木原音瀬『眠る兎』
クラスでみんなでゲイ雑誌見てキモがってたら、なんか女子が勝手に攻めの名前で大学生とかいつわって文通に申し込んでました。会うつもりはなかったんだけど、その女子が見に行きたいとかいうので、半分デート気分で軽い気持ちで待ち合わせ場所に行ったら、なんと相手は自分とこの高校のせんせいでした。そのまま帰るつもりだったけど、なんかずっと待ってるっぽかったので、女子と別れてからついつい待ち合わせ場所に戻ってしまうのです。そこで断ってさよならのつもりだったのですが、なんか優柔なせいかずるずるまた会うことになっちゃって、ずるずる続いて次第に惹かれていくのですが、けど自分は大学生設定で、相手もせんせいということは内緒にしてて、云々。
高校生の青い無茶苦茶さとか、先生のか弱さとか敬語ぶりとか、なんかいいんですが、物足りない感じもあるのです。幸せになっての続編では二人のキャラがあんまし立ってないせいなのでは、という気もする。
そして、ディスるつもりでは全くないんだが、木原音瀬テンプレートというものがあるんではないかと思い始めた。
①恋のきっかけにはウソ・カンチガイが介在
②両者の情報量と愛情に差があり、それらは反比例の関係
③追われてた側がのめり込みラブラブに
④ウソ・カンチガイがバレて大決裂
⑤ものすごい時間と労力とをつかって復縁
⑥すったもんだのわりには地道に幸せカップルになる
⑦数年後、モブキャラ主体の続編がある
⑧⑦ではモブキャラによる批判や再点検などが行われる
④⑤はもう少しなんとかならないのか、といつも思うのです。穏やかに復縁するということは、この作家に限ってはないのだなあ、と。逆に言えばこの拘泥がこの作家の持ち味というか、この部分をエンタテインメントとして楽しんでしまうべき(もちろんそれはキャッキャウフフと楽しむということではないのだが)なんだろう。
あと、⑦⑧が本当に余分なのです。受けの初恋の人との再会は、なんか微妙に消化不良な気がしたけれど、これはまあ大団円への伏線でもあるのでともかくとして、そのあと更に、攻め親友が主役になっての後日談続編があるのだけれど、これはなあ。親友視点でこんなふうに、受けを批判する必要はあるのかい?親友が受けに不快感を感じているのは、大人で・教師だというのに…という倫理的な批判というよりも、単純なゲイフォビアと・自分が持ったことのない強烈な恋情への嫌悪感、がねっこだったみたいだし。だから、あんまし正当性のある受け批判には感じられないし、メインCPのしあわせに水を差してるようで、これも物足りなさの一因かなあと思います。
それに、このキャラは本編の前半では規範意識をもちつつも差別意識のないよいひとなのかと思ってたのに、なんかガッカリという感じでもあります。
あと本編では女子もすごいひどかったなあ。子供の無知で残酷なゲイ差別、というかなんかもう、人としてそれどうよ、レベルだろう。
絵はデッサンがとれていないが体格よくて悪くない感じ…だが、お話にはあんまりあっていなかったような気がする。