sideM:
文化祭実行委員会の開かれている教室へ向かいながら、俺は少しため息をついた。
これから風紀委員長と実行委員会の担当者とで警備に関しての打ち合わせがあるそうで、俺は生徒会役員としての同席を頼まれている。本来なら他の役員でも構わないはずの役目だが、今期の役員はなぜか部活や他委員などとの掛け持ちが多く、そのしわ寄せが俺に回って来ている状態なのだ。
そんなこんなでただでさえ忙しいというのに、文化祭が近づくに従って仕事自体がどんどん増えてきている。文化祭後には役員改選もあり、それも忙しさの一因ではあるのだが、ともかくこの忙しさもそれまでのことだ。
教室の前について、そう言えば葉山が居るのかな、と思い出した。何だってあの葉山は、二年も連続でこんな面倒を引き受けているんだか。
後ろの扉からなるべく音をたてないように静かに入室し、部屋全体を見渡してみる。教室前方の隅に立っている実行委員長がこちらを見たのを確認し、軽く頷いて挨拶する。前方中央では、赤池が冊子を片手に持って喋っている。ぐるりと教室を眺め渡してみても、机に座っている実行委員の列に葉山の頭を見つけることはできなかった。居ないのか? 何をしているんだろう。
赤池が話し収めたところで、実行委員長が進み出た。
「警備担当はこの後風紀委員長と詳しい打ち合わせをするから、残ってな。それ以外は、分掌の作業に戻って」
ばらばらと立ち上がりかける人波に、委員長は確認の声をかける。
「警備、三年の尾上だよな? えっと、あと二年は……東?」
ちらりと赤池を見ると、向こうの方でも俺へ一瞬視線を寄越したようだった。二年生のまとまりの間から、手が上がる。
「委員長、東、図書当番で遅れるって言ってました」
「そうか、じゃあ仕方な……」
「あれ?」
ささやかな疑義に振り返ると、部屋中の注目を集めてしまったその生徒は少し戸惑った様子だった。あれは一年だな。委員長がそちらへ声を掛ける。
「どうした?」
「あ、いえ……たいしたことじゃないんです」
少し笑ってそう答えたその一年は、何気ない調子で後を続けた。
「僕のルームメイトも今日午後図書当番だったみたいなんですけど、僕がここに来る前には、もう終わったって部屋に戻っていたから。ちょっとヘンだなって思っただけです」
俺は今度こそ赤池と視線を交わした。
厳しい、しかし何かを恐れるかのような目をした赤池に、どくんと心臓が跳ねた。
東の大きな身体が閉架書庫の奥にふっとぶのを、俺はまるでスローモーションのようだなと思いながら眺めていた。利き腕を思い切り振りかぶった赤池を制止する間もなかったし、あっても多分しなかっただろうと思う。
床に叩きつけられた東が少し呻いた後は、静まりかえった書庫に赤池の荒い息だけが妙に大きく聞こえる。
やがてのろのろと身体を起こした東の胸座を掴み、赤池が無理矢理引き立てた。気が済まない様子の赤池はまた右腕を振り上げる。
「赤池、殴る前にとりあえずそいつ外に出して。どこへも行かせるなよ」
赤池は俺の一言で我に返り、書庫の隅をちらりと振り返ってから俺に頷いて見せた。
「出るぞ、来い。逃げようなんて考えるなよ」
低い声でそう告げた赤池に大人しく引っ張られるがままの東とすれ違い、俺は書庫の隅へと足を踏み出した。
書架の前に、葉山が書棚に凭れ、身体を抱えるようにして震えていた。
俺達のやりとりにも気づかないのか、さっきから俯いたままで、顔を上げようともしない。
シャツがはだけて覗く肌に、赤い痣が痛々しい。
揉み合った拍子に書架から落下したのだろう、葉山の周囲にはまるで結界のように落ち広がった本が重なっていて、その手前で一旦立ち止まる。
何と声を掛けたものかと逡巡していると、背後から赤池の声がした。
「三洲? 大丈夫……」
「赤池は来るな」
そう返してから首だけで振り返ると、赤池が入口からこちらに心配気な顔を覗かせていた。
俺は葉山に向き直って身体をかがめると、足下の本を何冊か拾って脇に積んだ。しゃがんだまま、葉山の顔を覗き上げるようにして声をかける。
「葉山、」
葉山は何の反応も返さない。
「葉山」
心臓が鼓動をはやめる。
俺はつとめて冷静に、もう一度声をかけた。
「葉山、もう大丈夫だから」
葉山は背を書架に預けたままずるり、と床にへたりこんだ。身体はいまだ震えている。
俺はまた数冊の本を拾い上げて道をつくり、葉山ににじり寄る。葉山はびくりと身体をわななかせた。
「俺だよ、葉山」
俺の言葉が葉山に届くまで、しばらく時間がかかるようだった。
ふらふらとさまよう視線が、俺の上を行ったり来たりを繰り返す。
やがて薄く開かれた唇から、言葉が聞こえた。
「み、す、くん……」
「うん、俺だよ」
ごめんな、崎じゃなくて。らしくないことを考えながら、葉山が落着くのを待った。
「……三洲くん」
ふらりと呼ばれた名前に、思わず手を伸ばすと、葉山はまたびくりと身体を震わせた。
「……だめ、……ごめん、来ないで」
「……うん」
俺は気落ちと焦燥とを悟られないよう、つとめて冷静な声を出した。
しばらくして、葉山は俯いたまま力無く呟いた。
「ごめん…………悪いけど、一人にして」
「わかった。外に居るから。必要なら呼んで。赤池でも俺でも、すぐ来るから」
でもごめんな、崎じゃなくて。
俺は立ち上がり、葉山を振り返り振り返り書庫の出口に向かう。
俺じゃダメなんだ。馬鹿、あいつ何処に居るんだ、何してるんだ。
書庫の扉を開けると、怒りのためにか無表情になった赤池が立っていた。
「どうだ」
ちらりと図書室を覗くと、東は呆然とした様子で床に直に座り込んでおり、逃げる心配はなさそうだった。
「俺じゃダメだ」
俺は小声で赤池に耳打ちした。赤池は小さく頷いて、後を続ける。
「葉山は、その……」
言葉をためらう赤池に、察して答える。
「決定的な事はなかったみたいだ」
少しほっとした様子の赤池に、俺は苛立ちをぶつけた。
「けど、四月の時より悪いぞ」
赤池はすぐに意味を了解して、暗い表情で頷いた。
乱れた衣服、赤い跡、けれど最後まではなされなかったのだろうことは確信が持てた。
俺達の到着が早かったのか、それとも。座り込んだままの東にもう一度目をやる。あんなふうに傷つけるつもりではなかったのかもしれない。
だが、意図はどうあれ東のしたことに変わりはない。
傷つけられたのは身体の表面だけであれ、葉山の心は深く傷ついている。
でなければ、あそこまで俺を拒絶しはしないだろう。だって四月の時には……もう少しはマシだったのだ。
葉山の症状は、たぶん他の何かが原因だ。
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