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[ 雑感/日常 ]

映画『ブラック・スワン』

 きのうは蜂郎さんマリィさんといっしょに映画を観にいちきましたv例によって画像はサントラで代替。

 バレエカンパニーのソリストのニナは、白鳥の繊細で丁寧な踊りは得意だけれど黒鳥の激しさは持てないタイプの、いい子ちゃんな踊り手。スワンレイクの主役をどうしてもとりたくて監督に直訴したところ、ニナの激しい一面を垣間見た監督は彼女を主役に抜擢するのだけれど、ニナは黒鳥がうまく踊れず、過保護な母や、自分の代役で奔放なバレリーナのリリーの存在もあって、次第に精神に異常をきたしていって、云々。

 いい子ちゃんプリマがオディールが踊れずに悩む、という設定は山岸凉子の『アラベスク』のアーシャのエピソードとか『黒鳥―ブラック・スワン』とかにもあるようにわりとオーソドックスなものだし、お話の筋自体もある意味ベタでひねりはない。その意味で、分かりやすくて面白かったし、良い意味で大衆的になっているのかなという気もする。
 現実と幻覚の混交もうまかった。幻覚の表現も、特に鳥肌とかキモかったし怖かったけどよかった(鏡は多用しすぎな気もしたけど。いくつかのわからなさもうまく機能していて心地いい。
 ナタリー・ポートマンはうまかった。踊りに関しては、ダブルはどこでつかってんのかわかんないくらいだったけど、しかし上半身だけ写す場面が多くて足元の画が異様に少なくかったなあ、とも思った。

 しかし、踊り手についてではなくって、バレエそのものにかんする表現に関しては不満はあった。
 作中のスワンレイクは古典の新解釈ということだったけど、踊りにも内容にもあまり斬新さはなかった気がした。まあ、劇中劇でそんなに斬新な解釈を期待するのはお門違いなのかもしれないけど。
 それはいいとして、監督がニナに性的な官能を体験して表現しろ、とかゆってるこの古臭さ、下品さは、一体何を考えているのか…これはあえての大衆化なのかどうか…。こういうアホな言説って、21世紀の今でもまかり通ってしまうんだろうか?ローザンヌのベッシー先生だったら「なんということでしょう、彼女には品性のかけらもありません。この振付師も一体何を考えているのでしょうか」とか酷評するんじゃなかろうか(笑

 まあそれはおいといて、ブラックスワンの話に戻ると、だからニナが監督の思惑を別の形(狂気)で乗り越えその先を見せる、という話なのだとしたら(つまり、この作品=テクストの志向が「官能的なブラックスワン」という価値を乗り越えようとするものなのだとしたら)それはとてもあたし好みな筋だなあと思うんだけれど、そうとも言えないような表現があった(自分を◯すというのも監督の言葉だったし、あとあのキスは不要だった気がする)ので、ちょっとそのあたりの評価はしづらいなあと思う。

 しかしともあれ、全体としては、単純に面白かった、という印象なのです。

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