恋は桃色
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頃は秋。宵の入り。305号室。





   「静かにしなさい、さもないと・・・」







(窓外から虫の声が聞こえる) 







 ギイは先程から評議委員会用の資料をつくっているらしい。後期から委員長になったので、随分としなければならないことが増えたみたいだ。机上には昨年までの資料がとじこまれたバインダーが山と積まれて、メモをとるペンの音だけが聴こえてくる。
 ぼくはといえば、ギイのベッドに寝転んでクリスティの『アクロイド殺人事件』を読んでいた。なぜ自分のベッドを使わないのかと言うと、机に向かったギイからはぼくのベッドが全く見えないため作業中のギイが淋しがるから……というなさけない理由でだ。だけれども、結局こうして言うなりにここに寝転んでいるぼくというのはこれまたなさけないと、自分でもそう思う。ぼくはうつ伏せていた身体を起こし、ヘッドボードに背凭れた。







 (ペンのはしる音、ちいさな吐息)






 ギイは体勢をかえたぼくをちらりと見て、マメなことに一瞬ふわっと微笑んで、そしてまたすぐに作業に戻っていった。 ……ギイの真剣なまなざしはバインダーと資料とを往復し、その手元を見ずとも手際よく作業が進められているだろうことがわかる。バインダーが披かれては、ぼくの大好きな茶色い虹彩がうつくしい瞳がさっとその上を駆け抜け、すっと瞼がふせられると今度はペンがはしる音が聴こえてくる。アトランダムなその動きは見ていて目に心地よくて、それをぼくはついつい眺めてしま
「託生?」
 ギイがけげんそうな顔をしてぼくの名を呼ぶ。
「なに?」
「どうかしたか?」
「どうもしないよ」
「手持ち無沙汰なんだったら、別にオレに付き合う必要ないぞ」
「そんなことないよ。これ読み終えちゃおうと思ってたから」
 ぼくは即答して、すぐに俯き文庫本に視線を落とす。ギイはしばらくこちらを伺っていたようだけれど、やがてまたペンのはしる音が聴こえてきた。ページをめくりながら目をあげると、そこにあるのは既に仕事に戻った横顔。 ……ちょっと髪が伸びたなぁ、ギイ。最近忙しくて町にも出られないみたいだから、床屋に行く暇もないのかな。少し長めの後髪が項のラインを色どっている様子が、でもとても綺麗だ。ギイの髪は明るい栗色で、光が当たっている部分はまるで透き通ってきらきらと、光のつくる影には色ガラスを通したような淡い陰影がおちて、あまりに綺麗なので触れてみたくなる。顔を動かすたびに前髪がうるさげだけれ
「……何だよ?」
 あ。
「……え? ……うん、まだ終わらないの?」
「まだちょっとかかるな。何か用事でもあったか?」
「ない」
 そっけなさ過ぎたかな。
 案の定、ギイは不審そうな表情でこちらを振り返り、じっとぼくを見つめているらしい。ぼくは気にしないフリでページをめくる。
「託生」
「なに?」
「体調でも悪いのか?」
「なんで? どこも悪くないよ」
「……機嫌が悪い?」
「悪くない。ねぇ、仕事しちゃいなよ」
 ぼくはまた一ページめくる。ギイはなおも何かを言いかけようとしたけれど、片眉を上げただけで諦めたように机に向き直ったようだ。 ……そうして仕事を始めてしまうとすぐに集中できるというのは、まったく羨ましい性質だと思う。じっと書類を眺めている真剣なギイなんて同性のぼくでも思わず見蕩れてしまうほど恰好可い。内なる素晴らしさというのは結局こうして外見にも顕れるんだよなぁ、なんて我が身を振り返ってついついため息をつきたくなってしまう。まぁ、ギイの場合は不真面目な時でも勿論素敵だったりす
「そろそろ消灯だな」
 ぼんやりしていたぼくはそれがギイがぼくに向かって発した言葉だと一瞬気づかず、はっと気づくとこちらを向いていたギイと目が合っていた。
 ギイは何も聞かないで、ふわっと笑うと言った。
「上の電気消していいから、先に寝てろよ。オレはまだあと少しかかるから。」
「そうだね……でも、今半端なとこなんだ」
「ってお前、さっきからそう言うけど……読んでないじゃんか」
 ……。
「読んでるよ」
「……やっぱり何かあったのか? 誰かに何かされたか? 章三にいじめられた? それとも」
「だから、何もないってば」
「だって、さっきから変だぞお前」
「ギイ」
「何だよ……オレには話せないことなのか?」
「……ギイ」
「何だ?」
 訝しげで、少し不安そうな声、揺らぐ瞳、でも知らない、
「……ギイ、うるさい」
 知らないよ、だってどうしたってぼくはギイの質問に答えられないんだから。


 見詰め合う
 ぼくはギイから目が離せない


 もう、さっきからずっと






 ふっと息をつくのが聴こえて、ギイは肩を竦めると立ち上がり、慇懃な笑みを見せて言った。
「それは失礼しました。お邪魔なようだから、席を外そうか」
 うっ。
 ……先ほど来の八つ当たりが居たたまれなくなってつい視線を外してしまったぼくは、手の中の読んでも居ない文庫本に目をやった。それでも、言えないものは言えなくて――
「嘘だよ」
 ギイのやさしい声は、それはあまりにやさしかったので、ぼくのいたたまれなさがそう感じさせるのか、それともギイがそう意図したのか、判らないけれど……とにかくそのやさしい言葉が耳に届いてさえ顔を上げられないぼくにギイはゆっくり近づくと、ベッドに腰掛けて、顔を屈めて、
 ――キス。

  (ごめんね
  (ありがとう

 心の中での謝罪は届いたものかどうか、そっと伏せていた眼を上げると、ギイはいたずらっぽくも少し嬉しそうな顔でもう一度
「嘘だよ」
 そしてキス、文庫本をとりあげられ、
「あ……栞…」
「いいよ。犯人はこの」
「ギイ!」
「嘘だって」
 笑いながら耳朶にキス。
「ギイ、」
「何だよ」
「ギイ、鍵が」
「さっき掛けた」
 鎖骨にキス。
「あの、明日、体育……」
「託生、うるさい」
 甘い手が頬をすべり、首筋へ。ぼくは目を閉じた。












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 タイトルは、『文学年報1 文学の闇/近代の「沈黙」』(世織書房)の、浅野正道氏の論文からお借りしました…イカす題目ですよねコレ(笑。というわけで、完全にタイトル先行で書きました。これで検索されてこられた方がいたら、申し訳ないです…。
 目で誘う託生くんを書いてみたのですが、難しかったです…単に技術不足なのでしょうが。なんだかギイ礼賛、になってしまったような(笑。オチは、視点人物兼語り手が犯人でしたァ!という破格ミステリっぽくしたかったのですが、託生くんの意図は…わかりやすくてバレバレかもしれないと思うと同時に、逆に判りづらかったかもなとも。

 追記。最後の時点で、ギイの仕事は、ちゃんと終わってます(笑。

9

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