限界なんて、
こんなもんじゃない…って、ほんとかよ!
なんか大変なのですよ。南の島に行ってのんびりしたい!
サイード関連の本を読んでいるのだが、世俗世界性という用語ははじめてきいた、というか、訳し方が特殊なのかなあ。
それはさておき、その考え方がなんかうまく納得できないんだが。
テクストなり批評家なりは、どうがんばっても世俗世界ときってもきれない関係で、固有の世俗世界「性」にしばられている、という指摘の意味自体はわかる。でも、その世俗世界性が批評の強度を担保する、というのはほんとうですか。
だって、たとえばやはりサイードが指摘したように、フーコーが帝国主義を看過しているということを批判する場合、フーコーの限界はイコール彼の世俗世界性、端的にいえば西欧人であることに原因を求めてしまっていいことになるんじゃないですか?それって、なんかちがくないのかなあ。
身近な問題にひきつけて考えると、同性愛について語る際に、ゲイセクシャルの言説は、無条件であたしの言説よりも強度を持ちうることになるんだろうか?
まあなんか、あたしがまだよく理解できてないのかもしれない。きちんと原典にあたらないとダメだよね。
しかし今のあたしのとぼしい理解では、こんなことに…。
「ところで君達、『良い批評』というものはどうすれば作れるか知っているかね。『世俗世界性』だよ。『世俗世界性』こそが批評に命を吹き込むエネルギーであり、エンターテイメントなのさ。『批評』とは主張や批判で書かれていると思われがちだが実は違う!生まれた場所や育った環境、同時代状況にめぐまれてこそおもしろくなるんだ!たとえば西欧人が各論kwskといって批判するだけの、この『オリエンタリズム』!どういう風にわたしが生きてきて、どのような環境にとりかこまれ、何を見て、何にさらされているのか!」
「うええ!個人的だ!」
「個人的!?ど素人がこの『エドワード・サイード』に意見するのかねッ!」
「い、いえ、意見だなんてそんな。すみません。」
「味もみておこう」
ペチャペチャ。
…バカですみません。
なんか勘違いしてたらご教示いただけるとすごくうれしいです…。