恋は桃色
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 梅雨間の綺麗に晴れた空を仰げば、まばゆい青がまっすぐに双眸に入り込んでくる。身体中が浄化されていくかのようで心地よい。周囲を見渡せば、午前の光がきらきらと地上に降り注いで、新しい姿をオレに見せている。嵐の後、祝福を受けた新世界に降り立って、灰色の雲間から射す光の方へと振り仰ぎ、今ここにこうして在るというただそのことに感謝を捧げる、信仰の念に満たされたノアだ。祈りを終えたら、真っ直ぐに行く手を見据える。そうして一歩たりとも道を間違えないように、再び歩んで行くのだ。






   Epilogue ──DAYS






 なるべく音をたてないようにと注意したのに、教室に入った途端にオレは目敏い風紀委員に見つかってしまった。出席簿を片手に世にも恐ろしい表情で手招きしているので、級友達と挨拶を交わしながら仕方なくそちらへ向かう。章三は憮然とした表情で立ち上がり、片目をすがめてオレを睨んだ。
「ギイ、遅いぞ」
「あ、オレ遅刻か? チャイム鳴ってる?」
「鳴った。幸い一限は自習だけど、だからって遅れていいって訳じゃないぞ」
「なんだ自習なのか、ならもっとゆっくり来ればよかった」
 そう肩をすくめると、章三はますます恐ろしい顔つきになった。
「充分ゆっくりしてただろうが……お前がのーんびりこっちに歩いて来るの、窓から見てたぞ」
「あれ章三、授業時間中に席を立ってたのか? 自習時間でも席に着いてろ、っていつも言ってるくせに?」
「僕が見ていたのは、チャイムが鳴る前のことだ!」
 オレは笑って誤魔化した。そんなオレを見て章三は呆れた顔でため息をつくと、頭を左右に振った。
「まあもういい、それより、葉山はどうした? まだ体調よくならないのか?」
「ああ、今日はまだ休んだ方がいいみたいだ」
「その……、一人にしておいて大丈夫なのか?」
「問題ないさ」
 託生をバスに放り込んで、オレは託生の病欠を届けておいた。一日くらい授業を休んだとしても、兄の墓参の方が今の託生には必要なことだと思ったからだ。
 章三はその経緯も事情も全く知らない。むしろ昨日の託生の様子を知っているせいか、偽の欠席理由をすんなり信じてくれているし、むしろ託生のことを心配してさえいるようだった。オレは多少申し訳ない気分になりながら、それでも事実を話すことは憚られてわざと軽い口調をつくった。
「って、ほら、そろそろ席についた方がいいじゃないか? 風気委員が率先して自習時間にサボってちゃ、示しが付かないぞ?」
 教室内はそこそこにざわめいてはいるものの、流石に立ち話をしている姿は目立っていた。オレが室内に注意を促すと章三はちらりとそちらに視線をやり、ひとまずは口を閉じた。オレは黙り込んだ章三を目線で促し、自分の席に向かう。章三も何やら苦虫を噛みつぶしたような表情でついて来ると、オレの隣の託生の椅子に陣取り、椅子を近づけて小さな声で小言を再開させた。
「……昨日から思っていたんだが、ギイは他人の限界を高く見積もりすぎてるんじゃないか? 自分が万能だからって、人にもそれを要求するのはお門違いだぞ」
 テキスト類を机の中に仕舞い込んで、オレは章三に向き直った。
「章三こそオレを買い被り過ぎだろ、オレは別に万能なんかじゃない。それに別に託生に無茶な要求をしているつもりなんかないさ、あいつが出来ないことが多すぎる奴だってのは、章三だってよく知ってるだろう」
「それは、確かに」
 託生が聴いていたら顔を赤くして怒りそうなことを言って二人頷き合う。オレはにやりと笑った。
「だけど、少なくとも今回の件については託生はもう大丈夫だよ」
 章三は眉をひそめた。
「だから、そういう根拠のない買い被りはよくないって言ってるんだ。僕は葉山についてはギイほど詳しくないけど、客観的に見て、ギイは葉山に関して多かれ少なかれ思い込みをしているように見えるぞ」
「でも託生、精神的には昨日よりは大分元気になってたぞ」
「それが危ないかもしれないだろう。表面的な様子だけで即断しちゃいけないんじゃないかと思うんだ、僕は。葉山の気持ちは、結局葉山にしかわからないんだから」
 真剣な顔でそんな風に説かれて、オレはいい相棒を持ったものだと感慨を新たにした。やはりこういう視点は章三の美徳なのだと思う。確かに、今のオレは慢心しかねないところがある──何故ならあまりに幸福だからだ。だから多少は自省しながらも、オレの頭の残りの部分は別のことを考えていた。
「それも、そうだな。章三の言うとおりだ」
 頭の中で素早く時間を計算する。そう言えば昨日街に降りた時、ターミナルに新しいカフェが出来ていたなと思いだし、オレは真面目な顔で一人頷いた。
「今は寝てるから、とりあえず休み時間に様子を見に行くよ。起きてる様だったら、側についてるようにする。その場合、オレの欠席理由頼んでいいか?」
 出欠もノートも任せとけ、と力強く請け負った章三に、ふらちな相棒ですまんと心の中で手を合わせた。
 結局昼休みよりも前に、オレは制服を着替えてバスに乗った。病院への所要時間や快速の時刻表を計算し合わせても、たぶんこれ以上早くには帰らないはずだ。駅前に着くと目当てのカフェで適当に時間を潰す。
コーヒーにも飽きた頃にターミナルに立ち、予測の時刻丁度に現われた人影に向かい大きく手を振って合図する。
「おーい」
 託生は遠くからオレを見つけると、呆気にとられたような顔でその場に立ちつくし、それからあわててこちらに向かって駆け出した。手の届く距離まで待って、抱きしめたいのをなんとか我慢して笑って出迎える。
「……ギイ!」
「託生、お帰り」
「な、何してるんだい、授業は?」
 今日、普通の日だよね、と改めて首を傾げる託生に、オレはもう一度微笑んだ。
「お前を迎えに来たんだ」
 困ったような、嬉しいような、託生はそんな表情でオレに笑い返した。


    ■■■


 キスをすると、ふんわりと頬が染まるのがとても可愛くていとおしい。赤味を増した唇はオレを誘っているかのように少し開き、濡れたような眸で見あげる様子はとても扇情的だ。もっとはっきり言えば、抱きたくなる。
 消灯を過ぎた部屋の中で、オレは待ちかねたように託生を抱き寄せてキスをした。それだけで昂ぶる身体を持て余しながら、でもやめられなくて、託生が音を上げるまで何度も繰り返す。
「ギ、イ……もう、」
「おいで、託生」
 手を引いてベッドに座らせ、もう一度ついばむようなキスをおくる。ちいさな驚きの声が上がるのと同時に片手でシャツのボタンを外そうとすると、その手に手が重ねられた。
「ちょ、ちょっと、待って」
「なんだ?」
「そ、その、」
 もしかして、する気? と視線だけで問いかけられて、その可愛らしさにノックアウトされそうになる。オレはそれでも顔には出さずに、また唇にキスをした。
「嫌か?」
「だ、だって」
 咎めるような色を浮かべた眸を覗き込むように見つめてやると、託生はうろうろと視線を彷徨わせながらも必死に反論しようとする。そんな様子がまた可愛くって、人体に融点があるならオレはとっくにそれを通過して溶けてしまってるんじゃないかと思う。なんとかいろいろなものを押さえ込んでもう一度軽くキスすると、託生はその唇をとがらせた。
「……だって。……あ、明日は、体育がある日だって、知ってるくせに」
 その言葉に、オレは流石に本気で呆れた顔をしてしまう。
「お前なあ……先週の授業、ちゃんと松本の話聞いてたか?」
「な、なに?」
「今週から保健の講義に入るって言ってただろ」
「……そうだったっけ。……ほんとに? 嘘ついてない?」
 疑わしい目で見られて、オレは大袈裟にため息をついて見せた。
「オレは嘘なんかつきません」
「……ほんと?」
「本当に、」
 ふと見れば、オレを見あげてくる眸がまたゆらりと揺れて逡巡しているのが分かり、その様子が……ああ、ったく。どうして託生はこんなに可愛いんだろう。これ以上殺人的な可愛らしさを見せ付けられては堪らない。オレは託生のひたいを軽くつついてにっこり微笑んだ。
「先生のお話はきちんと聞いておきましょうね、託生くん。わかったら、はい、脱いで下さいね」
「ギ、ギイ、ちょっと」
 オレは有無を言わさず託生のシャツをはぎとると、ぎゅっと抱きしめて首筋を軽く咬んだ。瞬間、びくっと身体がはねて、抗するように促すようにオレの肩にそっと震える手が這わされた。
「ギイ……」
「なんだよ、まだ何かあるのか」
「電気、……電気消して」
 オレは一瞬動きをとめて、それから託生の肩にシャツを掛けなおしてやるとベッドサイドのスタンドを灯した。立って部屋の明かりを消しての戻りしなに自分のシャツを脱いで反対側のベッドに放る。戻ってきて託生に微笑みかけると、託生も曖昧に微笑んだ。隣りに並んで座る格好になって、またキスをする。
「託生、」
「ん、」
 ゆっくりとキスを深いものにしながらその身体をベッドに押し倒し、首筋に唇を押し当てて身体の線を辿る。胸の先に舌が触れると、その身体がひくりと震えた。舌で転がして少し強めに吸うと、浅い呼吸に身体が強張る。頬を寄せるようにして胸に耳をあててみると、鼓動の高鳴りが伝わってきた。
「ここ、気持ちいいか?」
「……っ、」
 同じ場所にキスを繰り返しながら問うと、ちいさく息をのんだのがわかった。顔を上げると、託生の顔はオレを避けて壁の側を向いていた。羞恥に耐えるかのようなその表情に、オレは小さく笑って耳元にキスをおくり、そのまま下腹に手を伸ばした。半分たち上がり掛けていた託生のそれを手で優しく包み、ゆっくりと愛撫する。手を動かしながらまたキスを首筋から胸まですべらせて、先ほど濡らした突起に軽く歯を立てると託生の口から高い声が洩れた。
「やっ……!」
 託生はオレの頭に手を掛けて、なんとか留めようとして髪をつかんだ。少し痛みを覚えたけれどオレはしつこく舌での愛撫を続け、やがて託生は泣き出しそうな声で懇願した。
「や、やだ、……も……やめ、」
「やめない……託生、いいって、言えよ……」
「ふ、…………や、あ……っ、」
 仰のいた首になだめるようにちゅっとキスをして、オレは託生の顔を覗きこんだ。
「託生、……泣くなよ」
「だっ……て、…………………………ギイの、いじわる」
 あがった息の下でやっとそれだけ言うと、託生は目に涙をためて可愛らしくオレを睨んだ。
 勿論そんな託生を見て、手加減などしてやれるはずもなく。……オレは、託生が悪いんだと思う。


    □□□


「から揚げ好きだよな、お前」
「うん。トリ、好きなんだ」
 託生は最後のから揚げに箸を伸ばしながら頷くと、オレの皿の上にまだ二つ残っているから揚げにじっと視線を注いだ。
「ギイ、食べないんなら……」
「食べるって!」
 オレは慌てて箸で唐揚げをとると、即座に口に放り込んだ。託生は呆れたようにオレを見ながら、小さく肩を竦めた。
「冗談だってば、もう」
「目がマジだったぞ……」
「じゃあ、セロリとから揚げ、交換っていうのは?」
 冗談っぽく笑った目でそんなことを言うのがとても可愛くて、思わず了承しそうになってしまいはたと気づく。オレは表情を崩さないように注意しながら、託生の皿の上に大量に余っているセロリを一瞥した。
「もしかして、セロリも嫌いなのか」
 しまった、という顔で目を逸らすのさえ可愛くて、オレはつい笑いそうになる。
「……も、ってなんだよ」
「人参好きだっけ」
「……嫌い」
「ピーマンは」
「…………嫌い」
 オレが黙ってじっと見ていると、託生は口を可愛らしくとがらせて顎を引いた。
「どうせね、好き嫌いが多いですよ」
「好き嫌いしてると、大きくなれないぞ」
「……そうなんだ。ぼく、全然伸びないんだよね。成長期、終わっちゃったのかも」
 託生はみるみる間にしょげ返ってしまい、箸を置いてはあ、とため息をついた。予想以上に落ち込んでいるので、慰めてやることにした。
「まだこれから伸びるだろ。男の成長期は遅いって話だし」
「うん……でも、ギイは随分伸びたよね。四月には、ぼくとほとんど変わらないくらいだったのに」
「オレは好き嫌いしないからな」
 うっ、と呻いて託生は口元をきゅっとむすび、無言のままじっとセロリを睨みつける。そんな様子でさえも途方もなく可愛いと思い、しかしから揚げだけは譲ってやれないので、また狙われる前にさっさと食べてしまうことにした。

 結局託生よりも先に食事を終えて、お茶のお代わりを貰いに立ちながらオレは食堂をぐるりと見回した。少し遅い時間なので、随分人も減ってきているようだ。それでもこれから食事という人間もまだちらほらと居るようだ、と配膳のカウンターに視線を遣ったところで偶然にもその三年生が居るのを見つけてしまい、オレの心には動揺と苛立ちの入り混じった気持ちが復活した。
 二人分のお茶を運んで戻ると託生のセロリはきれいに片付いており、オレは元の席につくと片眉をあげて無言で皿の主に問いかけた。
「食べたよ」
「本当か? どんな裏ワザを使ったんだ」
「本当に食べたんだってば」
 あまりに向きになるのがまた可愛いので更にからかいたくなってしまったけれど、今はそれどころではなかった。
「ま、いいけどな。それよりさ、ああ、今丁度カウンターから歩いてくる三年生、いるだろ」
「え? あ、うん、えーと……」
 託生は茶碗を両手で持ったまま眉根を寄せてしばし考え込むと、やがてああ、と頷いた。
「森山さんだ」
「知ってるんだな」
「名前はね」
「親しい訳じゃないのか?」
「や、まさか。図書室で応対したことがあるくらい」
 ふうん、と頷いてオレは持ってきたお茶を飲んだ。
「急にどうしたんだい? 森山さんが、何か?」
「なんでもない」
「じゃあ、どうして」
 お前のことが好きなんだってさ、なんて誰が言うか。
 と頭の中だけで毒づいて、昼間三階長に聞いたばかりのその秘密情報を思い返した。
 尤も奈良さんによれば、彼は見かけによらずミーハーなタイプだそうなので、本気なのかどうかはまだわからない。だけど野崎みたいに周囲への見栄のためなんかでそんなことを言うタイプにも思えない。だが、たとえ本気だろうがなんだろうが、今回だって負ける訳にはいかない……託生と同じ静岡出身だから、なんだってんだ。
 そもそも先月くらいから三年生の間で託生は人気急上昇中らしく、冗談半分にファン宣言した奴ならまだまだ居るのだとかいう話だった。野崎と取り巻きのくだらないパフォーマンスで託生に目を引かれて、スポーツテスト後に野崎が完全に手を引いたってわかってからファン宣言かよ。腹の立つ。
 イライラと思い返していると、いつのまにかくだんの先輩が丁度隣りの列に座ってこちらを、というか託生をちらちら見ていることに気がついて、オレは思わず拳を握った。その拳にぎょっとしたらしい託生が、おそるおそる、と言った調子でオレに話し掛ける。
「あ、あの、ギイ? どうしたんだい?」
「なんでもない! 部屋に戻るぞ」
 オレは残りのお茶を一気に飲み干し、勢いよく席を立った。


    ■■■


 点呼を済ませた部屋の中では、ペンの走る穏やかな音が聞こえている。
 オレはベッドに座って読んでもいないニューズウィークをぱらぱらとめくりながら、机に向かった託生の後姿を眺めていた。やっと期末試験も終わったっていうのに、レポートが残っているらしい。ちなみにオレは試験期間中にちょこちょこ進めていたので、もう書き上げてある。論述よりも調査が中心のレポートだし、もう調査の部分は終えているそうなので特に手伝ってやれる部分もなく、オレは潔く一人で時間を潰すことにしたのだった。けど雑誌よりも託生を眺める方が楽しいので、ついつい視線は文字の羅列から離れてしまうのだ。時折首を傾げたり、じっと考え込んだり、そんな後姿を眺めているだけでオレは充分に楽しい。時々資料を取りに立ったりする拍子に目が合うと、少し驚いたような表情をするのでそれが何とも可愛くてまた楽しい。それは楽しい、けれど。
 折角試験も終わって、今夜は久しぶりにしたいと思っていたのに──なんて言えば託生は顔を真っ赤にして怒りそうだが、それはオレの本音だ。
 試験勉強に集中したいからと禁欲を言い渡されて、はや一週間以上になる。別にそれだけが人生の目的という訳ではないが、恋人と抱き合いたいと思うのはごく自然な感情だと思う。だが、託生はどうなんだろう。今ではオレと触れ合うことを厭っている様子は全くないし、誘えば応じてくれるのだが、流石に求められたことはまだ一度もない。っていうのは、どうなんだろう。
 そんなことをつらつらと考えていると、突然託生が振り向いた。オレのふらちな思考を読み取ったのか、少し不審な顔でオレの手元を見ている。オレは内心焦りながらにっこり微笑んで見せ、おざなりにめくっていた
雑誌の上の写真に目を落とした。
「ギイ」
 顔を上げると、託生はまだこちらを見ていた。
「もう少しかかるから、先に寝ててもいいからね。上の電気、消しちゃって大丈夫だから」
「まだ眠くないから、付き合うよ。まだ大分かかりそうか?」
「ん……、あとちょっと。多分」
 託生は眠たげにあくびをしてにっこり笑い、また机に向き直った。
 その無防備な表情につい何かを思い出し心臓の鼓動が高鳴って、ああたまってるなあとオレは小さく息をついた。
 こんな内心を知られれば、またそれも怒られるんだろうな。
 託生にとってはきっと、オレの欲望はあまりにあからさまに過ぎるんだろう。快楽を忌避する心の潔癖さは、託生の倫理なんかじゃない。身体では明らかに感じているのにそれを認められない託生はやはりオレにはまだどこかアンバランスに見えるのだ。託生の語ってくれた過去を考え合わせれば、そうした潔癖さは接触嫌悪症のヴァリアントなのだろうと思われた。
 でも、託生はオレに触れたいと思うことはないのだろうか。
 託生の方から望んで欲しい、なんてのは、高望みなんだろうか。

 ぱたん、とペンを置いて大きく伸びをした託生に、ふとぼんやりしていたことを気付かされてオレは顔を上げた。
「終わったのか?」
「終わった、と思う、……もういい」
 首を左右にストレッチして、託生は立ち上がりぱちんと手元のスタンドを消した。
 ゆっくりとこちらを向いて、少し戸惑うような目と目が合った。
「お疲れさん」
「ありがとう。ごめんね、つき合わせちゃって」
 微笑んで労えば、託生も笑い返す。
 一瞬、間が開いた。
「託生」
 明らかに意図を持った声音でその名を呼べば、託生はそれを予期していたかのようにゆっくりと首を傾げた。
「なに?」
「おいで」
 それだけを伝えて、片手を伸べる。
 託生は少し迷うような素振りを見せて、それでも結局素直にこちらに近づいてオレの手をとった。
「お疲れさん」
「ん……疲れた」
 手を引けば素直に隣りに座り、じっとオレを見あげる。
 少し潤んだ眸に誘われて、ゆっくりと唇をかさねた。
 そっと開かれた唇の中に誘われて、妙に熱い舌を味わう。深入りし過ぎない内に一旦離れると、先ほどよりも潤んだ黒い眸が少し拗ねたようにオレを見た。
「……ぼく、疲れてるんだけど」
「オレも待ち疲れてる」
「うん…………ごめんね」
 こくりと頷いた顔があまりに可愛いので、何だか今日は素直だな、とからかいたくなる。けれど今はそれよりももっと重要なことがあるのを思い出し、オレは返事をせずにその肩を抱きしめて、先ほどよりも深くくちづけた。


    □□□


 梅雨明け、という発表は出さないことになったそうなので、何時の間にかそれは明けていたことになるらしい。空は青く、白い雲とのコントラストはまさに夏を感じさせる。ひねもすじわじわと汗をかいていなければならないのはあまり愉快なものじゃないが、それでもオレは蒸し暑い日本の夏も好きになった。
 電話室に入ると、その中は一段と蒸し暑かった。はたはたと手で仰ぎながら受話器をとって名乗れば、すぐに明るい声が響いてくる。
『ギイ久しぶり、元気ー?』
「お久しぶりです、なんとかやってますよ。麻生さんもお元気そうで」
『俺のことはいいから、それより。なんとか、って何さ? めっちゃ元気、なのかと思ってたのに』
 オレは一呼吸置いて、フウと息をついた。
「一体、どこまでご存知なんですか」
『どこまでって、全然知らないよー、ギイと葉山くんが同室になったってことくらいしか』
 麻生さんは屈託なくそう言うが、卒業式で挨拶をして以来電話でも話していなかったのに、一体どこから情報を得ているのだろうか。オレは少し笑ってしまった。
「卒業生でそこまでご存知なら、充分ですよ」
『あはは、それで、どうなの調子は』
「オレのですか、託生のですか」
『わ、名前呼び? いいなー、俺も託生君って呼んでもいいと思う?』
「さあ、駄目なんじゃないですかね」
 なにそれ、と笑って麻生さんは尚も託生のことばかりを聞きたがった。じゃあどうしてオレに電話してきたんだろう、と思うと少し可笑しかった。だってつまり、託生の様子を聞くことがイコールオレの近況伺い、だと思ってくれているのだろうから。
 わずか五分の通話を終え、電話室を出て廊下を歩き出すと、すぐにいろいろな記憶が蘇ってきた。話し終えてからの方がかえっていろいろなことを思い起こして、懐かしさが増してくるのが不思議だった。
 託生に拒絶されている自分と、あの持ち前のやわらかい雰囲気ですんなり託生の領域に入っていった麻生さんとを比べていたこと、あの頃彼に嫉妬した自分はあまりに幼かったなと思い出し、だけど今もあの頃から然程成長していないのではと気付いて一人苦笑した。

 部屋に戻ると、託生は窓際に立って開け放した窓の外を眺めていた。オレが帰ってきたのに気付けばすぐに振り向いて、にっこり微笑む。
「おかえり、ギイ」
 こんな光景をどこかで見たなと思いながら、オレも笑い返す。
「何してるんだ?」
「空気の入れ替え」
「…………ああ、そう」
 寒さにも弱いが冷房にもまた弱い託生は、時々こうして冷えすぎた空気を逃がしている。それは知っている、のだが。
 あまりに色気の無い返事にオレはまぬけな返事を返してしまい、けれどそんな日常がまたいとおしいとも感じる。
 特別なことなど無くていい。ただ託生がここに居るということこそが、オレにとっては至上命題なのだ。
 オレは託生の横にたって、一緒に外を眺めることにした。
 もう真夏だね、と言いながら託生は窓の枠に手をついた。その隣りに片手をついて、横顔をそっと眺める。
「託生、電話誰だったと思う?」
「ぼくの知ってる人? ……まさか、佐智さんっ?」
「……はずれ」
 音楽鑑賞会以来の託生の佐智フィーバーに半分本気でむっとしているオレは、やっぱり全然成長してないんだろうな。
 こっそりそう自嘲して、すぐに答えをバラす。
「麻生さん、覚えてるか?」
 他人に興味が薄い託生だが、流石に麻生さんは覚えているはずだ。案の定すぐに頷くと、にっこり微笑んだ。
「卒業生の麻生さんだよね、覚えてるよ。あ、電話って、麻生さんだったんだ」
「そ。託生に会いたがってたぞ」
「え、ほんと?」
「ほんと」
 驚きで目を丸くしている託生が可愛くて、オレはまた笑ってしまう。
「託生も会いたけりゃ、セッティングするぞ。夏休みに入るし、丁度いいだろ」
「え、と……でも、それってほんとに? 社交辞令とかじゃなくって?」
「あの人はそんなの言わないよ」
 託生は少し躊躇ってから、結局頷いた。
「いろいろお世話になったのに、きちんとお礼も言えなかったから、後悔してたんだ」
 穏やかに微笑んでそう言う託生に、オレの心もあたたかくなっていく。よし、とオレは心を決めた。多少会わせるのが不安でないこともないが、託生のためにもここは忍耐だ。
「じゃあ、計画立てようか」
「あの、さ」
「なんだ?」
「それって、ギイも一緒に、だよね?」
「勿論」
 二人きりでなんて、会わせられるもんか。
 あっさり頷くと、託生はなぜか黙ってしまった。なんとなくオレも黙ってその横顔を見つめていると、突然託生は身体ごとくるりとこちらに向き直った。
「ギイ」
「なんだ?」
「あのね、ありがとう」
「……どうしたんだよ、急に」
「なんでも、ない」
 首を振って、にっこり笑った託生の表情があまりに晴れやかで、胸の鼓動が一気に高鳴るのを感じた。オレはわざと軽く笑って、そっとその頬に触れる。
「なーんだよ。なんでもなくないだろ、そんな顔して」
「そんな顔って、どんな顔?」
 首を傾げる託生に、オレはにやりと笑って見せた。
「オレが好きだって顔してる」
「……自信過剰」
 呆れ顔でそう言うと、託生は踵を返してすたすたと歩いて行ってしまった。オレは苦笑して、その後姿に声を掛ける。
「全く、素直じゃないなー託生くんは」
「知らない。窓閉めておいてくれよ」
 更に追い討ちを掛けるように冷たく言い捨てて、託生はベッドに広げた衣服をたたみ始めた。帰省のためのパッキングの途中だったのだろう、ベッドの上にはクロゼットから出された服が種類別に積まれていた。託生に倣ってオレもそろそろ準備を始めようかと自分のクロゼットに足を向けると、託生が頓狂な声を出した。
「あれ?」
「どうした?」
 託生はこちらに振り向いて、可愛らしく首を傾げた。
「ギイ、アメリカに帰るんだよね?」
「そうだよ」
「でも、一緒に麻生さんに会いに行ってくれるの? ってことはギイ、向こうに行きっぱなしじゃ、ないってこと?」
「そりゃそうだろ、登校日だってあるんだし」
「え……登校日、参加するのかい? わざわざ?」
「当たり前だろ」
 当然のように頷くオレを、託生は奇妙な顔で見つめた。だが、どんなに徒労かつ無用な行事だろうが、堂々と日本に帰って来られる日をオレがみすみす見過ごすはずは無い。
「……そっか、なんだ」
 託生は拍子抜けしたようにそれだけ呟くと、くるりと背を向けてまた服をたたみ始めた。
「なんだよ、帰ってきちゃ行けないのかよ」
「そんなこと言ってないだろ」
 黙々と服をたたんでいく託生の後ろで、オレは瞬きを繰り返した。
「託生」
「なに?」
「夏中オレに会えないのかと思った?」
「うん、ちょっと」
「オレに会いたかった?」
「うん」
 作業をとめず背を向けたままであっさりとそう返す託生に、オレは言葉を失った。
 たった、一言で。
 こんなにもオレの心をゆるがせる人間は、他には居ない。
 託生の不意打ちはいつでもオレを驚かせて、そしてこの上ない幸福に包んでくれる。
 オレは声が震えそうになるのを懸命に堪えて、再びそっと呼びかけた。
「託生」
「なに?」
「お前に会いに帰ってくるよ」
「……うん」
「会えない日は、電話するからさ」
「うん、きっとだよ」
「託生」
「うん」
「愛してるよ」
「わっ!」
 不意に後ろから抱き寄せると、託生は驚きのあまり、手に持った青いシャツをぎゅっと握り締めた。じたばたと暴れる身体を抱きしめて、その髪に頬を寄せる。
「もう、びっくりするじゃないか」
「託生、愛してるよ」
「あのねえ、人の話聞いて……」
「愛してる」
 そっと囁いて、そのまま耳にキスをひとつ。
 抵抗を諦めた託生は、小さく息をついて振り仰ぐようにオレを見あげた。
「……うん、ぼくも」
「………………託生」
 身体ごと向き直った託生を抱きしめなおす。顔を近づけると、ふわりと眸を閉じて無防備な表情を見せてくれるのがいとおしくてたまらない。ゆっくりと唇を合わせると、すぐに身体中でオレを受け入れてくれるのがわかる。
 その表情を眺めようとそっと顔を離すと、すぐに託生はぱちりと目を開いた。
「ほら、そろそろ荷造りしないと。ギイ、ひとりで寮に残ることになっても知らないよ」
 そう言い置いて、託生はばたばたと慌しく作業に戻って行ってしまう。
 ……オレは、託生にあやされてたんだろうか。
 一人取り残されて、オレは苦笑した。仕方なく自分も荷造りをはじめることにする。自分のクロゼットを開けながら託生の手元を覗き込むと、妙に大きな箱に服を詰め始めている。宅配便などで実家に荷物を送るのはよくあることだが、それにしても大きな箱だと不思議に思って、また邪魔にされるかもと思いながら声を掛けた。
「随分大きいハコだな、お前」
「うん、今回は手荷物が多いから、服は全部送っちゃうつもり」
「手荷物?」
「バイオリン、ここに置いていけないだろ」
「ああ」
 音楽鑑賞会の後に渡したバイオリンのことを言っているのだと気付き、オレは自分の怱卒さに眉をしかめた。
「そうか。すぐに夏休みなんだから、託生の家まで直接運んでおいてもらえばよかったな」
「……そんな恐ろしいことされたら、母さんかぼくがすぐにアメリカに送り返してたよ」
 託生はゲンナリした顔でため息をつき、けれどすぐに気を取り直したようにまた作業を再開した。てきぱきと服を詰めていく託生の隣りで、オレもキャリーケースをひらく。
「帰ったら、楽譜を買いに行かなくっちゃ」
 託生は妙に楽しそうにそう言った。オレはクロゼットから服を取り出しながら、忙しく動き回って箱をつめていく託生を眺めてはつい笑ってしまう。
 また振り返れば、窓の外では青い空が誘っている。
 明日からもう、夏休みなんだよな。
 親父の押し付けてくる仕事は手早く済ませて、なるべく長く日本に戻ってこよう。
 託生を連れて何処に行こうか。
 海でも山でも、託生が一緒なら何処でも構わない。


 初めての夏が、始まるのだ。














an extra day へ続く












---
 本当は『愛と…』全体は六月で終える予定だったのですが、前述のように「愛と」の内容を変更したら、締めも七月でないと、ということになりました。なので、一部六月の場面もありますが、ラストは七月迄入れました。
 内容的には単純にとても幸せで、もうものすごくどうでもいい(笑)日常の話の断片集ですが、結構長くなってしまいました。麻生さんとか書いていて楽しかったです。森山が妙に怪しすぎる人になってしまった気がします…すみません。

 五連作全体のテーマは、二年初期のギイの内面ということでしたが、わたしの考えているこの頃のギイって、真面目で真剣で冷静で懊悩してて、かつ、ハイパー舞い上がってるギイ、という感じなのです(笑。本編内で、そ、それはギャグで言っているのか…?というようなところは、ギイは真面目なつもりかもしれませんがたぶん大抵ギャグなので、笑っていただけるとうれしいです。

 絵について。絵も結構描いた気がしています。あんまり凝った絵は描いてないですけど。最初のページに同人誌版の表紙絵も掲載しています。表紙は最初、髪に白薔薇をさしたギイ(笑、にしようと思っていたのですが、それだと背景が描きづらかったのでああいう構図にしてみました。いずれにしてもイメージしていたのは、ギイの純情とか初恋とか貞操(笑)とか、そういう感じです。この表紙に限らず、タイトルとかもふくめて、ギイと「純情」っていう言葉は、ある意味アンバランスで不似合いな語彙だと思うのですが、その似合わなさを押し出したかったのです。白薔薇か白百合かで迷ったんですが、まあやっぱりギイなので、華やかな薔薇にしました…でもあんまり描いたことがないので、キレイに描けなかった…これも反省。

 本編はここまでですが、おまけがあります。

 ※あとがきに一部変更を加えています

9

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