文楽『摂州合邦辻』『妹背山女庭訓』
文楽にいちきました。昼の第二部から夜まで見ていたので、…ものすごい疲れた(笑。でも面白かった。
『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』はしんとく丸系の説話が元になっている。玉手御前がアウトオブベースだった。個人的には玉手が俊徳丸に惚れていたのかどうか、はどうでもいいのだが、でも(玉手の言説を信じるなら)惚れたフリをしていた理由は、結局わからないと思うのだけれど。なのにあの論理を結局は受け入れてしまう周囲のひとびとが理解出来ないというか…。なんか、命をかければ言説が正当化されちゃうという怖さがあるような。浄瑠璃にはよくあることなのだが。
しんとく丸といえばところで、あたしは折口信夫の言語感覚がすごくすきなのです。いろいろな名前があるなかで、身毒丸という字面をわざわざ選ぶあたりすごく共感。
そしてもうひとつところで、三島『らい王のテラス』は俊徳丸よりもベン・ハーなのか?とふと思った。なんかどれも展開をしっかり覚えてないので比較できないぞ。
『妹背山女庭訓(いもせやまおんなていきん)』はMさんと一緒に見た。入鹿征伐話…なのだが、三輪や橘という女たちが死ぬ意味は、全然なかったのでは…それでいてタイトルが「女庭訓」だし…何が主張したいのかよくわからないというか。
気になったこととしては、『妹背山』は「天子」「天皇」という言葉が出てくるのが面白いんではなかろうか。こういう語彙が出てくるのはやっぱり時代設定のせいだろうし、他の浄瑠璃にはあんまり出てこない概念なんじゃないかなあ。橘が淡海に兄の入鹿を裏切れと告げられて、それはできないお、とか言いながら結局でもそれって天子様の御ためにもなるよね!とか言っちゃうところがスゴイ。自分の想い人のために兄を裏切ることを、「天子」という抽象的な上位概念でよろうことで肯定しちゃうという論理は一体何なんだというか、作者はここになんらかの批判精神を織り込んでいる…ってことは、多分ないんだろうなあ(笑
終演後はMさんと、しかし今の我々の感覚でこういう物語を批判しても意味ないよなあ、とか同時代観衆はどう受け取っていたのかねえ、という以前にもした話をまた蒸し返しつつ、特に『妹背山』は飛鳥時代の設定なので、そのへんどうなのよ、とかいろいろ話していた。あの明らかに江戸な風俗で飛鳥時代の話をつくることに違和感はなかったのかなあ、とかだとしたら観衆の持ってる飛鳥知識はどんな感じだったのかなあとか気になる。
そしてしかし、もしかして我々のこういう楽しみ方も実はちょっと普通ではないんじゃないかとか、では現代の観衆は文楽をどのように受容しているのかとか、いろいろ考えた。Mさんと話しているとクロック周波数がもりもり上がる気がして楽しい(気がするだけかもしれないが。