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[ 雑感/日常 ]

電柱殿下は雪兎の夢を見るか。

 このあいだわたしが中上健次の路地シリーズをキャラ萌えで読んでたことに気づいたこと(ちなみに半蔵が萌えます)とか、某さんが萌えをはじめて体験した話をきいたこととかあって、対象に萌えちゃうと研究できないんではないかということについて考えるともなしに考えていたのだが、その件について補助線がひけたような気がする。

 その補助線が電柱殿下ってのが笑えるんだけどさ。
 以前にも書いたことだが、わたしは電柱殿下の雪中ご乱心(「形象と音楽と」)は結構平気なのだが、ティレニア海横断ご乱心(「幻想のシャコンヌ」)は許せない、と思っている。で、その差異の原因は音楽上のご乱心なのか、それとも恋愛上のご乱心なのかというところにあると考えていたのだけれど、問題はもっと違うところにあるんではなかろうか。

 というのもだ、遠泳ご乱心というか、イタリア関係のご乱心は、その後の展開を導くためだけのものに思えるのだ。遠泳ご乱心の場合、悠季が視点人物である以上、悠季がコモだっけ?に移動した後は、どうしても圭が物語にからみづらくなっちゃうわけで。だから、圭はあんな無茶をして悠季を追いかけることになってしまったんではなかろうか。
 まあそんなふうに言っちゃうと結局、桐ノ院圭があまりに幼いベベである、って設定自体が悠季の物語に圭をからめるためだけの設定に見えてきてしまうので、個人的にはイタリア留学は圭なしの方がよかったんじゃと思うんだけど。たまに会いに来るくらいで、それでも幼すぎないベベさ(たとえば、赤い日記帳をつけて、エミリオにベベって呼ばれる程度のこと)は演出は可能だったと思うし。そしてそのほうが読者の圭萌えは加速した気がするんだが。

 一方、雪中ご乱心の方は、その前段の守村家での事件とのつながりこそ唐突だったものの、圭の悩みについては一応伏線は張られていたし、その後の「指揮者の本分」「その男、指揮者につき…」(ところでこのタイトルいつ見ても笑ってしまうんだがギャグなのかなあ)にも繋がる話で、こっちはあまり違和感がない。
 勿論、「ブザンソンにて」のベートーベン第七は何だったのよ~という感じだし、それは悠季も問うているのに、圭の「覚えていません」でワヤになっているというのがワケワカランといえばワケワカランので、うまくつながっていないといえばそうなのだけど。
 問題は、雪中ご乱心があってもなくてもその後の展開には支障がないってことで、だから殿下が展開に利用されてるて印象は、遠泳ご乱心よりも薄い。

 こうしたキャラクタの設定(広い意味での)を物語展開のために無視しちゃうってやり方には、わたしはかなり拒否反応が強くて、『からくりサーカス』も結局読むのをやめてしまったわけなのだけど、でも、物語の上での必然性とか言っちゃうと明治期みたいな批評になっちゃうよね。きちんとテクスト内のキャラの描かれ方から論じれば、ちゃんとした批評になるかな?でもその結果が規範批評では、あんまりやる気が起こらないけど(笑。
 結局何が言いたいのかっていうと、萌えからはじまる研究もあるんではないかということで(笑…カタチになんなきゃ意味ない気もするなあ。

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