恋は桃色
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*『機械仕掛けのエア』前書をご覧下さい。












 麻生さんと相談した結果、博士への報告はしないことにした。
 普通の人にもあるだろうような、忘れっぽい状態、が、偶然続いただけ、なのかもしれないし、ギイがいうように、たんにぼくがわすれっぽい個体である、ということなのかもしれないし。なにしろ、検査結果にも異常は見られなかったし。だから、事を大きくするよりも、しばらくは気にせずに生活して様子を見るのがいいと思う。麻生さんはそう言って、ぼくをはげますように笑ってくれた。
 でも、自分が記憶障害かもしれない、ということを気にしないで生活する、というのは案外に難しい。
 いつも自分が何かを忘れてないか、忘れたことも忘れているんじゃないかと、どうしても気になってしまう。それに、覚えているかどうかを確認するために、起きたことをことさらに反芻してしまうのだ。これでは、普通に生活している、とは言いがたい状態だと思う。
 ぼくとしては、本当はメモをとるなりなんなり、してみたい。何かを忘れないために、ではなく、忘れてしまったことに気付くために。でもそうすると、ますます普通の状態、から遠ざかってしまうような気もする。だから、とりあえず今は、何も対策はしていない。
 麻生さんは、それこそ普段通りで、ぼくの記憶を確認するようなことさえしなかった。でも、会話の中などで、おかしいと思ったことをチェックしてくれているようで、時折大丈夫そうだね、なんて言葉を、こっそりかけてくれる。
 そんなふうにじりじりと日を過ごしながら、真綿ですこしずつ周りを囲まれていくような状態が、それからしばらくつづいた。



 その日は珍しく、夕食が済んでも博士がリビングでくつろいでいたので、麻生さんとぼくとでお茶を淹れた。日本茶に、お茶請けには麻生さんが柿をむいてくれた。のだけれど、実はぼくは柿が苦手なので、手を出さずにいたら、麻生さんに訝しまれてしまった。
「託生くん、柿、食べないのかい?」
「あ……、その」
 不思議そうに聞く麻生さんに、ぼくが返事をためらっていると、博士がこちらを見ずに呟いた。
「やっぱり柿は苦手なんだろう」
「博士……」
「託生はちいさい頃に、柿の木から落ちたことがあるから」
 誰に話すでもなく、そして「託生」がぼくともぼくではないともつかないような、言い回しで。
 博士はしばしば、こういう言い方をする。たぶん、ぼくが『葉山託生』の続きであると思いたいけれど、『葉山託生』と同じだとは認めたくないのだろうと思う。矛盾しているけれど、その気持ちはよくわかる。ぼくが『葉山託生』ほど優秀ではない、という理由だけからではない。単純に、いくら博士がバイオロイドの開発者だとはいっても、バイオロイドが自分の弟だなんて、認めがたいことだろうと思うからだ。
 麻生さんは声をたてて笑い、後をつづけた。
「それで柿が苦手になっちゃったんですよね。でも博士、あんまりそのネタで託生くんをいじめては、気の毒ですよ。ね、託生くん」
「え?」
「おとといだっけ、それで託生くんが苦手を克服したいって言ってたから、今日はちょっと高級な柿にしてみたんだけど」
「……え? ……そうでしたっけ」
 そんな話、そんな場面、あっただろうか。
 ぼくがくびをかしげていると、博士は眉根を寄せてこちらを見た。
「覚えていないのか? 実は柿の木に登った猫を助けようとしていたんだと、私はその時初めてお前から聞いたんだ」
 それも、初耳だ。おとといの出来事を忘れているというのは、ぼくの物忘れだけれど、「ちいさい頃」にあったことは、『葉山託生』の記憶だ。ぼくの中に植えつけられた、彼の記憶。でも、今はどちらも記憶にない――思い出せない。博士と麻生さんがああいっている以上、どちらも確実にぼくに起きた出来事なのに。
 胸の奥がすうっと冷えていく。ぼくは返事もできずに黙りこんでしまい、博士も麻生さんも口をつぐんでしまった。
「……忘れた、のか?」
「……そう、みたいです」
「おとといのやりとりを? それとも、柿の木に登ったことを?」
「両方、覚えてません」
 はやりだした鼓動に、胸に手をやりながらおろおろと答えを返す。そんなぼくの様子に、博士は息をついて、厳しい声を出した。
「もしかしてとは思うが、こういうことが以前にもあったのか?」
「博士」
 そろり、と目を上げると、博士は厳しい顔でぼくをじっと見つめていた。
「お前の様子を見ていると、これはただの物忘れ、というふうには思えない理由があるんだろう? こういうことは、今日が初めてではないんだな?」
 ぼくとは違って聡い博士は、どうやらすぐにそのことに気づいてしまったらしい。するどい洞察力をもっている博士には、これ以上嘘はつけないし、もうごまかしても無駄だろうと思い、ぼくは正直に頷いた。
「先週くらいから、ありました。ときどき」
「なぜ、私に報告しなかったんだ」
「あ、あの……、すみません……」
 博士はいらいらと机をペンでつついてぼくの答えを待っている。ぼくが答えを迷っていると、麻生さんが一歩こちらに踏み出しつつ、片手をあげた。
「申し訳ありません、博士。俺が託生くんに、報告をとめたんです」
「麻生さん、あなたは……」
 博士はいらいらとした表情のまま、麻生さんをにらみつけた。
「あなたが知っていて、このプロジェクトの責任者である私が知らなかった情報があった、ということですね」
「状況から見て、博士に余計な心配をかける前に、様子を見るべきだと判断したんです」
 麻生さんは真剣な瞳でそう博士に言い募り、博士も眉間にしわを寄せながらも、黙って彼の言葉の続きを待っている。
「博士がいらっしゃらなかったので、まずは俺がと思って、一応託生くんの記憶処理については検査をしたんです。でも、異常は見られなかった」
「それで、様子を見ていた、と」
「はい」
「……判断ミス、でしたね。だが、それも今更です」
 博士は大きく溜め息をつくと立ち上がり、顔をあげてまっすぐ麻生さんを見た。
「『蘇生』する前の記憶と後の記憶と、どちらが失われているのかは確認しているんですか?」
「あ」
 息をのみ、麻生さんは言葉を失ってしまったようだった。ややあって、博士が大きくため息をつくと、麻生さんは頭を下げて言った。
「すみません、その点については失念していました」
「あなたは託生がバイオロイドだということを忘れがちなように思えますね……まあ、今更これまでのことを言ってもはじまりません。再検査です。それから、前回行ったという検査のログはありますか?」
「はい」
「すぐに準備を」
 急ぎ足で出て行く麻生さんに続いて、博士もリビングを出て行きかけて、戸口を出るところでやっとぼくを振り返る。
「託生、お前は第二検査室で準備を」
「……はい、博士」



 けれど、今回の検査でも、やっぱり異常は見当たらなかったのだ。













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