恋は桃色
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(...so I'm in my heaven, all's right with the world)


「何だ、話って」
「んー? 判んない?」
 とぼけて笑う一階長に、三階長は肩をすくめて応じた。
 彼等にとって寮の屋上への呼び出しは、内密な相談事の符丁だ。一般の生徒が来ることの殆どないこの屋上は、階段長の仕事の範疇を超える、私的な乃至は個人的な相談や伝達がしばしば行われる場所となっているのである。
 ギイは眼鏡を外して胸ポケットに差し込み、小さく溜息をついた。
「悪いがあんまり時間がないんだ、率直に話してくれよ」
 矢倉は笑いながら一言だけ言った。
「イタ電の犯人、判ったぞ」
 聡い三階長はそれだけで凡てを了解し、続けられた名前に大きくため息をついた。
「やっぱりそっちか」
「やっぱりって?」
「やり口がまどろっこしいし、オレ関係じゃないとは思ってたんだ……託生に知られるとやっかいだから言わなかったけど」
 一体、何がやっかいなのか。
 こちらも聡い矢倉は、重ねて尋ねる事はしなかった。
「ここんとこ葉山の周りで張ってたけど、動きの怪しい一年生は特に居なかった。違う意味で……つまり、そっち方面でってことだけど……怪しいのは下級生でも三年でも何人かいたんだけど、携帯持ってんのはあいつだけだった」
 矢倉が淡々と事実を告げるのを、ギイはフェンスに凭れて黙って聴いた。
 空を見詰めるその視線を伺いながら、矢倉は簡潔に結果だけを告げる。
「ギイと距離をとった葉山に、それでも全然近づけなくて、精神的にキちゃってたって。もうしないってさ」
「……そっか」
 フェンスに手を掛けて少し俯き、やがて顔を上げるとギイはにっこり微笑んだ。
 階段長のそれではない、友人としての顔で。
「矢倉、サンキュな」
「どういたしまして……ってか、勝手に動いて悪いかなーとは思ったんだけど」
「いや、助かったよ」
「でも」
「ん?」
「だったらさ、もっと早く頼ってくれればよかったのに」
 急に真剣味を帯びるその声に眼に、ギイは矢倉の顔を見返した。
 矢倉もまたフェンスに腕を預け、じっとギイの眼を覗き込む。
「ギイ先輩、今年度になってから、何でも自分で背負い込もうとしすぎ。前はもっとこう、なんというか、もっと適材適所でうまく回してただろ」
「そうかな」
「そうだよ。俺とか他の奴等には変わらずに手を差し伸べてくれてるのに、自分のこととなると全部自分で片付けようとして。俺等の手は、もう必要ないか?」
「まさか。そんなつもりはないんだけど、な……ただ、」
 少し自嘲気味に苦笑して、ギイはふっと交わらせていた視線をずらす。
「何ていうのか……四月からこういう状況になって、思っていたよりも自分はここに慣らされてたんだなって、色んな意味で思ってさ。確かに、それで引き気味にはなってたかもな」
「……慣らされて、って?」
「だって……来年は居ないんだぞ、お前も、他の……誰も」
 判っていたはずなのに、自分を戒めていたつもりだったのに。
 この幸せな時間は、何時までも続くわけではないのだと。
 矢倉はゆっくりと息を吐いて、知らず息を詰めていたことに気がついた。
 少し考え、躊躇いがちに、それでもその言葉を向ける。
「……もしかして、怖くなった?」
「怖いよ」
「そっかー。ギイ先輩でも、怖いんだ」
「でも、って何だよ」
 矢倉は笑った。
「だってさ、俺からすれば、不安がる必要なんて全然ないって思うし。ギイは何処に行っても誰にも慕われるだろうし、葉山もそうだよ」
「託生?」
「そうだよ」
 矢倉はきっぱりと返した。
 ここ数日で矢倉が見てきた託生は、そしてその託生を取り巻く周囲のまなざしは、矢倉にとってはこの晩春の陽のように暖かで、好ましいものだった。
 揉め事ばかりを扱わなければならない階段長であるためだろうか、矢倉には殊更に彼等がいとおしかった。
「葉山なんてさー、あんだけ危なっかしくて可愛げあって? 老若男女関係なく、ほっとける人間がいるわけないだろ」
 矢倉の無駄に柔らかいその声に、ギイは奇妙に虚ろな表情で判ってるよ、と呟いて大げさに嘆息した。
「だから、……心配になるんだろ」
「……あ、そうか」
 確かに。自分だってほんのここ暫くで親しくなっただけだというのに、もうこれほどに託生に好意を抱いている。
 恋人としては、不安も感じる状況、なのかもしれない、というか。
 ……もしかして、目の前のこの階段長は、自分の今のなぐさめにも妬いているんではないだろうか。
 矢倉は瀬踏みも兼ねて、ゆるんだ表情のままで更に言葉を継いだ。
「あー、だから葉山にホレてる奴が居るとか、葉山が一年生に人気だとかってこと、本人にはナイショなんだ」
 いたずら電話の犯人だとは思わないまでも、今回事を起こしてしまった託生のクラスメートの気持ちくらい、ギイだってとうに気づいていたはずだ。
 託生に害が及びそうもないことは、あえて告げないつもりなのだ、この男は。
 矢倉は心の内では可笑しみを覚えつつ、無言のまま顔をしかめているギイに、フォローを向けた。
「でも他の奴に告られたって、葉山が受け入れるとは思わないけど……葉山を疑ってるわけじゃ、ないんだろ?」
「そういう問題じゃない。オレは心が狭いんだ」
 そう言い切ったギイに、矢倉は遂に吹き出した。
 友人が本音を吐いたことへの安堵と、喜びとが、笑いにまぎれた。


「でもさ、確かに判る気がするな」
「何が?」
 ゆっくりと呟く矢倉に、ギイものんびりと先を促す。
 矢倉はフェンスに上体をあずけて、大きく伸びをする。
「もう四月も終りで……ここでの生活も、正味あと半年くらいなんだよなあ。そう思うと、確かに、何ていうか……先が不安になるよなあ」
「矢倉、早く卒業したいんじゃなかったのか?」
 そうからかい気味に返すギイに、矢倉も笑い返してからぽつりと呟いた。
「……怖いのも、当たり前なんだろうな」
「ああ」
「俺もこの四月までより、ずっと不安だよ。八津と、卒業したらまた改めて始められるって、そればっかり考えてたけど……実際そうなってみれば、怖いことも不安なことも、もっとずっと増えた。覚悟はしてたつもりだけどさ、本当には判ってなかったな」
 あのギイでさえが不安だと言った、怖いのだと言った、今当たり前のようにあるものを、必ず失う日が来る。手のひらから零れ落ちるものをすべて掬うことは不可能だし、形が変わってしまうものもあるかもしれない。
 そして何より、一番大切なものを手に入れてしまった自分は、それを失ったら一体どうなってしまうのだろうかと、不安で仕方がない。
 独り言じみた呟きに、自分へと向けられるまなざしがゆるりと温度変化を起こしたのを感じ、矢倉はいたずらっぽく微笑んだ。
「またそれ。慈愛のまなざし、だ」
「何だそれ……でも、まあなあ」
 ギイは苦笑しつつ、のんびりした声で話題を変えた。
「不安じゃないってのも、不幸だからなあ」
「え?」
 ギイの言葉に、矢倉はふと顔をあげた。
「どういう意味だ?」
「失うものがなければ、不安にならずに済むかもしれない。けど、何も失わないということは、裏を返せば失いたくない大事なものを手にしていない、ということだろ。だから不安というのは、ある意味では大事な存在の反照なんだ」
「……ギイ」
 不安を吐露しながら、けれどそれこそがギイの強さなのかもしれない、と思う。
 失うことに怯えるのではなく、手にしたものをいとおしむ強さは、まだ自分にはないものだ。
「あーあ、なんだかんだ言って、ギイ先輩はギイ先輩なんだよなあ」
「だからさ、その先輩ってのやめろよ」
「だって、やっぱりギイは強いよなあって思うよ。少なくとも、俺等よりは先を歩いてるって感じがする」
 怖いから、不安だから、絶対の存在を目の当たりにすると安心する。
 それは少しの危険をはらんで、けれど生き物としての生理的な反応なのだと思う。
 そしてギイは、そんな場所に近い人間のような気がするのだ。
 矢倉はだから、安心して冗談にまぎらせることが出来る。
「ギイ先輩、やっぱり弟子入りさせてください!」
「やだよ、こんな可愛くない弟子」
 笑いながら小突かれて、矢倉は考える。
 ギイでさえもが失うことを怯えるほどに、ここは地上の楽園なのかもしれないと思い、しかし直ぐに打ち消した。
 楽園、そんな易しいものでは、ないけれど。
 不安も苦痛も、あっていい。
 不完全な、けれどだからこそ、唯一の世界。












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 リクエストをくださった湊様、ありがとうございました!しかし、や、矢倉くんは難しい…!ええと、自分は色々わかっていないような気がして仕方ありません…力不足で、湊様が想定していらしたものとは掛け離れているのではなかろうかと非常に不安なのですが、少しでも楽しんでいただけていましたら、うれしく思います。

 というか、前半はちょっと矢倉+託生の様相を呈してしまいました(どうも託生が世界(?)の中心になってしまいがちです…悪い癖ですね、すみません。でも託生は深入りしはじめると魅力が見えてくるような人だといいなと、個人的には思います。
 あと今回、矢倉くんの復習(笑)をしようと 『花散る…』を読み返していたら、矢倉くんとギイの会話の中で出てくる「卒業」という言葉が気になりました。二人とも同じ単語を使っているんだけど、どうもそれぞれ違う意味で使っているような気がします。むむ。そんなこともあり、矢倉くんに興味が出てきています。またいずれ書いてみたいキャラです。

 タイトルは一般名詞的ですし、あの映画、からとったわけでもないのですが(映画は未見です)、わたしとしては以前よく使っていたオリジンズの美容液を思い出してしまう言葉です…(笑。なので、配色をちょっと意識してみました(笑。
 サブタイトルは勿論、「神は天に居まし、世は凡て事も無し」のもじりで。










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せりふ Like
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