裏コイモモ
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「今日は出るのか? 入学式だけなんだから、休んでいればいいのに」
「出るよ、もう大丈夫だから」
「そう」
 その朝、とんでもなくけたたましいアラーム音によって眠りを覚まされた三洲は、しかもそれがスヌーズ機能によって五分後に再度鳴らされたので、朝から非常に不機嫌になった。更にその時計の持ち主がブランケットの下からもぞもぞと手だけを伸ばしてスイッチを止める姿にむしょうにイライラさせられたので、自分のベッドをさっさと出ると寝ぎたないそいつのブランケットを勢いよくはぎとってやった。寒い寒い、と零して丸くなった姿に、葉山が寒さに弱いことを知った。だが三洲はまだイライラしていたので、あれだけ煩い音を二度も鳴らしたんだ早く起きろ、と冷たく言い放った。うるさくてごめんね起きられないんだ、とまだ寝ぼけた声で謝罪されて、葉山の寝起きが悪いことを知った。朝から葉山の性質をふたつも知った。そう思うとなんとなく気分が良くなり、三洲のイライラは収まった。面白いので葉山の生態観察日記でもつけよう、と三洲は失礼と変態の丁度中間のような計画を考えた。
 一足先にさっさとバスルームをつかい、三洲は一人で制服に着替えてしまう。続いてバスルームをのんびりとつかった葉山が登校するつもりらしいということを知って、少し驚きながらも深くは追究しなかった。
 寝間着姿でクロゼットの前に立った葉山は、机の前で書類を整理している三洲にくるりと向き直った。
「三洲くん」
「何?」
 三洲も振り返って続きを促せば、葉山はひどく真剣な表情で口をひらいた。
「昨日はありがとう」
「昨日」
「ホットミルク。うれしかった」
「ああ、……はちみつ入りの?」
「うん。甘くてあったかくて、なんだかほっとした」
 微かに微笑んだ葉山に、三洲は少し首を傾げた。
「甘いもの好きなんだ?」
「あ、別にそういうわけじゃないっていうか、普段はあんまり好きじゃない、かも。でも疲れた時とかって、甘いもの欲しくならないかい?」
「ああ、そうかも。俺も疲れたときは、チョコとか……」
 そこまで言って、疲れてなくてもチョコばっかり食ってる、プチビットをバッグに常備のお子様味覚の人間を思い出し、三洲は朝からゲンナリした。
「まあいいや、葉山の役に立ったんなら、よかった」
「ありがとう、いろいろ……その、心配、してくれて。面倒かけちゃって。ごめんね」
 そう言いつつ、先程よりはしっかりと微笑むと、葉山はクロゼットから制服を取りだしはじめた。
 葉山が意外と元気そうであることに三洲は安堵し、同時に少し拍子抜けしもした。当人が着替え始めたのでそちらは放っておいて、机上に折り重なった書類を調べていくつかの山に分けていく。昨日は何も手につかなかったので、今日こそは仕事を始めなければならない。重要なものから順に重ねて山ごとにクリップどめをし終えると、三洲は振り返った。
「そろそろ用意出来た? 朝飯食いに行こう」
「うん、待って。タイが……」
 葉山は空返事をしつつ、再びクロゼットに顔をつっこんでネクタイを探している。捜しだしたタイを首にまわす動作を、三洲はつい見るともなしに見守った。葉山はクロゼットの扉の内側にある鏡を覗き込んでいるので三洲からはその横顔しか見えないのだが、鏡の中の葉山はこちらに顔を向けている。当の葉山がタイに意識を集中しているのをいいことに、三洲は無遠慮に鏡の中の葉山を見詰めた。
 案外に整った顔をしているんだな、とぼんやり思う。葉山というのは特に特徴のある顔立ちではなく、少し目が大きいようにも思えるけれど、というかあれは黒目が大きいのだろうか、ともあれとにかく、美形だとかかわいいだとか形容されるようなタイプではない。目立った特長もないかわりに、印象を悪くしかねないような欠点も見当たらない。ありていに言えば地味な顔なのだが、なぜかひとたび目に留まると気になり出すような、そんな面差しだと三洲は思う。
 ぼんやりそんなことを考えながらだが、案外に白いのだな、とふと思う。その頬の白さに気づくと、つい目が離せなくなった。元々色の白い方だとは思っていたけれど、今までクォーターの崎を隣りに見ていたせいか、然程気にならなかったのだろうか。
 時折まつげが伏せられて影を落す白い頬の濃淡を、三洲は見るともなしに眺めていた。何と言うなら昨夜、あの上を。うつくしい涙がはらはらと流れ落ちていったのだ。
「元気にしてなきゃ、ね」
 ぽつりと独り言のように呟いた葉山の声に、ふと飛んでいた意識を取り戻すと、鏡の中の葉山と目があった。しかし葉山は三洲の視線に気付かぬ様子で、それどころか鏡を見詰めているようでありながら、その実何も見てはいないらしかった。言葉とは裏腹に、その顔は無表情で、やはり先ほどまでの笑顔は作ったものであったのだと思い知らされる。まっすぐに鏡を見詰める眸には何も映ってはおらず、三洲を、いや三洲もふくめた他の誰もを拒絶するかのように感じられて、三洲はとまどう。普段表情が豊かなだけに、こんな無表情な葉山には何と声を掛けたらいいのかも判らなくなってしまう。自分は一体、どうしたらよいのだろう。三洲は自問した。
 どうしたら、葉山は。また昨夜のように泣くのだろうか。
 そして、どうしたら。以前のように笑ってくれるのだろうか。
 葉山には笑っていて欲しいと思う。だが、三洲には何も出来ない。三洲ではだめなのだ。三洲ではなく、他の誰でもなく、あのバカでなければ。葉山を泣かせるのも笑わせるのも、崎義一ただ一人なのか――
 ふと、しくりと胸のあたりが痛んだ。三洲は思わず胸に手をやって、そっと息をついた。思い返せば昨夜もこのあたりがこんなふうに痛んでいたのだ。空腹による胃痛だろうか。何となく身体に力が入らない、いやな感じだ。だがあまり深刻に考えると、悪化しそうな気もする。いずれにしても、たいしたことではないのだろう。三洲は痛みの存在は忘れることにした。







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 について。
 人間の場合、涙というのは様々な要因によって生じるものだということは三洲も勿論知っている。たとえば赤子は体の変調を訴えるために泣く。もう少し大きくなると、もっと様々な欲求だとか痛み・恐怖、その予兆のためでさえ泣く。更に成長すれば、更にいろいろな原因で涙は流れるようになる。三洲が最近の涙の記憶を思い起こそうとすると、それは大抵が二年以上前のものだ。三洲が中学校で所属していたバレー部の最後の大会、僅差での敗北にチームメイトは悔し泣きに泣いた(勿論三洲も少し泣いた)。文化祭の片付けの最中に三洲が振った隣のクラスの女子が、後で階段の陰で嗚咽しているのを偶然見てしまった(殆ど話したこともないのにと不思議に思った)。卒業式の日。離れ離れになることを悲しんで泣いているらしいクラスメイトの女子を見た(でも男子は泣いていなかったし三洲も泣かなかった)。


 つまり涙というものは、次第に感情の記号として受け取られるようになっていくのである。状況によって千差万別な感情、喜び・怒り・悲しみの表徴。年齢とともに涙の意味合いがそのように限定されるようになるにつれて、三洲は涙とはうっとうしいものだと感じるようになった。いい年をした人間が涙を流すには、それなりの心の動きがあったのだろうと身構えてしまうのだ。目にゴミが入って流れている涙にでさえ、それを目にすれば一瞬ドキリとしてしまうということが腹立たしいのである。ウミガメだって産卵の折には涙を流すのだ。他人の涙に殊更理由を捜して、自分まで動揺させられてしまうのはあまり愉快なことではない。
 そんな思いもあってか、高校生になってからは三洲自身は泣いたことがない。そして他人が泣いているのを見る機会もあまりなかった。三洲にしても周囲の人間にしても、感情が高ぶることが減ったわけではないのだろう。ただそれを制御し、表面に現すことがないようにと工夫するようになったのだ。平たく言えば、大人に近づいたということなのだろう。だから最も最近目撃した涙、というと、昨夜の葉山を除けば昨冬のことになる。


 あの冬の日、本来なら一年生である三洲は入試休みだったはずの日、手伝いに駆り出されて監督補助に行った教室でペンケースを落としてしまった受験生がいた。そうした簡単に対応できる小事件は監督補助である学生の仕事なので、教室の背後で待機していた三洲はすぐにそちらへ向かった。足音を立てないように気をつけて歩きながらそちらを注視していると、慌てた様子のその受験生が身をかがめて落ちたペンケースに手を伸ばすのが見えた。落し物は手を挙げて知らせるように、という受験会場ではよくなされる注意も頭から吹き飛んでしまったらしい。
 三洲が面倒に思いながら足をはやめた時彼はちらりと顔をあげ、その拍子に丁度視線の先に臨席の学生の答案を捉えたらしかった。三洲は瞬時に、彼に悪意はないのだろうと思った。自分の失敗に気が動転して頭が真っ白になってしまうというのはよくあることだ。急いで三洲が臨席との間に自分の身体を割って入らせると、彼ははっとしたように三洲を見上げ、その態度に先ほどの行為はやはり無意識のことだったのだろうと納得させられた。


 動揺している彼にしかし何をしてやれるわけでもなく、三洲は簡単に注意をしてペンケースを拾ってやると、あとは所定の位置に戻った。ぼんやりと待機を再開しながら、かっこいい子だったな、と思う。あの受験生がここに入学してきたら、きっと人気者になるだろう。上級生にもかわいがられそうだ。崎みたいな? 崎よりも、素直そうな奴だったけれど。それに、部活でも活躍しそうなタイプに見える。何か運動をやっていそうだ。かなり身長もある……風体からすれば、バスケ部なんてところだろうか。
 監督補助は暇な仕事なので、三洲は先ほどから、目に留まった受験生に対してこんな埒もない空想を続けていた。この教室に居る全くの他人である受験生達のうち、何人かは確実に三洲の後輩になり、もしかしたら生徒会などで深い関わりを持つことになる者さえ居るのかもしれない、そう思うとそれは何だか不思議なことだった。もっとも先ほどの受験生については、あの様子では合格するかどうかは判らない、と三洲は思う。この場限りの、二度と会うことのない赤の他人なのかもしれない。


 そんな風に思っていたのだが、その日のうちに何度か彼を見かけるに及んで、他人に基本無関心な三洲ではあるものの、流石にこれも何かの縁なのだろうかと思った。三度目に見かけた彼は、相楽の前でわんわん泣いていた。三洲はああバカだ、と思った。そしてすぐに、いや子どもなのだ、と思い直した。
 おそらく彼は、結果的にカンニングをしてしまったことを後悔しているか、あるいはその動揺で試験に失敗してそれが悔しいかして、それでこのように臆面もなく泣いているのだろうと、事情を知っている三洲には何となく判る。彼のことは何も知らないが、見た限りでは感情がすぐに表に出る人間なのだろうと三洲には思われた。他人の答案用紙を見てしまった動揺も・焦りも、そのことに関する後悔も・困惑も・悲しみも、すべて手に取るように三洲には判ってしまう。それが三洲にはまだ子どもであることの徴に思え、自分と一才しか変わらないはずのこの受験生が妙に幼く見え、微かな同情と・少しの軽蔑とを覚えた。
 だがいずれにしても、これも何かの縁であることには変わりがない。彼が泣いている理由を知っているのは、あのささやかな罪の瞬間を知っている三洲だけなのだ。それに相楽は本来こんなところでこんなオコサマの面倒を見ているような暇はないはずである。結局三洲は、自分から彼を引き受けることにした。


 しかし相楽に貰った小銭では足りない天ぷらそばを奢ってやるところまでは保たれていた多少の同情心も、まるで欠食児童のように・無心にそばを食べている彼を前に、次第に薄れて行った。彼のその様子は、受験に失敗したことを悲しんでいる人間のようには到底思えなかった。あまつさえ「み、みすって、どんな字を書くんですか?」などと、お前少しは状況を考えろよと怒鳴りつけたくなるような質問を掛けてきた彼に、ああ本当のバカなんだかわいそうにと思いつつ、三洲は混乱した。どうやらやはり彼は、試験での失敗を嘆いているのではないらしい。だったら、先ほどの涙は何だったのだろう。彼が元気を取り戻すに従って三洲はますます混乱し、遡及して彼の涙の理由はどんどん判らなくなっていった。
 何故あの時彼は泣いていたのだろう。


 三洲は結局その後祠堂に入学した真行寺と不本意ながらも親しくなり、彼はやはりあまりに子どもであり、そしてまたどうしようもないバカなのだと知った。真行寺があまりに判りやすいので、だから三洲はついからかいたくなり、また時にはその素直さにしてやられてしまうこともあるのだけれど、でもやはり最初の印象通りの人間だったなと思う。そして、時々あの涙を思い出す。三洲には真行寺のことなら何でも、何を考えていたのか・何を考えているのか・これから何を考えるのかさえも判るのに、あの時の真行寺の涙だけが判らない。だがむしろあれが判らないからこそ、自分は真行寺のことが××になったのだとも思××××××××××××××××
(三洲の中には使用禁止用語が沢山あり、危険思想監視委員会が常に三洲の口から発せられる・頭のなかで使われる単語をチェックしている。使用禁止用語には、全般的な使用が禁止されている言葉と、状況・文脈・対象によっては使用が禁止されている言葉とがある。この場合の××はそれ自体が使用禁止用語というわけではない。真行寺という客体に相応しくないだけのことである)


 葉山は。葉山の涙は本当に判りやすかった。それはもう、判りやすすぎるほどに判りやすかった。原因から・その対象まで、すべてがギイにあるのだと言葉がなくとも誰にでも判る。
 三洲としては葉山の涙は真行寺のそれとつい引き比べてしまうので、高校三年生の・あの時の真行寺よりも二つ以上も年上の葉山に、あるいは真行寺以上のバカだなとの念は覚えつつも、だからこそ三洲にはより痛ましく思われた。あの時人前で泣いていた真行寺の幼さは、実年齢の幼さと・生来の素直さとによるものだったが、葉山のそれは違う。葉山の涙のあの幼さは、三洲の存在を、三洲も含めた総ての外界の存在を無視した無心のものだった。涙を流している間、葉山の世界には葉山自身ただ一人しか居なかった。そしてそこに介入できるのは、もう一人のバカ――葉山をあんなふうに泣かせたあのバカ、しか居ない。だから三洲には触れられなかった。葉山のあの涙を見たのは三洲だけなのに、三洲には何も出来ない。何もしてやることが出来ない。 
 あんなに判りやすいのに、葉山は三洲の前で泣いたのに。三洲には何も出来ない。そのことが矛盾しているように思えて仕方がない。
 三洲は葉山は好き(この客体ならば問題がない)だ。バカでオコサマだが、それでも好きだと思える――その理由はまだよく判らないけれど。
 そして同室である成り行きとはいえあれを見た以上、あれを見たのが三洲だけである以上、たとえ葉山が拒絶しようとも、三洲にはそこに参与する権利があるはずだ――少なくとも三洲はそう思う。
「聴いてんの? アラタさん」
 肩をいらいらと叩かれてふと思考を中断され、三洲は目の前の真行寺の顔を見上げた。
「何? 聴いてなかった」
「だから、もう! 葉山さんのことだってば!」
「ああ、葉山ね」
 三洲は講堂近くの雑木林で、真行寺につかまっていた。
 なぜこんなところで立ち話などさせられているのかと考えるに、どうやら自分は真行寺がここを通ると知っていながら通りかかってしまったらしいので、三洲が悪いのだとしか言えなかった。一面から見れば、三洲は真行寺に会いたかったのだとも言える。
「葉山さんの様子がおかしいのって、ギイ先輩のせいなんじゃないの? ギイ先輩も、絶対ヘンだし。あの二人って、付き合ってるんでしょ?」
「崎と葉山、ねえ」
 そんな気のない返事をしたところで、雑木林の奥の小道を、そのバカな階段長が通りかかるのが見えた。心持ちゆっくりとした足取りで歩きながら、その右手は後を行く人の手をとっており、時折振り返ってはそっと微笑む。手をとられている人も、今朝三洲の前にさらしていた顔とは全く異なる、とても穏やかな表情で微笑んでいた。
 三洲は安堵の息を吐いて、表情を和らげた。そうして初めて真行寺の目をまっすぐに見詰め返し、少し首を傾げてみせる。真行寺はそれまでの勢いをみるみる失い頬を染めて、しかし目は逸らさない。
「アラタ、さん」
「葉山が心配か?」
「そりゃあ、勿論」
 三洲の言葉に、しっかりはっきりと頷いて、真行寺は言葉を捜してとまどった。
「……俺、まだよくわかんないですけど、……葉山さんってなんかいい人っぽいし。早く元気になってほしいし、助けたい」
 ワカンナイという曖昧な語に、いろいろな含みを持たせているのであろう真行寺は、案外に人の心の機微には敏感だ。三洲はその優しさに少し微笑んだ。よし。
「真行寺」
「はい?」
 もう、これでダメ押しだ。
「今夜、暇か」
「はい!?」
「それ、返事のつもりか?」
 そんなだらしのない返事をするように躾た覚えはないよとばかりに冷たい視線をくれてやれば、真行寺はあわてて言い直した。
「ヒマ! ヒマです!」
「消灯後、106だ」
「はい!」
 絶対、行きます! なんて、尻尾があれば思い切り振っているだろう顔で・態度で言われてしまうと、三洲は自然と笑ってしまうのだ。そして、
「無理しなくていいんだからな。暇なら来いよ」
 ついからかいたくなって、言葉が増えた。

   そのさんへ










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