恋は桃色
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 よくある話だが、夢の中でこれは夢だな、と気づくことがたまにある。
 通常夢を見ていると言われる状態においては、主体はそれを夢として認識し得ないし、いかに荒唐無稽な展開が起ころうともそれを疑いはしない。そうした通常では持ち得ない精神状態を持っているということが、夢中の主体と覚醒時の主体との差異を生み出す。
 しかし夢の中、そのような自分の感情さえもままならない状態の中で、ふっと自己の思考が存在するのだということを意識する瞬間がある。そうするとこれは夢だな、と思いながら、それでも荒唐無稽な夢の世界を受け入れることが出来るようになる。意識的に、しかし違和感はなく日常ではあり得ないようなことを受け止めるという、一見相反する反応を同時になすことがなぜ可能なのか、自分のことながら不思議で仕方がない。







「コギト」   







 こんな夢を見た。
 学生ホールの安物のソファに腰を掛けコーヒーを飲んでいる。人気のまばらなホールにはやわらかく物の輪郭に赤みをおくかのような秋の陽が射し込んでおり、見るだに心地よい。葉山託生がソファの角をはさんでオレの斜向かいに座り、なにか暖かそうなものの入った紙コップをその温みをいとおしむかの様に両手で包んでいる。一口飲んで息をつくと、ついつい見守ってしまっていたこちらを見返し、困ったような照れたような表情で、
「そんなに見るなよ」
「なんだよケチ。見たって減るものじゃないだろ」
オレのへらず口に葉山託生は心持ち顎をあげ口を尖らせ、減らないけどね、と後を濁してこちらを軽く睨んでみせた。
「いいから早くそれ確認してよ。この後も約束があるんだろ、ギイ?」
 葉山託生とオレとの間には数枚の印刷物が重ねられており、オレは仕方ないな、という顔で指し示されたそれらを見やって説明を促す。
「えっとね、今日実行委員会で出たのは電力使用と食品の共同購入の件だったんだけど、まず、電力使用申請は細かく機器と使用ワット数の目安まで書かなきゃならないから、あ、これが申請用紙」
 葉山託生はぼくが書くけど一応見ておいて、と付け加えながらレジメの下の用紙をオレに手渡した。
「成る程ね。けど、甘味つくるのに電気機器なんて使うのか?」
「さあ……。あ、クリームの泡立てとかで使う、かも」
「ふうん。ま、章三に話を聞いて、申請を検討するとしましょう」
 小首を傾げて一瞬考え、葉山託生は左手を軽く上げた。
「はい、級長、質問です」
「何ですか、葉山くん」
「スペース内のBGMなどは必要ないでしょうか?」
「良いところに気づきましたね。その件に関しては、クラス内で話し合うことにしましょう」
 ふざける葉山託生に付き合って、瞳を見交わし、笑い合う。
「それから共同購入だけど、食べ物の方はうちで使うような食材がなかったから、全部クラスの方で準備することになると思う」
「缶詰は西野がアテがあるって言ってたよな」
「桃とみかんだよね。個数は章三に任せるとして、ギイ、こっそり桃缶持っていったらだめだよ。桃缶は風邪をひいたときとパフェをつくるときのためにあるんだから」
「何だそれ。オレはそんなことしないぞ」
「でもギイ、桃缶好きだろ。ひとりで一缶、食べちゃったりしたことあるだろ」
「……託生」
「ぼくはなんでも知っているんだよ」
 まじめな顔でうそぶく葉山託生があまりにかわいいので黙っていると、葉山託生は口角をあげてニヤリと、
「うそ。ほんとは章三に聞いたんだ」
笑いながらタネを明かした。オレも笑い返しながらも可愛らしい嘘の報復措置として左手で葉山託生の頬をつまんで遠慮なく引っ張った。「痛いってば、ギイ」言葉とは裏腹に葉山託生はうれしそうに笑いながら、なんとかのがれようとオレの腕に自分の手のひらを重ねて

 そこでこれは夢だなと気づく。
 なぜ自分がこんなにも自然に葉山託生に触れることが出来たのか。夢だからだ。第一葉山託生がオレの目の前で笑っている。喋っている。オレに触れている。というのは現実にはありえない状況、行動、反応だ。
 そう思ってはみるものの、現に目の前の葉山託生はまだくすくす笑っているのだし、自分の頬から引き剥がしたオレの左手にプリントを押し付けようとしているので、そういう夢であるのならばその手をとって引き寄せキスの一つや二つ――と思ったが然ならず、オレはプリントを大人しく受け取るなりじっとその顔を見つめた。葉山託生はちょっと目を見開き、赤くなった。
「もう、だから、ぼくじゃなくて資料を見てよ」
「それで、託生」
「何?」
「飲み物の方は?」
「あ、……うん、委員会の方で買うの、お茶は烏龍茶と紅茶だけになったんだ。甘味処だったら緑茶もあったほうがいいんだよね?」
「だろうな。じゃ、その件も明日のホームルームで話し合うか」
 見詰め合った一瞬は呆気ないほど簡単に流れ、葉山託生はオレの言葉に行動に一つ一つ律儀に反応を返し、オレもそれにいつもそうしているかのように受け答え、やはりこれは夢だと妙に納得した。お互いにわざと時間をかけて打ち合わせを続ける二人があまりにも倖せで遠く感じられ、オレの心はあたたかくそして更に切なくなる。
 触れたい、キスしたい。託生に。確かめたい。
 これはオレの夢なのに、なぜ自分の言動が思い通りにならない? 折角託生がオレの目の前に居るというのに、他愛ない会話は出来ても核心には触れられない。――夢なんて所詮こんなものだよな。

 会議内容の伝達が終わる頃には丁度コーヒーもなくなっており、オレは紙コップを潰しながら立ち上がると周囲を見渡した。人気のまばらな学生ホール。胸がさわぐ。葉山託生は資料を膝に乗せて揃えながら話し続け、
「この後奈良先輩に呼ばれているんだろ? あ、そうだ、野沢くんもギイを探してたよ、昼休みの――」
その先は知らず。オレはごく自然に彼の上に頭をかがめキスをしていた。







* * * * *







 昨日の夜辺りからリアルな夢を見ているようだ。
 託生はこちらに背を向けて机に向かい、明日の持ち物の準備をしているらしい。明日は学力テストがあるだけだというのにやけに時間をかけて。オレは横目でそれを見ながらベッドのふちに腰を掛け、雑誌をめくるフリをしている。託生が『新しい同室者』に慣れてくれるまでに、どれくらいの時間が掛かるだろうか。そして、『新しい恋人』には? ――聴こえないように小さく息をついて、オレは読んでなどいない雑誌のページをまた一枚めくる。一人分の距離、長くは絡まない目線、昨夜以来託生はまだオレの名も呼んではくれない――とはいえ、ここ二十四時間はほぼ間断なくオレが横に居たので呼びかける必要もなかったのだけれど。ささいな発想の転換で我ながら簡単に心が軽くなり、ちょうど二十四時間前からのことをあれこれ思い返していてふとそのことを思い出した。
「託生、傷はどうだ?」
「えっ!」
「ひたいの」
「あ……」
 思い出した、というように思わずひたいに手をやると、託生は顔だけこちらにむけて言葉を継いだ。
「もともと浅かったし、もう平気」
 椅子に坐ったままの託生の横まで行くと心持ち距離を開けて立ち、そのひたいに触れようとする。と、託生の狼狽が伝わってきた。これは夢ではないのだから仕方ない。拒絶には怯まない。ためらいを見せてしまったことでこちらを気遣う託生に向かい、最早無神経なほどに完璧に内心を隠すことのできる笑顔を浮かべてみせ、そのままひたいに軽く触れる。その前髪に指を通して軽く上げ傷跡を見ると、それは薄く線が残っているという程度のもので、昨日の今日でこの状態ならば確かに問題はないだろう。
「大丈夫そうだな」
「うん、平気。というか、忘れてた」
 オレの言葉にほっと息をついた託生へ、机上を覗き込んで奇襲をかける。
「もう済んだ?」
「……え? あ、……うん」
「そっか。じゃ、コーヒーでも飲むか?」
「……うん」
「よし。特別においしく、淹れてやろう」
 先程と同じ種類の笑顔を託生に向けて、今度はオレが託生に背を見せる。
「あ」
「ん? どした?」
 振り返り、笑顔のままで問い返す。託生はなにやら困った顔をしているけれど、でもオレも結構困っているぞ。やがてなぜかやや上目遣いの託生は口を開いた。
「……その、……コーヒー、ブラックじゃ飲めないんだ」
「……」
「……」
 ……不意打ちだ、これは。
 オレは先程迄のとは違う種類の笑顔を浮かべて問い返す。
「砂糖? ミルク? 両方?」
「……ミルク」
 そうか、そうか。
「よし、買いに行くぞ」
「え、わ、わざわざ?」
「そう、わざわざ。コーヒーを淹れてやるって言っただろ? 崎義一に二言はない」
 その手を引いて立ち上がらせて、戸惑うような表情にももう怯まない。
 部屋に戻りコーヒーを淹れる間、託生は横でそれを眺めていた。ミルクを入れたコーヒーのカップを渡そうとすると、申し訳なさそうに軽く首を傾げた。
「ごめんね、手間がかかって」
「いえいえ。オレも昔はカフェオレにしてましたから」
 オレの心からの笑顔もからかいと感じたのか、それとも『昔』という言葉が引っかかったのか、
「……どうせね、子どもですよ」
拗ねた表情でカフェオレを受け取ると、すぐに背を向けられてしまった。オレは笑いを噛み殺しながら自分の分のコーヒーをカップに移す。託生は葉山託生なのだからして、言うことは言うし、譲れないことは譲らないのだ。この一年間で分かっていたことじゃないか。あれこれ考えて、取り繕って、無駄な笑顔を見せる必要なんてないじゃんか。振り返ると託生はベッドのふちに腰を掛け、コーヒーの入ったカップをその温みをいとおしむかの様に両手で包んでいる。一口飲んで顔を上げ、ややぎこちなくはにかむように微笑むと、
「ありがとう、……ギイ」

 昨日の夜からリアルな夢を見ているようなんだ。











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 なんだか無駄に長いものになってしまいました。
 「こんな夢…」は夏目漱石の『夢十夜』ですが、『夢十夜』の引用は覚えているだけで三度目です。好きなんですね。漱石が好きな気持ちの半分は夢十夜で出来ています(笑。
 ギイの一人称はすごく難しいなと思ってたのですが、なのにいろいろはっちゃけすぎたし(桃缶て…)ちょっとへんな文体になってしまいました。こんなのはわたしの想像するギイとは掛け離れているように思いますがまぁこれはこれでいいやと。とりあえず、しばしばなされる教室でキスとかのあの人のありえねーぶっとんだ言動って、なんだろなと…(笑。前段の夢は未来における現実ということで。後段はまたしてもコーヒー。

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せりふ Like
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