真っ暗な音楽堂に閉じ込められ、どれくらい経っただろう。辺りを調べてはみたものの、出られそうな箇所は見つからなかった。音楽堂には窓がなく、高い場所に細い明かり取りがあるだけで、非常口なども見あたらない。ここから脱出するにはあの扉の鍵をなんとかするしかない。オレはため息をついた。
高林の親衛隊がまさかこんな行動に出るとは思っても見なかった。だが、考えてみればその意図が判らないこともない。託生を排除するところまでは高林の企図だったのかもしれないが、オレが巻き込まれたのはおそらく親衛隊の独断によるものだろう。いずれにしても、オレが後手に回ったことで託生をこんな目にあわせてしまったということが悔やまれた。
章三はそろそろオレが居なくなったことに気づいているだろうか。ここを見つけられるだろうか。判らないが、信じるしかない。
意識を取り戻さない託生が心配だったが、ここに閉じ込められたままではどうすることも出来ない。先程から呼吸と体温だけは確認しているが、見るかぎりそれほど不安になる必要はないように思えた。だが、ぐったりしている様子はやはり心配だ。とりあえず自分の胸に抱き寄せて、体温の低下を防ぐことにした。
細い月の光だけが差し込む闇にも慣れてきた。託生の顔がぼんやりと見える。目を閉じていると、強い目の印象がなくなるためかなんだか少しあどけなくて、こんな時だっていうのに愛しさが込み上げて仕方がなくなってしまう。
飽きずその顔を眺めていると、やがて託生は小さく息をついて身じろぎし、目覚めの兆候を見せた。
「ん…………」
「託生? 大丈夫か?」
覚醒と睡眠の端境にいるのだろうか、託生は心地よさそうにオレの肩に頬をすりよせ、ふっと微笑んだ――あたたかい。
覗きこんで様子を見ていると、託生は上げかけた顔をしかめて、小さく声をあげた。
「…………っつう……!」
殴られたところが痛むのだろうか?
「痛むか?」
「うん、か――」
そっと抱き寄せたところ、殆ど条件反射のように突き飛ばされ、オレは何か大きなものに身体ごとぶつかった。
「いててててっ!」
「あっ! ごめんなさい!」
オレは痛みも忘れて苦笑した。やっぱり、条件反射だ。本意ではないのだろう、考える前に動いてる。
「謝るくらいだったら突き飛ばすなよ。ひどい奴だ」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
託生は本当に痛々しそうに繰返す……ああ、――そうか。
拒絶されて傷ついているのは、オレだけじゃないんだな。
こんな風に身体に触れたのは初めてだから、今まで気づかなかった。
「もういいよ、人間接触嫌悪症の託生に触ったオレが悪いんだから」
軽口はやめて、心からそう言った。
ピアノの脚にもたれて、息をつく。
この一年間託生に拒絶され続けてはいたものの、オレは自分が嫌われているのだとは思っていなかった。というよりも、そもそも嫌うほどには興味を持ってもらえていないと思っていたんだ。好きだとか嫌いだとかの判断よりもずっと手前での拒絶は、脳の指令を待たない脊髄反射のようなものだ。勿論そうは考えてみても、拒絶されることに慣れた訳ではないけれど。
だけど、そうした託生の反射のような拒絶は、拒絶される人間だけではなくて、託生本人をも傷つけていたんだ……身体も、心にさえも触れられることを忌避する託生は、けれど自分でそう望んだわけじゃない。自分の身体と心とが思うままにならない状態は、どんなにか辛かったことだろう。
身体的・精神的に受けた暴力の後遺症による、接触嫌悪。症状は身体に顕れていても、原因が心にある以上、それは投薬すれば治癒するなどという類のものではない。現に、医師にだってどうにも出来なかったんだから。だからオレは、託生を裏切る身体と心とにまどわされることなく託生を見詰めなければならない――意識を取り戻してから症状が出るまでのほんのわずかの間、ぬくもりを求めて無心でオレの肩に頬をよせた託生を、きっと見過ごしてはいけない。そうでなければ、おそらく託生を守れない。
目の前の暗闇から託生の緊張が伝わってくる。けれど、怯まない。暗闇の中だと、普段見えないものが見えてくる。
オレはどうすればいい? 託生。
覚悟は、既にしたはずだ。
「託生が今朝、奴らに嫌がらせをされたのは、オレのせいだ」
「え……?」
託生は不審そうに顔をあげた。オレは逃げようとする託生を、ゆっくりと壁際に追い詰める。託生は助けを求めるかのように、背中の壁にひたりと手を寄せた。
託生の身体はオレを避けたがっている、そして心も。でも、それは本意じゃないだろう?
託生、本当にオレから逃れたいのか?
オレのこと嫌いか?
託生の本心を引き出してやるためには、オレの心をぶつけるしかない。
だから臆する心を叱咤して、言葉にする。
「オレが託生を好きだと、高林が知ったからなんだ」
託生が小さく息を飲んだ。
「本当は今朝もオレが守りたかった――逃げるな!」
「あっ、……」
尚も逃げたがる身体を両腕で囲い、退路をふさぐ。託生は目を見開いたまま、おずおずとオレを見上げた。驚きととまどいでゆらぐ眸をまっすぐに見つめ返す。
託生、オレだって怖いんだ、でも逃げないから。
「オレは、託生が好きなんだ。お前以外の誰でもなく」
「……さ、崎、くん、」
その震える身体を、オレから逃れたい託生を、そのまま受け止めてやる。だから、聴いてくれ。
「――後悔したくないんだ、託生が……好きだ」
勇気を出してゆっくりと近づき、唇にそっとキスを落す。
唇が触れた瞬間、託生が身体をすこしふるわせた。両手を壁から離し、その肩をそっと抱きしめる――あたたかい……
「あ……、」
「オレを嫌いじゃ、ないだろう?」
自信からではなく、確認させるためにそう囁いた。
許しを請うような思いで顔を上げると、黒い眸にオレが映る。
託生はもう逃げようとはしなかった。オレの問いかけには答えずに、そっと目を伏せた。
このキスがお前に優しくあるようにと祈りを込めながら、もう一度確かめるように再び唇を合わせる。軽いキスを何度か繰り返し、唇のラインを舌で辿ってそっと愛撫する。
好きだ、好きだ、……好きだ――オレの言葉は、お前に届いたか?
託生の唇がささやかにオレを受け入れてくれるのを感じて、更に深く口づける。
抱きよせた身体が、ためらいがちなキスがいとおしくて仕方がない。
人の身体は、キスは、こんなにもあたたかいものだったか?
「……っ」
ひくり、と託生が身体を震わせた。快感にではない。
オレはそっと身体を離した。託生の顔は色をなくして、伏せられたまつげが細かく震えている。
「駄目か?」
託生は俯き、身を護ろうとするようにその腕を抱いた。
オレは託生の背中に回していた両手をそっと離した。声を出さないように堪えて震える託生を抱きしめてやりたいと思ったけれど、むしろそれが症状を悪化させてしまうということがもどかしかった。
「もっと離れた方がいいか?」
託生は小さく頷くと、絞り出すように呟いた。
「……ごめ、ん……っ」
「判ったから、我慢しなくていいから」
オレは更に身体を引き、人一人分の距離を開けたところで、託生がほっと息をついたのが判った――この距離か。壁に寄りかかり、気を使わせたくなくて視線をずらした。それでも託生はまだ震えているらしかった――オレは、急ぎすぎただろうか。
「済まなかったな」
ぽつりと呟くと、託生は健気にもそっと微笑んでくれた。
「いいんだ、これは単なる条件反射なんだから」
「……そっか」
――言葉は、届いたらしい。
時間はまだある、もう急く必要はない。今はこの距離でいい。結果のキスがひとつ、それだけでオレの心は充分に満たされていた。
距離をとったことで、託生も少し楽になったらしい。こちらを振り返ると、首を軽く傾げて聴いた。
「崎くん、これからどうするんだい?」
「そうだな。せっかく相思相愛になったんだから、死ぬのはもったいないな」
冗談めかして言ったら、託生はくすりと笑ってくれた……ああ、やっぱり。
「笑うと、変わんないんだな」
「え?」
――変わらないはずだと信じていた、その託生が今ここに居る。
オレは立ち上がって、こっそりと息をついた。
託生の身体と心とが、すべて本当であるように。願いながらオレの心を、言葉を伝えよう。
託生が託生に戻るために、そして変わらずにあるために。誰よりも愛しいその黒い眸に、誓う。これからはオレがお前を守る。もう誰にも傷つけさせない。
置いている一人分の距離は、すぐにつめてやる。オレ自身のために、そして託生のために。
ここからがまた、始まりの日。
一年越しの再会の日。
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長々とお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
ギイについて。
基本的にタクミくんという物語は託生の一人称なので、よくわからんことが多いのですが、中でも一番ナゾなのがギイのような気がします。一番わからなかったのは、いくら託生が「人間接触嫌悪症」だったとはいえ、「あの」ギイが一年間もの間託生に近づけなかったのはなんでなんだろう?そしてそのブランクもなんのそので二年生四月の入寮日、いまだ「人間接触嫌悪症」が健在な託生にあんなに強引にキスできちゃったのはなんでなんだろう?ということでした。(所詮お話なんだからいいじゃん、とか作者はきっとそこまで考えてないよ、とか言ってしまうとつまんないと思うので、あえて考えてみたいのです。
二年生以降のギイって、つまり原作のギイって、託生に超本気、だけれどどこか飄々としている(託生は超然と言っていた)感じかなぁとわたしは思うのですが、それのウラ、つまりタクミには見えない部分が絶対あるのでしょう。まぁとりあえず、託生がいないとたぶん生きていかれないくらいの強い愛情且つ弱い精神(笑)は絶対ありそうなんですが(ただの願望かしらん)、でもやはりそこにもまた超然としたギイが居るような気が、わたしはするのです。
同じように、託生に拒絶されていた一年生のときもどこかやっぱり飄々としていたんじゃないかと思うのですよ。裏の裏は表、ってヤツですか(笑。
ギイって、一年生の時も、なんというか、オロオロしていただけではないと思うんですよね。託生の完璧な拒絶にあって「この片思いは絶望的だ」と思っていたのは確かだし、クリスマスイブにタクミが自分の運命の相手だったらな~なんてらしくもない乙女妄想(失礼)をしていたのも確かで。だけど、一年時の秋、デリンに「勇気がないからさ。打ち明けられない、まだ、無理だ」と語るギイが、なんだか軽い。なんとなく、ギイはこんなところでカッコつけるようなことを言ったりしない気がするので、ほんとに「まだ」なんだろうなぁ、きっと完全には絶望していないんだろうなぁと思ったのです。絶望の前に手を拱いて奇跡にすがるのは彼らしくもないし、じゃあ、「まだ」ってのはなんのことだったんだろう、あの入寮日までの彼のモチベーションってどんなところにあったんだろう、と考えるのです。
それはたぶん、簡単に言ってしまえば、絶対に託生をあきらめないこと、託生の側にたった言い方をすれば絶対に見捨てないこと(と、託生は受け取っていたというか、心のどこかで望んでいたと言っていいと思う、「夢の後先」などを見るに)かなと思います。諦めなければ、ギイの好意を託生が受け取ってくれるときが、いつかはくるかもしれない、というのがひとつ。
でも、たぶんそういう外的な要因だけではなくて(というかそれだけだとあんまりにギイが凡人になってしまってつまらんので)、もう一つギイ本人に内在する問題があったんではと思うのです。それは単純に「勇気がないからさ」ということ、この言葉のまんまなんではないかと。そう考えると、同室になったことや高林の事件はたくさんあったであろう契機の一つではあっても唯一絶対のソレではないし、高校生活のうちでいつかは絶対に、「勇気」を出して打ち明けあるつもりがあったんだろうと。
ギイって人はまぁ実は結構普通の人だし普通に高校生だし、特に託生とのことではそうなんだけど、わたしにとってはやっぱりどこか普通じゃない、妙に清冽な印象を与えてくれる人なのです。そんなわけで、一年時の絶望してるギイの力強さ、という矛盾する状態を少しでも書けていたらいいな、と思います。
ええと。あとがきまで長くなってしまいました…(笑。
このエピローグは二年の最初の日のお話にしましたが、上記したように、「そして春風云々」のギイってやっぱりよくわからないので、「春風云々」に描かれている一年時のギイタクの関係と、それ以降での話で描かれているギイタクの関係が矛盾するような気がして、困りました。「春風云々」のギイタクって、ずっと揉め事のたびに助けてくれた元級長と、それを拒絶し続けていた託生が、なんと同室になってしまったのです!…という雰囲気にはどうしても思えなくて。なので、その辺りはちょこちょこ妄想でごまかしながら書きました。
冒頭、山川登美子の「後世は猶今生だにも願はざるわがふところにさくら来てちる」をちょっぴり引用しました。幸せな歌ではないので、場違いかもしれませんが…。
「再会」というタイトルは単語なので引用も何もないのですが、中村一義の「再会」をイメージしてました。「再会」はアルバム『太陽』の中でも特に大好きな曲です。「「終わりだ」と言って健康に生きている、殺風景にさよなら、また今度ね」という冒頭の歌詞がすごく好きです。上述のギイイメージがあるので、ギイにとっての「葉山託生」との「再会」って、まさにそんな感じだったんじゃないかなと思うのです。超ショックだけど、でもオレは生きてるし、まだこれから、って。そしてそれは、次の四月の再会につながったのかなと思って、一年四月から二年四月までの五連作にしたのでした。
ええと、改めて。
長いお話にお付き合いくださって、また長々しいあとがきにまでお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。
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