があるのでそろそろ失礼します」
 丁寧に頭を下げた託生に、守村も時計を振り返り腰を浮かしかける。
「あ、じゃあ僕もそろそろ」
「守村先生はまだ宜しいでしょう? 少しご相談したいこともあります」
 桐ノ院はさらりと守村を引き止めると、既に立ち上がっていた託生を見送るために席を立った。
「今日は僕までお招きいただいて、ありがとうございました、桐ノ院先生」
「また訪ねていらっしゃい、葉山君。何時でも歓迎します」
 改めて礼を述べた託生に、桐ノ院は莞爾にっこり微笑んでそう言った。





 桐ノ院の部屋を辞して職員宿舎の階段をひとり降りながら、託生はふと佐智と二人で練習中の曲について思い出した。
 手に入れたばかりのラヴェルの新曲はヴィオロンとピヤノ・リュテアルのための難曲で、流石の佐智にも不明な点がいくつかあるらしい。だが佐智によれば、桐ノ院ならばラヴェル自身による初演を聴いている可能性もあり、何らかの指導が望めるのではないかとのことだった。それならば桐ノ院に指導を請おうと言った託生に、佐智は「守村先生に頼んだ方が、より確実だ」と言って、守村の弟子である託生にその任を無理矢理押し付けたのだった。
 託生には佐智の意図は良く判らなかったのだが、いずれにしても、守村と桐ノ院とが揃っている今の機会に願い出るのは、一石二鳥なのではないかと思えた。
 どうやら二人は自分が退出してから仕事の話に入る様子であったし、邪魔を入れるのは失礼かもしれない。だが、直ぐにまた戻ってくればいいだろうと考えて踵を返し、再度階段を昇り始めた。
 桐ノ院の居室の前まで来ると、ひそやかな話し声が聞こえてくる。どうやら、扉がしっかりと閉まっては居ないようだった。ノックを躊躇っていると、守村らしき声が少し大きくなって聞こえてきた。
「だからっ、どうしてそういうお話になるんですか。仕事の話ではないなら、僕は失礼します」
「つれない人だ。判っていらっしゃるでしょうに」
「何を、ですか」
「僕の気持ちを全て知って、判らない振りをされているのでしょう」
「し、知りません。何です、貴方の気持ちって」
「知りたいですか」
「知りたくないです」
 妙な雰囲気に、やはりこのまま帰ろうかと思ったところで、手の甲に接吻するかのような音が響き、実際室内はそうした事態になっているらしかった。
「な。な。……な」
「すみません、つい。君への気持ちが溢れ出てしまいました」
 守村の怒りを滲ませた声と、桐ノ院の悪びれない謝罪が聞こえてくる。
「こ、こうしたことは控えて下さいと、既に何度もお願いしているはずですっ。こ、ここは学校なんですよ!」
「では、一体何処で君を口説けばいいのです」
「ど…………何処でも駄目ですっ。兎に角、金輪際……ちょ、手を離せ、桐ノ院」
 え!?
「悠季、僕は……」
 悠季!?
「も、はな……むっ、むぐ…………ぅ」
 守村の最後の抵抗の後、急に静かになった室内からは、時折苦しげな吐息が洩れるのみとなった。
「………………ん、…………あ、」
「………悠季、僕は……」
 冷たい汗を垂らしながら固唾を飲んで固まっていると、再び守村の激昂が聞こえ出す。
「…………、……、何を、急にっ。何をするんだ」
「君が、あんまりつれないことを言うからです」
「だからって、……こ、こんな………………無理矢理に……」
「ゆ、悠季?」
 守村の声が震え出し、焦った様子で桐ノ院が呼びかけた後、何かをばしっとはたく音が聞こえた。
「うるさいっ、僕にさわるなっ」
「悠季、待ってください。話を……」
「悠季と呼ぶなって言っただろう。もう君と話すことなどないっ」
 足音荒く扉に向かう音が聞こえ、拙いと思ったときには扉が開き、顔に驚愕を張り付かせた守村と鉢合わせてしまった。
「うわっ……あ、は、葉山、君」
「……す、すみません」
 託生は咄嗟に謝罪を口にし、慌てて頭を下げた。
 二人のやり取りを立ち聞きしてしまったこと自体も申し訳ないが、守村の心中を慮ると居た堪れなかった。
「すみません、本当に。た、立ち聞きするつもりは、なかったんです」
「あ、……ああ、き、君のせいじゃないよ葉山君」
 しどろもどろの二人の間に、しれっとした顔で桐ノ院が割り込んだ。
「どうしました、葉山君。忘れ物でもしましたか?」
「その、ええ、と、」
 託生はうろうろと視線を彷徨わせ、しかし正直に話してしまうのが得策だと心に決めると、顔を上げて桐ノ院と守村の顔を交互に見詰めた。
「すみません、大したことではないんですけど、ラヴェルの新曲の……『ツィガーヌ』という曲について、ピヤノがよくわからなくて……桐ノ院先生に、ご指導をお願いしようと、思っていたのを、その、……先程は、忘れていて」
「『ツィガーヌ』ですか。パリでの初演は聴きました。超絶技巧の曲ですが……君と、井上君で」
 桐ノ院の言葉に、自分には荷が勝ちすぎると思われているのだろうかと思い、顔を赤くしながら託生は辛うじて頷きを返した。その託生の様子を見ながら桐ノ院は考えごとをするように目を眇め、やがて口の端を少し上げて口を開いた。
「君と井上君の『ツィガーヌ』ですか……大変に面白そうだ。ヴィオロンの方は、守村先生が見て下さるはずですよ。ねえ、守村先生」
「え……、」
「『ツィガーヌ』なら高嶺と合わせてらしたでしょう。あの共演は、悔しいが見事でした。葉山君に指導して差し上げることは可能ですよね?」
「……あ、ああ。それは勿論、僕に出来る事があれば」
「ピヤノの方は、僕も研究して井上君を助けましょう。そうだ、どうです守村先生、僕等二人でも『ツィガーヌ』を弾きませんか」
「は、」
「僕がピヤノを演奏します」
 流石は桐ノ院先生、ピヤノまで堪能だとは。
 口を挟めない状態の託生は、心の中だけで感心した。
「だ、だって、僕はともかく……君、い、忙しいんだろう。帝都楽団の仕事だってあるし、ベルリンの楽団の来日公演でも、客演をするって言うじゃあないか」
 桐ノ院先生、そんなにすごい人だったのか。
 託生は再び心の中で呟いた。
「今の僕は祠堂学院の音楽教諭です。生徒の指導のために割く時間がないなどと、どう言い訳しても許されることではありません」
 託生は最早心の中でも突っ込めずに、堂々と言い放つ桐ノ院を唖然として見守った。やがて戸惑うばかりだった守村の表情が次第に期待と喜びに満ちたものになり、眸がきらきらと輝き出す。桐ノ院は満足そうに微笑むと、更に大胆な言葉を続ける。
「それに、あの曲は最近管弦楽版も作曲されたそうですよ。帝響で演奏する際には、君に独奏を頼みたい。僕との合奏は、その予行と考えてください」
「えっ、桐ノ院、勝手に決めるなっ……」
 桐ノ院は異議を唱える守村の前に体を割って入らせ、託生に無表情に告げた。
「葉山君、練習ルッソンの予定についてはまた改めて相談しましょう。それから」
「は、はい」
 つい背筋を正して頷いた託生に莞爾にっこりと微笑むと、桐ノ院は声を落として囁いた。
「今ここで見たこと聞いたことは、内密に。僕は人に何を言われようと構わないのですが……君の『先生』のために、ね」
「は、はい。誰にも言いません」
 託生は何度も頷いて、機械仕掛けのような動きで頭を下げると、再度桐ノ院の私室を辞した。





 職員宿舎を出て銀杏並木の下を寮へと戻りながら、託生はいまだ高鳴る胸に手をあててほっと息をついた。
 正直、驚いた。
 守村と桐ノ院が恋愛関係にある――守村の様子からすると、正確には桐ノ院の片恋という段階らしかったが――ことにも、無論驚いた。だが、いつも鉄面皮の桐ノ院が守村にはあのような甘い声音と笑顔で語りかけるということ、そしていつも柔和で優しい守村が桐ノ院に対してはあのように激昂しもするということに、何よりも驚いた。
 何となく、守村はいつか桐ノ院の気持ちを受け入れるのではないか、という気がした。
 いや、よしや桐ノ院の片恋に終わるにせよ、あの二人は良き一対の相手として生涯を共に出来るだろうという予感があった。
 桐ノ院が言っていたラヴェルでの共演、本当にあるのだろうか。
 判らないが、少なくとも桐ノ院は本気であったように思えた。そして桐ノ院が本気で実行すれば、守村は必ずやそれに応じることであろう。桐ノ院の提案に戸惑いつつも目を輝かせていた表情や、そして桐ノ院の第五番にあれだけ心酔していた様子を考え合わせれば、守村は少なくとも桐ノ院の音楽的才能には心底惚れ込んでいるのに違いないと思われた。
 あの二人の『ツィガーヌ』なら、是非聴いて見たい。いや、『ツィガーヌ』でなくても二人の協奏曲を――きっと、誰しも心を動かされずにはいられないような、そんな演奏を聴かせてくれる気がする。
 託生は我知らず微笑んだ。
 守村と桐ノ院なら、お似合いなのに。
 同性同士、家柄の差等という枷はあるが、豊かな音楽的才能を持ったあの二人は、生涯の伴侶として共に歩んでいけることだろう。たとえ世間的には認められなくとも、お互いがお互いを必要として高めあっていける、そんな一対にきっとなれる。
 ――――羨ましい。
 ふとその言葉を思い浮かべて、急いで打ち消す。
 あの二人と自分のこととを比べて羨むなど、お門違いと言うものだ。

 守村と桐ノ院の間には、音楽という繋がりがある。
 それがあの二人の絆になってゆくのだろう。
 ――ギイと自分とでは、友人としてさえあまりに不釣合いだけれど。












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 一応…初フジミ…、です(笑。わはは。
 フジミは悠季がまだなびいていない頃が一番好きです。ゲイはイヤ、だけど桐ノ院の音楽にはメロメロ、という悠季がイイのです。

 バイオリンなど音楽関連の描写は果てしなく適当です。時代に関しては昭和初年頃の設定ですが、これも正確ではないかもしれません。すみません。

 一応、「一」としています。続くかもしれません。



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